「世界は君の呼吸を待っている
@eva00801
第0話
桜の花びらが舞い散る頃、新たな年度の幕が開けた。講堂三列目の通路際に佇みながら、ドーム天井のステンドグラスが紡ぐ光の斑を数えていた。平凡な私の瞳に映るそのきらめきが、春の麗しさを一層際立たせている。
「新入生の皆さんへ、手帳ですよ」
前方の席でポニーテールを揺らした女生徒が振り返ると、目尻を緩やかに弧を描いて笑った。耳朶に留めた桜の髪飾りに朝露が光り、校門横の早咲き桜と重なって見える。受け取ろうと手を伸ばした刹那、彼女の指先が小鳥のように震え、手帳は掌を掠めて床へ落ちた。
「わ、本当にすみません!」
真紅に染まった頬を必死に俯かせて謝る彼女を制し、私が腰を折ろうとした瞬間、薄青いスカートの裾が水面のような波紋を広げた。背中中央まで滑り落ちたサテンリボン、床に触れる指先と共に揺れる耳朶、バランスを取るため内側に折り曲げられた右足の爪先――その全てに、薔薇窓から漏れる蜜色の光が絡みついていた。
立ち上がって手帳を差し出す彼女に礼を述べると、教壇を叩く靴音が重く響いた。小柄ながら威厳に満ちた老校長が深い眼窩の奥で瞬き、乾いた掌を講壇に置いた。「ようこそ『世界』の胎動へ」絞り出すような低音が、百年分の渇きを湛えていた。「ここで諸君は、自らの可能性を再定義せねばならぬ……」
長広舌に耳を貸さず、私は再び天井の光の戯れに視線を奪われた。ステンドグラスを透過する陽光が、無差別に生徒たちの肩を撫でていく様が妙に印象的だった。
「新入生代表、宣誓」
教頭の甲高い声に現実へ引き戻される。標準制服の男子が硬直した足取りで登壇し、襟元に滲んだ汗が濃紺の制服をさらに暗く染めていた。白く濁った指関節が左胸を打つ音が、マイクを通して鈍く響く。「理性を盾とし、求知を副として……」
ドームの通風口から流れ込むクチナシの芳香が、校歌斉唱と共に頂点に達した。合唱団員の胸章が放つ微光に導かれるように、香気を纏った歌声が石柱の天使彫刻を乳白色に変容させていく。最終音符が薔薇窠に吸い込まれる時、残響と同期した全ての心拍が――十六歳特有の、檸檬サイダーの炭酸が弾けるような共鳴音を奏でた。
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