里子は自分の住んでいるところを教えなかった。
春風秋雄
またあの女性と会った
今日もあの女性と同じ電車になった。地下鉄の乗り換えのたった一駅なのだが、俺が電車に乗り込むと、その女性は駆け足でドアが閉まるギリギリに乗ってきて、俺の横に立つ。二人とも次の駅で降りるので、ドアの近くに立つことが多く、週に1~2回会う程度だが、俺はその女性のことを覚えてしまった。というのもその女性はいつも文庫本を開いているのだ。乗り換え前の電車でずっと読んでいたのだろうが、そのまま本を持って乗り換え、たった一駅の2分くらいの時間も本を開いている。よほど本が好きなのだろう。しかも見るたびに違う本を持っているので、かなり早いペースで本を読んでいることが伺える。ブックカバーをしない人で、基本的に表紙カバーも外して本体だけにして読んでいる。表紙カバーを外して読む人はそれほど多くないが、通勤電車で読む際は理にかなった読み方で、立って片手で読む際はページをめくりやすく、カバンに入れてもカバーがズレたり痛んだりしないというメリットがある。読み終わった本を綺麗に保管したい人は新品同様のカバーを付けて保管が出来るということだ。しかしその女性の場合は、そういうことではなく、単純に古本屋でカバーのない安い本を買って読んでいることが多い。本体自体が汚れていたり、紙がよれよれになっている本の時もあるのだ。そしてカバーをしたまま読んでいる場合の多くは図書館の印字がされている本である。つまりお金をかけずに、より多くの本を読もうとしているのだ。よほど本が好きなのだろう。年の頃は40歳前後だろうか?右手は右肩に掛けたショルダーバッグの紐を持ち、左手で本を開いているので、その人の指が自然と目に付く。とても綺麗な指をしている。そして本を持つ手の薬指には指輪はない。次の駅に着くと、女性はいつものように右側の階段を上っていく。俺は真っすぐ進んで違う出口へ向かった。
俺の名前は富永雅也。43歳のバツイチ独身だ。妻と別れてもう10年近くになる。子供はいなかったので、お互い別々の人生を歩むことになったが、俺はそれ以降結婚というものに対して魅力も必要性も感じなくなった。老後は独りで過ごし、できたら体が動く間にお金を蓄えて老人ホームにでも入ろうと考えている。かといって女性に興味がなくなったと言うわけではない。離婚してからも何人かの女性と付き合った。その都度「俺には結婚する意志はない」と告げていて、それでいいという女性とだけ付き合った。しかし、多くの女性は、最後は結婚したいと言い出し別れるということを繰り返している。
俺も読書は好きで、幸い俺の家の最寄り駅は始発なので、1本見送れば座ることができる。だから通勤時間は読書をするようにしている。しかし、あの女性と違って俺は乗り換えでは本はカバンにしまっている。あの女性が読む本はすべて小説だった。かなり古い本もあれば、最近のベストセラーの本もある。俺が読んだことのある本も何回か見かけた。本の趣味は俺と似ているのかもしれない。
その日俺は乗り換え前に読んでいた本を読み上げてしまった。帰りの電車では座れないので本は読まないが、明日のために何か買っておかなければと思った。乗り換えの駅に着くまでの時間は仕方なくスマホでネット記事をみて時間をつぶす。やっと乗り換えの駅に着き、いつものように電車を乗り継ぐと、あの女性が乗ってきた。今日も本を開いている。俺はふと思いつき、カバンからさっき読み終わった本を取り出した。
「すみません。この本、まだ読んだことがなければ読みませんか?さっき読み終えたのですけど、結構面白かったですよ」
いきなり話しかけられた女性は驚いて俺を見た。そして俺が差し出した本を見る。おそらく読んだことがないのだろう。おずおずと手を出して、本を受け取った。
「ありがとうございます。読ませてもらいます」
「返さなくていいですから、読み終わったらそちらで処分されて結構です」
俺がそう言ったとき、電車が駅に着いた。そして二人は人の波に流されるように各々の出口へ向かった。
2日後にその女性と会った。俺が先に電車に乗っていると、いつものように発車間際に駆け足で乗り込んできた。そして俺の顔を見るとハッとした顔をした。女性はカバンを漁り、1冊の本を出した。
