第1話:桜の歯車
人々は美しきものを渇望する。過ぎ去りし日々にも、今この瞬間にも、そして未だ見ぬ明日にも。英雄への憧れは人々の胸に脈打ち、危機に立ち現れて希望を掲げる者を信じてやまない。小説を読み、アニメに触れ、ゲームに没頭し、現実の報道で深淵と戦う勇者たちを知った私だが、自らが英雄となることを望むかと問われれば、答えは否だ。この世界はどこまでも平凡で、それでいて残酷なのだから。深淵――虚構の物語で幾度も描かれてきた、絶望が希望を飲み込み、苦痛と涙を撒き散らす存在が、今や現実という名の皮膚を被らずに立ち現れている。
それでも人々は希望を紡ぎ続ける。過去の傷跡や疼くような記憶が、いつか夜明けの光を浴びて芽吹き、文明という名の器を超える強さで花開くと信じて。
桜並木の真ん中に佇み、枝々を流れる淡紅色の雲を見上げる。満開の花びらが朝風に乗り、砕けた霞のように玉石敷きの道へ舞い降りる。水色の制服の女生徒が本を抱えて駆け抜けるたび、髪に絡んだ花びらが春の簪のように揺れる。図書館前の芝生は新緑の絨毯を広げ、若草の葉先に宿った朝露が陽光を弾いてきらめく。
園芸部の生徒たちが花壇に彩りを添えている。チューリップの盃とパンジーの蝶が織り成す色彩の河が、青草の香りと土の息吹の中をゆらめく。二階の窓がきしむ音と共に、薄青のカーテンが風を受けて膨らむ。窓辺の多肉植物が翡翠色の新芽をそっと覗かせ、まるで小さな手を差し伸べているようだ。
人工池の水面に浮かぶ早咲きの桜に、錦鯉が口づけをする。金襴模様の尾ひれが水面を撫でるたび、校務員の竹櫂が空を掻き混ぜ、砕けた雲影が波紋を描いて広がる。対岸の音楽室から漏れるピアノの調べに合わせ、バレエシューズを抱えた女生徒たちが木橋を駆け抜ける。その足音に驚いたセキレイの群れが、水面に白いリボンを投げるように舞い上がった。
調理室の甘い香りが生物園の土の匂いと混じり合い、独特の春の芳香剤となる。サッカーボールを抱えた男子生徒たちの笑い声が体育館から溢れ、塀の上のトラ猫が耳をぴくっと立てる。伸びをした猫は屋根瓦の光斑を踏み分け、薔薇の垣根へと消えていった。
時計台の鐘が深い響きを奏で、ムクドリの群れが空に銀のシダの葉を散らす。掌に乗った桜の花びらの露に、目覚めゆくキャンパスの姿がゆらめく――理科棟の風向計がくるりと回り、美術室の窓辺で未乾きの油絵がきらめき、中庭の老いた桃の木が新芽を空へと解き放つ。
教室の扉を開けた瞬間、三列目の机に注ぐ陽光が金色のヴェールを揺らした。窓際の席は光の粒子に満ち、黒板溝のポトスの新芽が透き通った滴を葉先で弄んでいる。
後方の掲示板には、美術委員が桜の花弁で「歓迎」の文字を描き、水彩の燕が壁を駆け巡る。前席の多肉植物が小さなランプのように黄色い花を灯し、講壇に向かって微笑んでいる。
微風が運ぶ桃の香りに混じり、チョークの文字が柔らかな象牙色に輝く。スズメたちが廊下の手すりで首をかしげながら、教室の春景色を覗き込む。
窓辺に挿されたタンポポの綿毛がふわりと舞い、机の上で桜の花びらと出会う。ノートの表紙に落ちた二者が、毛布のような春の模様を紡いでいく。
「おはようございます」
陽だまりで温もった蜂蜜のような声が教室を包む。浅川先生が教材を抱え、朝焼けの中に立っている。ベージュのカーディガンの裾が風に翻り、真珠色のブラウスから漏れる首筋に、小菊のイヤリングがさりげなく輝く。
「浅川由奈です。これから三年間、皆さんと共に過ごさせていただきます」黒板に流れるような筆跡で名前を記すと、ふりむいて微笑んだ。「自己紹介は控えましょうね。時がたてば自然と、皆さんの素敵なところが見えてくるはずですから」その笑顔は桜色の陽光に溶け、柔らかな甘さを放っている。
「そろそろ入学試験を始めます。心の準備は…大丈夫?」先生の言葉に導かれるように、私たちはざわめきながら校庭へ向かった。未知の試験への期待と不安が交錯する中、校長の声が冷たい水のようにざわめきを鎮めた。
「諸君の高揚は理解する」声に重みが増していく。「だがこの試験は命懸けの戦いの予行演習だ。深淵との対峙に安易などという言葉は存在しない」静寂が校庭を覆う。「諸君の安全は十二分に確保しているが――」一呼吸置いてから言葉を継ぐ。「心臓の鼓動を試験用紙に刻む覚悟で臨め」
地響きのような拍手が空を揺るがせた。その音と共に、世界が歯車を回し始める――
「世界は君の呼吸を待っている @eva00801
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