漆芸、沈金に関する感想

島尾

黒色余白

 まず、絵画は2種類に分けられると思う。余白があるか無いか、である。これは一つの分け方に過ぎず、何何があるか否かという構文を使用すれば無数の分け方が存在することになる。ただ、私は漆塗りのお盆やお椀、板に描かれる絵画においては、どうしても余白がほしい。

 木曽の沈金師の方に実際会って話を聞いたことがある。具体的な話をしてくれたものの、ほとんど忘れた。覚えていることはもちろんあるが、それの1000倍詳しく話してくれたはずだ。それでその人が黒漆で塗った板に金文字の漢字を入れた作品があって、私は文字の隙間に何か奥深いものを感じた。余白は漆が存在しているので、無空間ではない。小さな沈金の加飾が、黒や朱のもつ深みを相対的に際立たせ、また、溝に擦り込まれた金も単なるAuという以上に鋭くかつ柔らかく輝く。


 上で書いた沈金師は小学校で特別授業をやることがあるということを、YouTubeのニュースで見た。黒に金という、私の好みの型が、小学生の手から生まれていた。師に頼りながらとは言え、かなりうらやましい。その前、師の仕事場にリポーターが訪れて師を紹介するパートが流れた。リポーターの嘘臭い驚嘆笑顔は、余白の無い超絶技巧の大作に向けられていた。確かにすごいと、私も思った。だが、巨大な板の上に漆を塗ったのを9割以上削って作成された絵画は、余白がなく、したがって漆の黒いツヤも十分に見出せなかった。私にとって、頭を鋭い何かでカツーンとやられるような漆芸の中の美は、今のところ、余白が9割のものだ。なぜ今のところなのかというと、初めて漆塗りの椀を買ったときに(鳴子温泉のとある漆器屋)、拭き漆という技法によって木目を生かしたものを選んだからだ。それは私が木地の木目に興味を持ったのであり、それをツヤツヤと強調させる透き漆には意識があまり向いてなかったのである。そこから段々と漆の世界に侵入し、漆芸と漆工のごく一端をよくよく味わっているところである。なので、いずれ余白のない大作に魅力を感じるようになるかもしれない。少なくとも、余白がなくてもツヤは本当にすごいということを知っているから、可能性は0でないことは確かだ。


 素晴らしい絵画の基盤には白い紙がある。しかし絵画を鑑賞するときに、そのことは凡人の私には意識できない。ところが漆塗りは逆で、余白はどこに行った? と感じる。私のなんでもない日々は余白だらけの何にも無いものではなく、真逆の、ごちゃごちゃした状態かもしれない。今日、自宅の床の存在に意識を向けた時間は0秒である。他方、夜空に浮かぶ星空の黒色部分に対して、それが無いとなると星も存在しえない。多量の輝点が存在できるように元から黒く塗られているとすれば、塗師はいったいどこにいるのだろうかと思う。

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