「この前はありがとうございました。とても面白かったです。お礼にこの本を差し上げます。私が今まで読んだ本で一番好きな本です。すでに読んでいたら申し訳ないのですが」
女性が差し出した本は、真新しい表紙カバーがついていた。おそらくわざわざ買ってきたのだろう。タイトルを見たが読んだ記憶がない。
「ありがとうございます。面白そうですね。読んでみます」
女性はホッとしたような顔をして自分の本を読み始めたが、すぐに駅に着いた。俺たちは何も言わずお互いの出口へ向かった。
女性からもらった本は非常に面白く、最後は感動で涙が出た。初めて読む作家だったが、この作家の他の本も読んでみたいと思った。俺は、本棚にその本を差し込み、代わりに保管していた本の中から1冊抜き出した。俺は基本的には読み終わった本は古本屋に売ったり、友人にあげたりして処分しているが、気に入った本だけは本棚に保管している。今抜き出したこの本は俺が読んだ本の中で一番だと思っている本だった。俺は翌日からその本をカバンに入れて持ち歩くようになった。
その本を持ち歩くようになって3日目に、あの女性に会った。俺はすかさずカバンから例の本を取り出した。
「この前頂いた本、とても感動しました。ありがとうございます。今度は私の一番のお気に入りの本を読んでみてください」
俺はそう言って例の本を差し出した。女性はニコッと笑って、素直に受け取った。
次に会ったとき、女性はこの前俺が渡した本を返してきた。
「とても素敵な本でした。大事にされていた本だと思うのでお返しします」
俺は差し上げるつもりだったと言おうとしたら、女性が言葉を続けた。
「中に私の感想を書いた紙をはさんでいます。良かったら読んでください」
そう言われて、俺は素直に受け取った。
俺は昼休憩に女性からの感想文を読ませてもらった。非常に深い読み方をしている。主人公のこの言葉にはこういう意味も含まれていたのではないかとか、女性のあの行動は同性として共感できるとか、俺では気づかないことも書かれていた。そして最後に女性の名前とLINEの連絡先が記されていた。俺はこの女性の読書力に興味を覚えた。いままで本についてこれほど熱く語った女性は俺の周りにはいなかった。俺は早速LINEでメッセージを送った。
女性の名前は内海里子さんといった。メッセージで、自己紹介をしたあと、良かったら食事でもしながら話しませんかと誘うと、今日でも大丈夫だということだったので、仕事終わりの19時に会う約束をした。同じ駅で降りるので仕事場は近いだろうと思い、駅の近くでどうかと問うと、内海さんは乗り換えの駅から近い店を指定してきた。
「ごめんなさい。職場に近い場所の方が良かったのでしょうけど、あまり会社の人に会いたくなかったので」
内海さんはそう言い訳した。確かに男性と一緒のところを見られてはあらぬ噂がたつかもしれない。俺の方が配慮が足らなかったと謝罪した。
「本がお好きなのですね。かなり前からお見受けしていましたが、いつも本を読んでいらした」
「ずっと私のことを見ていたのですね。私は声をかけてくださるまで富永さんのことは気づきませんでした」
「あれだけ本に夢中になっておられたら、周りのことは見ていないでしょうね」
お互いに自己紹介を兼ねて会社の大まかな場所などを説明すると、二人の職場は駅をはさんで東西に反対方向だった。
お酒は好きらしく、日本酒がずらっと並んでいるこの店は入ったことがなく、一度入ってみたかったのだということだった。
二人は本の話で盛り上がった。今まで読んだ本を次から次へあげて、相手が読んでいない本に関してはその良さをネタバレしない程度に熱く語り、二人とも読んだことのある本に関してはとことん意見を言い合った。内海さんは自分が読んだ本のことはよく覚えていた。俺は記憶を呼び起こさなければいけなかった。
気が付くと、時間はあっという間に流れ、10時になろうとしていた。俺たちはまた会って話しましょうと言って店を出た。
その日以来、俺たちは電車で会うと笑顔で挨拶を交わすようになった。内海さんは俺と会ったときは本を開かず、「今はこれを読んでいます」と言って表紙を見せる。俺もカバンから本を出して「私はこれ」と言って表紙を見せるということをし、俺は読み終わった本があれば内海さんに渡すようになった。内海さんもそれからは古本ではなく新品で買うようになったようで、読み終わった本を俺にくれるようになった。
