第13話
東大路高校に赴任して三年目にもなるのに、いまだに入ったことない部屋はいくつもある。
各教科担当の教室、理科室や音楽室や美術室。
あとは部活に関する場所、プールや柔道場や文化部の部室。
そして今、俺はそれらのどれにも該当しない未踏の地の前に立っている。
ノックをして中からどうぞという声がしたのを確認してからゆっくりとドアをスライドすると、歯医者の受付のような清潔極まれりといった香りが漂ってくる。
覚悟を決めるために生唾を飲み込んで一歩踏み入れると、奥の席に白衣を着た背中が見えた。
白を基調としたどこまでも衛生的な印象を与える室内に空気清浄機が呼吸する音だけが聞こえる。
「あら、橋本先生どうしたんですか」
振り返ったのは鳴海先生。
オフィスカジュアルスタイルのセットアップスーツ姿。
毛先が軽く巻かれた髪も長めのスカートからのぞく脚もすらりと美しい。
「すいません、終業間際のお忙しい時間に来て」
「いえいえ、あとは日誌を書くだけなので全然そんなことないですよ」
鳴海先生は開いていたノートをぱたりと閉じて耳に髪をかける。
「で、どうしました? お腹でも痛いですか?」
この人も人が悪い。
あの件があって俺がやって来たというのに。
「いや、そうじゃなくて。ちょっとお話したいことがありまして」
「お話ですか……ちょっと待ってくださいね。あついお茶でも淹れますね」
鳴海先生の周りだけゆっくりとした時間が流れているのかと錯覚するほどにこの人はいつも落ち着いている。
椅子からゆっくりと立ち上がって、ケトルに水を注いでスイッチをポチり。
流れるような動作で急須と茶葉が入ってると思われる筒を手にして、一度振り返る。
「ほうじ茶と煎茶がありますけど、どちらにしましょうか」
「煎茶でお願いします」
「もう夕方なんで寝れなくなっちゃわないように少し薄めにしておきますね」
小さな匙で少し掬って急須にいれる。
さらっとこういう気づかいが出来る人って、きっと丁寧な暮らしとかしてんだろうな。
きっとオシャレな部屋でさ、いい匂いのする棒がいっぱい立ってるやつとか置いてさ。
「橋本先生で二人目です」
「え、何がですか」
「今日、体調も悪くもないのに保健室に来た人です」
「というのは」
「坂本さんも来たんですよ。お昼休みに」
呆れたような顔をみせてから鳴海先生は続ける。
「橋本先生は悪くないんですって。あたしのわがままに付き合ってもらってただけなんですって」
あいつ。
「いや、俺が悪いんです。いつでも日花里……坂本を突っぱねることは出来たんですけど、保身のためというか、生徒を甘やかしてしまったというか——」
「聖職者たる教師がルールを破り一部の生徒だけ特別扱いをするなんて言語道断です。ましてや男性教師と女生徒が人目のつかない屋上で二人きりなんて不純です」
「……返す言葉もないです」
「……とまでは言わないですけど、問題行動ですよね。見つかったのが他の人だったら、今頃どうなっていたことやら」
カチッ。
「あ、お湯が沸きましたね」
鳴海先生はパチンと胸の前で手を合わせてから立ち上がってケトルからお湯を注ぐと、室内にうっすらと茶葉の香りが広がる。
笑顔とともに持ってこられた湯飲みとお茶請けの最中が置かれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
気まずい間を埋めるために出されてすぐの湯気がしっかりとたつ湯飲みに口をつける。
ずずず。
「どうですか、お口にあいますか?」
「あ、えっと……かなりおいしいです。なんかこう品があるといいますか、いい意味で後味が残らない感じで」
「わかりますか。流石です。これ京都の宇治のお茶なんです。友達からの貰い物でちょっといい奴みたいなんです。たまに仕事終わりに飲んでるんですけど、なんだかホッとする味ですよね」
「そうですね……」
「あ、ごめんなさい。話の途中でしたね」
鳴海先生はコホンと咳払いをしてから話を戻す。
「橋本先生は坂本さんのことどれくらい知ってるんですか?」
