白いオークとボクの名前

帝国妖異対策局

血と泥濘の森

 ボクの名前はキーラだよ。


 大好きなパパの茶色の毛並みと、大好きなママの茶色の瞳を受け継いだ、可愛い可愛い一人娘なんだ。


 ボクの故郷は、森の奥深くにある小さな村だった。


 ボクたち犬耳族の村。


 穏やかで牧歌的な、懐かしい雰囲気の音楽が静かに流れているような、そんなのんびりした空気に満ちた村。


 朝は鳥の声で目を覚まして、昼はパパと一緒に森で狩りの練習。夜はママの作ってくれる温かいスープの匂いがして……。


 それが、ボクの世界のすべてだった。


 ……あの日までは。


―――――――――

―――


 地響き。


 最初にそれに気づいたのは、パパだった。


 それからすぐに、ボクにも家の床が微かに震えているのがわかった。


 やがて遠くから、たくさんの雄叫びが聞こえてくるようになった。


 村の人たちが必死で叫んでいる声も聞こえた。


「オークだ! ゴブリンもいるぞ!」 


「岩トロルまで…! なんて数だ…!」 


 見張り台からの叫び声が、村の平和な空気を引き裂いた。


 パパはボクとママの前に立つと、震えるわたしに言ったんだ。


「大丈夫だ、キーラ。父さんが必ず守る」


 ボクは大きく頷いたけど、でも、パパの声が少しだけ震えていることに気がついた。


 それから村はあっという間に火の海になった。


 岩トロルが丸太を振り回して家を壊し、オークたちが雄叫びを上げながら女たちを追いかける。

 