朝の通勤時は特に時間を合わせることはしなかったが、連絡を取り合って週に1回は会って食事をするようになった。何回かそうしているうちに、本だけではなく映画も好きだという話になり、今度一緒に映画を観にいこうと言って、休みの日に映画にいくことになった。
選んだ映画は、原作が直木賞をとった作品で、二人とも原作は読んでいた。あの物語を役者がどのように演ずるのか、とても興味があった。女性と二人で映画を観るなんて、何年ぶりだろう?年甲斐もなく胸がドキドキしていた。映画はとても良い出来だった。ストーリーはすべて知っているのに、観ているうちにどんどん引き込まれていく。俳優の演技に感動せざるをえなかった。
映画が終わり、食事へ行く。話ができる場所が良いということで、半個室の焼肉屋に入った。一頻り観てきた映画の話で盛り上がったあと、学生時代に流行った映画の話になった。俺は内海さんとはそれほど年が離れていないと思っていたのに、少し時代が違うなと感じた。
「内海さん、失礼ですけど、今おいくつなんですか?」
「今年37歳です」
俺はてっきり俺と2~3歳しか違わないと思っていたが、6歳違っていた。思ったより内海さんは若かった。
「そうですか。じゃあ、私と6歳違うんですね」
「富永さんは43歳なのですか?」
「ええ」
「ご結婚はされているのですよね?私なんかと映画を観に来てよかったですか?」
「結婚は1度しましたけど、10年くらい前に離婚しました」
「そうだったのですか」
「内海さんは、ご結婚は?」
「独身ですよ。若い頃はそういうことを考えた相手もいましたけど、この年になるともう結婚はどうだっていいなと思うようになりました」
「そうですか。私は一度失敗して、結婚の魅力も必要性も感じなくなりましたね。だからもう結婚はする気はありません。年老いて動けなくなったら老人ホームに入ろうと思っています」
「老後なんて、まだまだ先の話なのに、もうそこまで考えていらっしゃるのですね」
食事が終わり、俺たちは店を出た。最寄りの駅へ向かって並んで歩いていると、内海さんが何気ないように聞いてきた。
「富永さんは、結婚はされないといいましたが、恋人は作らないのですか?」
「結婚をしないことを前提に付き合ってくれる女性がいれば良いのですが、なかなかそういう女性はいないですからね」
「私は結婚しない前提でも、ぜんぜん構いませんよ」
俺は思わず内海さんの顔を見た。内海さんはすました顔で前を向いている。俺は歩く方向を変えて、ホテル街へ向かった。内海さんは何も言わずついてきた。
「本当に結婚のことは気にしなくていいのですね?」
ことが終わってから確認するのはずるいなと思いながらも、裸で横に寝ている内海さんに俺は聞いた。
「大丈夫ですよ。私、こういうことをする相手は何年もいませんでした。結婚を諦めてしまってから、外見を気にすることもなくなり、男性も近寄ってこなかったんです。富永さんも私を見て実際の年齢より3つ4つ老けて見えたのではないですか?」
実際にそうだったが、俺は何も言わなかった。
「でも、この何ヶ月か、富永さんと一緒に過ごす時間が増えて、久しぶりに女に戻りたいと思ったのです。ただそれだけですから、結婚なんて気にしなくていいですよ」
「でも、これから付き合っていく中で、結婚したいという気持ちが出てくることもあるんじゃないですか?今まで付き合った女性の多くはそうでしたから」
「その人たちはどうなされたのですか?」
「話し合って別れることにしました」
「そうですか。私は自分でそういう気持ちが出てきたら、富永さんの前から消えます」
「消える?」
「はい。話し合うって、結局別れ話をするということでしょ?そんなの悲しすぎます。だから、あたかも私は最初からいなかったかのように、消えます。もしそうなったときのために、私の住んでいるところは教えないことにします」
そういえば、会社の大まかな場所は聞いたが、会社の名前は聞いていない。知っているのは会社の最寄り駅と駅を出てからの漠然とした方向。そして乗り換えの駅だけだ。乗り換えの駅は3本の線がある。何線に乗っているのかも知らない。携帯電話の番号を変えてしまったら、俺には連絡をとる手段はない。