「どれくらいですか……三年の生徒で成績はかなり良い方で紙飛行機好きで、変な雑学いっぱい持ってて、なんかつかみどころのない奴で」
「なるほど。じゃあ、どうして紙飛行機を投げてるかは知らないんですか」
「以前に訊いたことがあるんですけど、まだ関係が浅いからって断られました」
「じゃあ理由も知らずに坂本さんが紙飛行機を投げるのを見てたんですか」
「初めはただの紙飛行機が好きな変なJKくらいに見てたんですけど、徐々に何か理由があるんだろうなって思えてきて」
言いながらこれまでの日花里のことを思い出す。
「バックネットまで紙飛行機を飛ばしたいと言うのに作る紙飛行機はいつも素人が作るようなヘンテコなやつばかりなんですよ」
「坂本さんは紙飛行機に詳しくはないとか」
「いや、世界記録を作った紙飛行機の折り方も知ってるし、色々と紙飛行機について明るい方です」
「なるほど」
「きっと彼女の中にルールみたいなのがあってその範囲内で且つバックネットまでって考えてるみたいなんですよ。だれがどう考えても馬鹿げてる。そんなことを受験生の大事なこの時期にやっている。きっと何かあるんですよ」
「それで、橋本先生が今日来た目的は何ですか」
「10月いっぱい。10月の間だけは日花里……坂本に紙飛行機を投げさせてやってくれませんか」
気付いたら俺は頭を下げていた。
「ちょっと、なんですか。そのお願いは……ぷっ」
至って真剣な俺を前に鳴海先生は破顔してクスクスと笑った。少し前まで張り詰めいた空気は一気に弛緩する。
「いや、俺は真剣なんですけど」
「それはわかってるんですけど、大の大人が紙飛行機のために頭下げるのってなんか頓珍漢な感じがして。おかしくて、笑っちゃってごめんなさい」
「いや、謝らないでください。でも、なんか恥ずかしいです」
「良いですよ、黙っておきます。見なかったことにします。十月いっぱいはもう屋上にも行きません」
「すいません。こんなバカげたことに巻き込んで」
「二人だけの秘密ですね」
「そういう言い方されるとなんかアレですけど」
「アレってなんですか?」
鳴海先生は前のめりになって俺の顔をのぞき込んでくる。
「そ、それより……このお茶本当に美味しいですね!!」
「……宇治の煎茶ですし」
急にぷいと顔を背けた鳴海先生。
俺、何かした?
鳴海先生は最中をもぐもぐ。
「鳴海先生は坂本のことをどれくらい知ってるんですか」
「あ、知らないですか? 二年の頃は坂本さんは不安定でよく保健室に来てたんですよ。色々と相談にのったりもしてましたよ」
「なんか出席日数もギリギリだったとか」
「そうですねぇ。高校生って身体や知識、おおよその部分は大人と変わらないのに、心に関して言えばまだまだ子供なんですよ。成長期に入って背はグングン伸びたり声が変わったりするんですけど心の成長はそんなに早くないんです。だからまだまだ自分が世界の中心だと思ってる子がいたり、ちょっと何かが上手くいかないと世界の終わりみたいに感じちゃう子もいるんですよね」
たしかに中学や高校の頃って謎の全能感があったり、自分の地元がすべてだったなぁ。
周りのどんな大人より一つ上の先輩の方が恐かったし、好きだった子に彼氏が出来たのを知った時、一日中何も食べずに枕を濡らしたっけ。
いや、思い出しただけで顔から火が出そうだ。
「周りの大人がどれだけ理屈で説明したところで本人たちにとっての世界は学校と自宅を半径とした円くらいの広さで、徐々に見えてくる現実とか複雑になっていく人間関係とかで悩む子が多いんですよ。坂本さんの場合は少し違いますけど」
「両親が離婚されてる」
「あ、知ってるんですね」
「最初、俺に日花里って名乗ったんですよ。で、後になって中山に訊いたら親が離婚していて今は坂本だって聞きました」
「それじゃあお父さんのこともご存じなんですか」
「え?」
「坂本さんのお父さん、去年の夏に亡くなってるんですよ」
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