 ゴブリンの汚らわしい矢が雨みたいに降り注いで……ビーヤーキー族の甲高い鳴き声が、あちこちから聞こえてくる。


 地獄。


 昨日まで笑い声が響いていた場所が、一瞬で地獄に変わった。


 パパは、ボクとママを連れて、他の村人たちと一緒に、裏山の獣道から逃げ出した。


 後ろからは、ずっと魔族の追いかける声が聞こえてる。


「ギャギャッ! ひとりも逃がすな!」 


「キキキ、まず女と子どもを捕えろ!」 


 悲鳴が上がるたびに、一緒に逃げていた村の人が一人、また一人といなくなっていく。


 振り向いちゃだめだ。


 パパに言われたから、わたしは必死に前だけを見て走った。


 でも、追手はすぐそこまで迫っていた。


「キーラ! 母さんを頼む!」 


 突然立ち止まったパパが、ボクとママにそう言った。


「パパ!?」 


「あなた!」 


「ここは俺が食い止める。いいか、キーラ……生きるんだ」


 それが、ボクが聞いたパパの最後の言葉だった。


 ママは、ボクの手を強く握って、必死に崖の方へ走った。


 もう、後ろを振り返ることはできなかった。


 でも、聞こえたんだ。パパの雄叫びと、たくさんの魔族の声を……。


 崖っぷちに追い詰められたとき、ママはわたしを強く抱きしめた。


「キーラ……愛してるわ」


 そう言うと、ママはボクを抱えたまま、崖下の激しい川の流れに身を投げた。


 ずっと流されていくうちに、冷たい水が肺に入ってくる。


 苦しい。


 息ができない。


 苦しくてもがくボクの身体を、ママが必死に水面へ押し上げてくれた。


 流されていく途中、対岸の岩場から一本の木の枝が川に向って突き出しているのが見えた。


 ママは最後の力でボクをそこへ押しやってくれた。


「枝に掴まるのよ!」 


 ボクは必死に手を伸ばして、その枝を掴んだ。


 後ろから、ママの声が聞こえる。


「幸せになるのよ……キーラ……」


 ボクは必死に木の枝を登った。


 登りきって、振り返って、ママに手を伸ばした。


「ママ、捕まって!」 


 でも…。


 そこに、もうママの姿はなかった。


 激しい川の流れが、ボクの最後の家族を飲み込んでいった。


――――――

―――


 それから、ボクは一人になった。


 たった一人で、魔族への復讐だけを誓って森をさまよった。


 そんなときに出会ったのが、魔族狩りをしているっていう人間の冒険者パーティだった。


「へぇ、犬っころのガキが一匹か。魔族を憎んでるって? いいぜ、仲間に入れてやるよ。せいぜい役に立てよ、このケダモノ」


 リーダーの男は、ボクの頭を乱暴に撫でながらそう言った。


 ボクは、人間たちの下で働くことにした。


 魔族を殺せるなら、どんな扱いだって耐えられるって思ったから。


「おい、犬っころ! 飯の準備だ!」 

「はい!」 


「荷物持ち! さっさと歩け、ノロマ!」 

「はい!」 


 毎日のようにコキ使われて罵倒された。亜人族だってバカにされた。理不尽に殴られることもあった。


 でも、ボクは耐えた。


 いつか、すべての魔族をこの手で殺す。


 そのことだけを考えて、必死に耐えたんだ。


 でも、そんな決意も……あいつらに壊された。


 妖異ヒトデピエロ。


 大きなヒトデの化け物が、道化師みたいな気味の悪い色をして、笑いながら襲ってきた。


「くそっ! なんだこいつは!?」 


「ヒィッ! 腕が…!」 


 パーティの仲間が次々にやられていく。


 リーダーの男は、震えるボクを見て、ニヤリと笑った。


「おい、犬っころ! お前の出番だ!」 


 男は、ボクの背中を強く押した。


「お前が囮になれ! その間に俺たちが体勢を立て直す!」 


「そ、そんな…!」 


「役に立てって言ったよなァ!? さっさと行け、このケダモノが!」 


 突き飛ばされたボクは、ヒトデピエロの目の前に転がり出た。


 後ろで人間たちが逃げていく足音が聞こえる。


「あはははは!」 って、甲高い笑い声が聞こえる。


 ヒトデピエロの触手がボクの身体を掴み取る。


 痛い……。


 全身を棘が刺さっているような痛みが駆け巡る。


 だけど痛さも怖さも、そのときのボクを屈服させることはできなかった。


 そのときのボクは激しい怒りと憎悪に燃えていたから。


 パパもママも、故郷のみんなも、何もかも魔族に壊された!


 人間に騙された! 裏切られた! 捨てられた!


 結局、魔族も人間も変わらなかった。


 結局、どちらもボクの敵だったんだ。


――――――

―――

 

 その後、


 必死に抵抗して暴れたおかげで、なんとかヒトデピエロから逃れることができたよ。


「はぁっ…! はぁ…っ…! ぜぇ…っ、はぁ…!」 


 激しい雨が、ひっきりなしに木々を叩きつけてる。


 ボクは泥濘を蹴立てて、必死に足を前に動かす。


 バシャッ、バシャッて、自分の足音がやけに大きく聞こえる。


 木の枝が容赦なく肌を打つ。痛い…。


 遠くで、獣の遠吠えが響いてる気がする。


 立ち止まったらヒトデピエロに追いつかれるかもしれない!


 そう思ったボクの傷だらけの足は、止まることなく歩き続けたよ。

 

「きゃっ…! う…っ、く…!」 


 また足がもつれて、冷たい泥の中に倒れ込んだ。


 バシャッて水しぶきが上がって、顔まで泥だらけだ……。


 身体中が……痛い……。痛いよ、パパ、ママ……。


 肺が張り裂けそう。焼けるように熱い。


 一歩踏み出すたびに、足の裏の傷が泥を噛んで、悲鳴を上げてる。


 もう、どれくらい走ったんだろう。雨で匂いはほとんど消えちゃって、魔物や獣たちの縄張りを避けられているかもわからない。


 でも止まれない。止まったら終わりだから。


 「う…っ!」 


 立ち上がらなきゃ……。


 走らなきゃ…。


「はぁ…っ…はぁ…」


 もう、どれくらい走ったんだろう…。


 雨で匂いも分からない。方向も分からない。


 ただ魔物の縄張りだけは避けたくて、必死に……。


 魔族に捕まったら、どんな目に遭わされるか……。


 村の女たちが言ってた。凌辱されて、喰われるって……。


 そんなの…そんなことになるくらいなら、ボクは!


 …あ…川の音…。


 遠くから、川のせせらぎが聞こえてくる。


 もう、ここまでみたいだ……。


 ここまででいいよね……ボクもう疲れちゃったよ……パパ……ママ……。


 膝から力が抜けて、地面に崩れ落ちた。


「う…っ…ぁ…」


 だめ…。

 

 もう一歩も、動けない…。


 身体中の熱が、雨に全部奪われていく…。


 寒い……。


 これが……死ぬってことなのかな……。


 うん……。


 もう、いいや……。


 ここで終わりなら、もうそれでいい……。

 

 パパ、ママ……ごめんなさい。


 ボク、もう頑張れないや……。


 息が……苦しい……。


 雨と……川の音だけが……聞こえる……。


 川の音……。


 パパとよく釣りをした、村の川の音に似てる……。

 

 パパ……ママ……ようやくボクも……。


 みんなのところに……やっと、いける……ね……。


 おやすみ……なさい……。

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