内海里子は、俺と付き合うようになって、とても綺麗になった。最初会った時は、年より老けて見えていたのが、今は逆に30代前半かと思えるくらい若く見える。里子との交際は、俺にとってとても理想的なものだった。最初の数回こそ、会うたびにホテルへ行って体を重ねたが、俺としてはゆっくりお酒を飲みながら様々な話をするのが、とても心地よかった。毎週末に会うようにしているが、ついつい話し込み、時間がなくなってしまい、最近ではホテルに行くのは2回に1回といったペースだった。
「離婚したのはどうしてなの?」
ベッドの中で唐突に里子が聞いてきた。
「簡単に言えば、一緒にいることに疲れたということかな」
「疲れたってどういうこと?」
「新婚の頃はお互い好きで結婚したから、そんなことは思わなかったけど、だんだん二人でいる生活に慣れてくると、思ったことが言えなくなってきたんだ。少し気になったことを注意すれば不機嫌になるし、不機嫌になれば会話もギクシャクして空気が重くなる。そんなのが度重なると、だんだん相手の機嫌を損ねないように気をつかうようになってきた。今これを言うとまずいかなとかね。そういう生活に疲れたんだ」
「お互い好きで結婚したのに、どうしてそんな関係になっちゃうんだろうね?」
「ちゃんとうまくやっている夫婦もたくさんいるよ。でも俺はダメなんだよな」
「私といるときも気をつかっている?」
「里子には気をつかってないな。それは里子との相性なのかもしれないし、一緒に暮らしていないという安心感かもしれない。気まずくなれば今日は帰るねと言って自分の家に帰れば良いわけだから、そういう安心感があるのは確かだね。とりあえず今までそういうことはなかったけど」
里子は「なるほどね」と言ったきり、それ以上この話には触れなかった。
里子と会う時、待ち合わせ場所は、いつも乗り換えの駅の近くだった。里子は自分の住んでいるところは教えないと言っているので、俺も自分の家は教えなかった。どこか遠くへ行っても、直接各々の家へ帰ることはせず、いつもの乗り換えの駅まで戻ってから別れることにしていた。一度美術館に一緒に行ったが、そこは俺の家から近かった。美術館の最寄りの駅からなら二駅で帰れる場所だったが、里子と一緒に乗り換えの駅まで戻ってから家に帰った。だからデートは遅くとも11時には乗り換えの駅に戻って終了ということにしていた。
里子と付き合い始めて1年が過ぎたころ、めずらしく里子が「今日は泊りたい」と言い出した。
「そんなこと言うなんて、珍しいね」
「雅也さんと目覚めのモーニングコーヒーを飲んでみたくなったの」
その言葉を聞いて、俺は一瞬嫌な予感がした。結婚を迫られるのではないかという嫌な予感ではない。里子が本気で俺のことを好きになってきているというのは感じていた。それはそれで構わなかった。俺も里子のことは好きなので、嬉しく思っていた。問題は、里子は結婚したいという気持ちが出てきたときは、俺の前から消えると言っていたことだ。俺は今のままの関係をずっと続けていきたかった。里子とはまだ別れたくないと思っていたのだ。
シティーホテルに泊まった俺たちは、朝目覚めるとルームサービスでモーニングセットを頼んだ。里子がカーテンを開ける。部屋がパッと明るくなった。運ばれてきたモーニングセットをテーブルで食べる。起き抜けの化粧もしていない里子だったが、俺は綺麗だなと思った。
モーニングセットを食べ終わった里子が、ゆっくり俺のそばにきて、俺の手をつかむ。そしてベッドに連れて行こうとする。
「どうしたんだい?」
「もう一度しようよ」
里子はそう言って、俺を抱きしめベッドに押し倒した。
その翌日から、里子と連絡が取れなくなった。電話をしても、LINEをしても応答がない。俺の嫌な予感は当たったのかもしれない。出勤するのに、少し早めに家を出て、乗り換えの駅のホームで待っていたが、乗る車両を変えたのか、出勤時間を大きく変えたのか、里子の姿を見つけることはできなかった。
俺は、自分自身に言い聞かせた。これで良かったじゃないか。今まで付き合った相手と、そういうことは何度もあったじゃないか。俺は結婚しない男なんだから。
しかし、俺の気持ちの中には今までの女性とは違う言いようのない喪失感があった。
