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 今日は店を休みにして(無論誰にも相談しない。僕に相談する人間はいない)町へ出た。マユミは悲しむだろうか。そうだといいな。

 外は糠雨が降っている。傘を忘れてしまった。ほんの少し戻れば間に合うのに僕は引き返さない。通りはどこも水溜まりで靴はぐずぐず、眼鏡はぽたぽたと雨粒に覆われる。冷たい空気に胸の穴が疼く。店の外は嫌いだ。だが日が差していないから呼気は軽い。

 しばらく行くとマユミの家がある。古いアパートの一○三号室だ。誰も居ない室内には畳と粗末な鏡台があって、僕はその引き出しを漁った。中には赤、赤、白――そして、青?色もとりどりの化粧品がぎっしりだ。特に綺麗な小瓶を取り出して眺めてみる。光を透かせば玩具のようで、蓋を開ければ僕の知っている匂いがする。彼女の匂い――血を吸って痩せ肥えた吸血鬼の匂いが辺り一帯に弥漫した。

 窓外のさらさらした雨音に眠気を覚え、僕は出されたままになっていた彼女の布団で寝ることにした。それなのに、いざ潜ってみてもさっきの匂いが纏わりついて寝るに寝られない。もぞもぞ動き回っていると、ふと、布団の中に読みさしの本が残されているのを見つけた。あはぁ――これは、聖書だ。マユミの奴、聖書なんか読んでたんだ。貞淑なフリだって、ここまでくれば見事なもんだな――僕は布団から出て、もういっぺん化粧品を嗅いでみた。僕の知っている匂いと、僕の知らない匂い。やっぱりそうだ。マユミは吸血鬼で、僕はもうすぐ死んでしまう(明日のことなど煩うな)。僕は我慢ならなくなって、一息に飛び出した。


 何度も転びそうになりながら、這う這うの体で駅前までやってきた。ベンチに積もった雨粒を手で除けようとしたが上手く行かず、そのまま腰かければ尻の辺りが少し凍みる。火を着けようとした煙草は全部湿気ていて、諦めた僕はライターの蓋を何度かかちかちやった。ポケットに戻す。辺りに他の音は聞こえなくて、普段は賑わう公園(噴水だってあるんだぜ)なのに!今は僕だけが観客だ。うんと大きな欠伸をひとつやって――僕は聖書を開いた。適当に頁を繰る(福音、福音、福音の洪水だ。なんだってこれがありがたいことなんかあるのかしら)。整列した文字に目を凝らしていると、おかしいな、彼らが――あれ、ほうぼうへ(あらぬところへ)滑ってゆくぞ――水を吸った重い外套に締めつけられ、僕の身体は眠りに落ちた。


 僕はベンチから転げる。ベンチから穴ぐらへと転げる。

 深い穴ぐらだ。不思議の穴より深く、上と下とそれだけがわかる僕は頭を下にして底へたどり着かない。黒い臓物が足を掴んだが(決して減速しなかった)。

 僕は頭を強か打った。


 五時の鐘が鳴った。僕はベンチに座ったまま、雨雲はどこかへ消え失せたが、膝の上には聖書がぐしゃぐしゃに濡れていた。頁同士がひっついて、文字は透けて判読できない。(乾かせば使えるかな)面倒だし捨ててしまおう。どうせ僕の金で買ったもんじゃなし、近くの屑籠に放って、早く着替えないと風邪を引いてしまうからそそくさと帰った。

 帰路、嘆息が喉にへばりつく。僕のいない間、マユミは店に来たろうか。来たろうな。もし店で寝ていたなら起こしてもくれたろうに(止めてくれ、すっかり弱気なんだ)、僕は涙でずぶ濡れになりながらここにいる。助けてくれてもいいじゃないか。金。金と血だ。僕は金のため、マユミは血のため、二人は牙と牙を噛合せている。そうだ。初めっから僕が吸血鬼だったんだ(だからどうした、可哀想な吸血鬼さん?)。

 主――主、聞いていますか。僕が明日を煩うのに、彼女が今日を煩わないことはありますまい。僕はきっと、彼女を許しても構いませんね?

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吸血鬼 夏融 @hayung

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