第2話◇奇蹟の再会◇
俺は【志藤克明】
会社員になって数年。仕事には慣れたが、まだまだ半人前の社会人だ。
世間的に一流と呼ばれる大企業に就職した俺は、厳しいながらもやり甲斐のある仕事の毎日に奔走していた。
仕事仕事の毎日であるが、俺はこの充実した日々に満足しながら、しかし心のどこかで物足りなさを感じていた。
満足していると言い聞かせ、満たされない自分を誤魔化していたのだ。
なぜなら、俺には今だ心に残っている恋人が、いなくなってしまった恋人がいるからだ。
【月宮加奈子】
俺の元恋人。いや、俺の中で、まだ彼女は"元"ではなかった。
高校生から始まって、大学2年に差し掛かる時まで順調に付き合っていた彼女だったが、突如として別れ話をしてきた。
彼女から突然メールが来て、別れて欲しいと言われた。
【他に好きな人ができたから別れてほしい】
その一文だけが添えられて。
俺は、顔も知らない誰かに大切な人を寝取られてしまった。
予兆はなかった。当然納得など出来る筈もない。
俺が女の子の変化に気付くことすらできない大マヌケ野郎だという可能性は否定できないが、それでもなんの予兆もなかったのだ。
そしてすぐに行方不明になった彼女。
何かあったに違いないと、俺はひたすら探し回った。
真実は分からない。結局確かめる機会もなく時間は過ぎ、俺は社会人になった。
それから更に数年。
何度か探偵に再依頼するものの、やはり見つかることはなく、いつしか彼女を探すことにも諦めが生じかけていた。
現実的に考えて、俺は捨てられてしまったのだろう。
そんな考えをするようになっていたのだ。
その恋人が今、目の前にいる。
消え入るような声で紡ぎ出す彼女の願いを聞き入れない理由など、俺の中には一ミリも存在しなかった。
「克明君……もう一度、彼女にしてくれません……か……?」
顔をグチャグチャに泣きはらして、傘も差さずにずぶ濡れの姿は居た堪れない。
その縋るような壊れた笑顔を見て、のっぴきならない事情があることは容易に想像できた。
その訴えを俺は即座に受け入れた。
「当たり前じゃないか……加奈ちゃんは、ずっと俺の恋人だ。あの頃から、俺の気持ちは全然変わってない」
俺は今の気持ちを正直にぶつける。
別れ話をされてたって、俺はそんなの信じてない。
加奈ちゃんの気持ちだって、あの頃から変わってないと信じたかった。
弱気にもなった。諦めそうにもなった。
それでも、加奈ちゃんがいつか帰ってきてくれると信じて、自分を高め続けてきた。
その努力が、この瞬間に報われたような気がして思わず声が上ずってしまう。
だが、そんなに喜んでばかりもいられない。
彼女の憔悴の仕方は、尋常では無かった。
「風邪を引く。中に入って」
とにもかくにも……、俺は彼女を自分のアパートに招き入れた。
タオルを渡しながら風呂場へと案内し、風呂を沸かして入浴を促す。
「とにかくシャワーを。石けんやタオルは分かるところに置いてある。お風呂沸かすからゆっくり温まってね」
ずぶぬれになった身体を冷やさないようにエアコンを高めに設定する。
「うん、ありがとう……」
彼女は、虚ろな目をしたままヨロヨロと風呂場へと入っていく。
あまりにも危なっかしいので心配になって身体を拭くのを手伝おうか申し出たが……。
「裸は、見られたくないの」
憔悴しきった目には生気がなく、今にも死んでしまいそうなほど危なっかしい。
どんな意図があって拒絶の言葉を口にしたのか分からない。
やはり彼女にしてくださいというのは何かと言い換えでそのままの意味ではないのだろうか。
もう彼氏ではない男には裸を見られたくないのだろうか。
一瞬だけそんな不安がよぎったりもしたが、どうにも違うという予感がする。
普通ではない精神状態であることは間違いないので、俺はショックを隠しつつそこに触れることなく脱衣所を後にした。
それからしばらく……。
シャワーの音が鳴り止むことはなく、彼女は30分以上も出てこなかった。
心配になって様子を見に行ったが、バスルームのタイルに打ち付けている水音に混じって、しゃくり上げるような
何があったのかは分からない。だが、傷付き、憔悴しているのは間違いない。
俺はそんな彼女の心の支えになりたかった。
別れた理由は何だったのだろうか。
彼女にとって、俺が負担でしかなかったというのなら諦めも付く。
だが、事情も何も説明することなく、彼女は俺の前からいなくなってしまった。
どうやら今の彼女を見ていると、決して嫌われて別れたわけではなさそうだ。
並々ならぬ事情があったのだろう。新しい彼氏でもいて、何かあったのだろうか。
単なる痴話ゲンカ程度ならしばらく置いてあげれば良いだろう。