俺は里子と連絡をとる方法は何かないかと考えた。しかし、何も思い浮かばなかった。考えに考えた末に出した俺の結論は、里子と会う方法は、駅しかないということだった。
俺はたまっていた有給休暇を1週間とった。
どんなに時間を変えようが、会社を辞めない限りあの電車を使うことは間違いない。だからポイントとなるのは、乗り換えのホームか、電車を降りたホームか、それともいつも里子が階段を上がっていた出口か、どこかで待っていれば里子と会える。ホームは広すぎるし、通勤時間帯の改札は人が多すぎて見逃す可能性が高い。出口で待つのが一番可能性としては高いと思った。俺はいつも里子と会っていた時間の1時間前に着くように電車に乗った。里子が使っていた改札は出口が2か所に分かれている。しかし、道路を挟んでいるだけだから、1か所でどちらの出口も見ることが出来る。俺は南側の出口を出たところで待った。しかし、いつも里子が使っていた電車の1時間後まで待ったが、無駄だった。見逃したということはないとは思うが、ピークの時間帯は大勢の人が出口から出てくるので、見逃した可能性もないことはない。しかし、おそらくもっと早い時間に来ているのだろう。翌日俺は始発電車に乗った。同じように待ったが、やはり里子は現れなかった。出口も変えたのだろうか?俺はもう一度改札を通り、ホームに立ってみた。俺たちが乗っていた車両は前の車両の方だったが、後ろの車両に乗った場合はまったく違う出口へ向かう。明日はこっちで待ってみようか。こっちの出口も階段を少しあがったところで道路の手前に出る出口と、道路の向こう側へ出る出口に分かれている。とりあえず明日は手前の道路に出る出口で待っていることにした。
翌日、始発電車に乗って昨日確認した出口で待っているが、一向に里子は出てこない。いくら何でも時間が早いのでもう少し遅い時間かもしれないと思ったとき、ふと道路の向こうを見ると、里子と思われる女性が歩いているのが見えた。ジッと見てみると、間違いない。俺は大声で呼ぼうかとも思ったが、俺に気づいて逃げてしまう可能性もある。信号が変わるのを待って、俺は走って道路を渡った。すると、里子は少し先のコーヒーショップに入った。俺は走るのをやめて、歩きながらコーヒーショップに向かった。時計を見ると、いつも俺たちが電車を降りていた時間より1時間ほど早い。コーヒーショップの前まで来て、ウィンドー越しに中を見ると、コーヒーを買った里子はテーブルに座って本を開いていた。そうか、ここで本を読んで時間をつぶしていたのか。俺はゆっくりと中に入った。コーヒーを買って里子の前に行く。
「ここ、よろしいですか?」
俺が声をかけると、里子が俺を見た。その顔には驚きと戸惑いがまざった表情が浮かんだ。俺は里子の返事を待たずに座る。そして、カジュアルなショルダーバッグから本を2冊取り出して差し出した。
「これ、もう読み終わった本。よかったら読んでください」
里子は何も言わず本と俺の顔を交互に見ている。
「大事な話があるのですが」
「何ですか?」
「私と結婚してください」
里子が今度こそ驚いた顔をした。
「結婚はしないのではなかった?」
「里子なら、気をつかわず言いたいことが言えると思う。何より、里子となら、何年一緒に暮らしていても絶対に楽しいと思うから」
里子は何も言わずジッと俺の顔を見ている。その視線が俺の顔から下に移り、俺の服装を見た。スーツ姿ではなく、カジュアルな服装が気になったのだろう。
「今日は仕事ではないの?」
「1週間有給休暇をもらった。月曜日から毎朝この駅の出口で里子を探していた」
里子の顔がゆがんだ。今にも泣きそうな顔をしている。
「それで、さっきの返事を聞かせてもらえないかな?」
「そんなの、OKに決まってるじゃない」
そう言った里子はスマホを取り出し、電話をかけ始めた。
「あ、内海です。おはようございます。申し訳ないですが、家の事情で、今週いっぱいお休みさせて頂きます」
それだけ言って電話を切った里子は、コーヒーを一口飲んだ後、俺に言った。
「さて、どこへ行く?」
「そうだな。まずは、里子の家かな」
里子が嬉しそうに笑った。
里子は自分の住んでいるところを教えなかった。 春風秋雄 @hk76617661
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