自信のなかった俺は一瞬だけそんな風に弱気な考えがよぎったりしたが、この様子ではそんな生やさしいレベルではなさそうだ。
そうでなければ、常識的に考えてあれだけ一方的に別れを告げた彼氏の元へいきなり戻ってくるなんてあり得ない。
ましてや開口一番、寄りを戻したいなんて言わないだろう。
加奈ちゃんはそんな身勝手な女性ではなかった。
俺は嬉しかった。どういう理由なのかは不明だが、それでも彼女が最後に縋ってくれたのが俺であったことが、何よりも嬉しかった。
そうであるならば、"もう一度彼女にしてください"という言葉を疑うことなく信じることができる。
考え事をしながら待ち続け、数十分が経過する。
やがてバスルームの扉が開く音がして、俺が貸し与えたスウェットを着込んだ加奈ちゃんが戻ってくる。
「お風呂、ありがとう……」
「ああ……冷えるからコタツに入ると良いよ」
「うん……」
「加奈ちゃん、これ……」
「ぁ……そ、それ……まだ持っててくれたんだ」
クローゼットから引っ張り出してきたのは、かつてこの部屋に寝泊まりするときに彼女が使っていた"どてら"だった。
ファンシーなゆるキャラのプリントが刺繍された女の子らしいデザインのそれは、男が着るものではなく、可愛いものが好きな加奈ちゃん専用としてここに置いていたものだ。
加奈ちゃんは手渡したどてらを受け取り、何かを噛み締めるようにギュッと抱き締める。
「嬉しい……ありがとう克明君」
彼女が風呂に入っているあいだ、俺は実家から持ってきてまったく使っていなかったコタツ布団を引っ張り出して、コンセントを急いでセッティングしておいた。
じんわりと暖かくなったコタツの中で、加奈ちゃんが小さな肩を寒そうに震わせる。
長袖シャツに厚手のセーター。下はスウェットを着込んだ彼女はコタツに入って暖を取る。
流石に替えの下着はなかったので、大急ぎで乾燥機にかけた。
彼女の下着は、フリルとレースをふんだんに使ったハイレグショーツであり、およそ普段使いするものとは思えないデザインだ。
ぶっちゃけて言うと勝負下着のようなとんでもなくエロいものだった。
一瞬だけ頭をよぎったのは、扇情的な自分をアピールする職業。そのための下着……。
彼女がここに入る前に着ていたスパンコールドレスと組み合わせて、どうしても想像してしまうのはそっちの方面、『夜の店』というワードだった。
そんな馬鹿なと頭を振っても、以前よりもグラマラスになった彼女の胸が、大きめサイズの俺のシャツを大きく押し上げているのを見ると、どうしても想像してしまう。
「お茶煎れてくるから、少し待ってて。紅茶でいい?」
再会したばかりの女性をいきなり性的な目で見てしまうなんてしてはいけない。
どうしても目が行ってしまうほど、本当に驚くほど綺麗になった彼女だが、今の精神状態を見る限り、そういうことをする気分にはなれないし、男として間違っているような気がする。
「……うん……ありがとう……私の好み、覚えててくれたんだ」
「もちろんだよ。ちゃんと加奈ちゃんが好きだったアッサムのミルクティーだから」
その言葉に、少し安心感を覚えたのか、彼女の口元が微かに微笑んだ。
加奈ちゃんが好きだったミルクによく合う甘い香りのアッサムティー。
俺自身も普段から飲んでいたので常備していて助かった。
牛乳を温め、琥珀色のミルクティーができあがっていく。
加奈ちゃん専用のマグカップに注いだ飲み物をお盆にのせる。
「あったかい……」
「ゆっくり温まってね」
「うん……ありがとう……」
マグカップで手のひらの暖を取りながら香りを楽しんでいる加奈ちゃんを横から見守る。
正直……なんて声をかけて良いか分からない。
加奈ちゃん自身も気持ちのやりどころに困っているのか、カップを握り絞めながら沈黙を続ける。
ずっと下を向いて黙り込んでいる彼女を無理に急かすことなく、俺は彼女にお茶を出しながら落ち着くのを待った。
「……」
「……」
長い長い沈黙。彼女は紅茶が入ったマグカップを持ったまま俯いて動かない。
根気よく待ち続けた。
きっと、無理に聞いてはいけない。そんな予感がしたのだ。
変に関係ない話題を振って誤魔化すのも違う気がする。
だから俺は待った。彼女が何かを話したくなるまでひたすらに。
明るい話題を求めるならそれに応えてあげればいい。
焦れていることを態度に出してもダメだ。
ここは安心して休める場所だと。
苦しいことを考えなくてもいいんだと、彼女に安心してもらうために、穏やかな空気をできるだけ心がけなければ。
やがて、長い長い……本当に長かったその沈黙を破って、彼女は口を開いた。
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