第3話「凍てつく絆」
札幌に来てから一週間が過ぎた。日に日に寒さは増し、雪は膝下まで積もるようになっていた。
「これが北の冬か…東京じゃ考えられないな」
留守宅の窓から外を眺めながら、私は溜息をついた。窓ガラスは内側から結露し、外側は霜で覆われている。その向こうに見える世界は真っ白だ。
この家は思いのほか長く留守のようで、私にとっては理想的な隠れ家となっていた。しかし、家に残されていた食料も底をつき始めている。外に出て食料を調達しなければならない。
私は窓の結露を爪でなぞりながら考えていた。カレンダーによれば、今日は「燃えるゴミの日」。前回の経験から、これが最も食料にありつけるチャンスだ。
「行くか…」
私は身構えて玄関のドアの横にある小さな通気口から外へ滑り出た。マイナス15度の冷気が毛皮を突き抜ける。足が雪に埋まり、動くたびに「キュッキュッ」という乾いた音が響く。
住宅街は早朝の静けさに包まれていた。街灯の明かりが雪面に反射し、不思議な青白い光景を作り出している。除雪車が通った跡は小さな雪の壁となって道路脇に積み上げられ、私にとっては迷路のようだった。
「まるで別の惑星にでも来たみたいだ」
私は呟きながら、目的地のゴミステーションへと向かった。前回の経験から、ヤマトたちカラス軍団と遭遇する可能性を考慮して、少し早めに到着するようにした。
ゴミステーションには既に数袋のゴミが置かれていた。しかし、カラスの姿はない。「ラッキーだ」と思いながら、私は素早く最初の袋に手を伸ばした。
その瞬間、雪の中から何かが飛び出し、私の前に立ちはだかった。
「そのゴミに触れるな」
鋭い声に、私は思わず後ずさった。そこに立っていたのは、私と同じアライグマだった。しかし、私より小柄で、首元に消えかけた首輪の跡がある。メスのアライグマだ。
「これは俺の縄張りなんだが」私は体を大きく見せようと毛を逆立てた。
「縄張り?」メスのアライグマは冷ややかに笑った。「札幌では縄張りなんて意味をなさない。生きるか死ぬか、それだけよ」
彼女の言葉には、長い間この地で生き抜いてきた者特有の冷徹さがあった。
「君は…?」
「ミウ」彼女は簡潔に答えた。「小樽の港で生まれた。お前が東京から来た奴だと聞いている」
「ラスクだ」私は警戒しながらも名乗った。「カラスから聞いたのか?」
「カラスからも、チロからも、情報屋のヒソカからも」ミウは周囲を警戒するように素早く視線を動かした。「噂は早いわ。特に外来種の東京者となれば」
「じゃあ、このゴミステーションは君の…」
「違う」ミウは言葉を遮った。「縄張りの概念は忘れろと言ったでしょ。ここは誰のものでもない。ただ、今日は私が先に来た」
彼女の姿勢には譲る気配がなかった。争いは体力を消耗するだけだ。別の場所を探した方が賢明だろう。
「わかった、他を当たることにする」
私が立ち去ろうとしたとき、ミウの声が再び聞こえた。
「ちょっと待って」
振り返ると、彼女は少し表情を和らげていた。
「このゴミ袋、結び目が複雑で開けられないの。お前、東京でそういうの得意だって聞いたけど」
これは思いがけない展開だった。不思議に思いながらも、私は袋に近づいた。確かに、この結び方は普通ではない。何重にも複雑に結ばれている。
「北の人間も、だんだん学習してるな」私は呟きながら、前足の器用な指を使って結び目に取り掛かった。
「そのようね」ミウは冷静に観察していた。「カラス対策を進化させてる。特に札幌市鳥獣被害対策課が新しい方法を指導しているわ」
「小田切守というのが責任者だって?」
「よく知ってるじゃない」ミウは少し驚いた様子を見せた。「彼は徹底している。札幌中の『害獣』を根絶するつもりよ」
私の指が器用に結び目をほどいていく。最後の一つを解くと、袋が開いた。
「これで良し」
中から香ばしい匂いが漂ってきた。魚の切れ端や、野菜のくず、そして少し古くなったおにぎり。札幌のゴミは東京より冷たいが、中身は豊かだ。
「分けよう」私は提案した。
ミウは少し戸惑ったように見えたが、すぐに実用的な判断をしたようだ。
「いいわ。今日は協力して、効率よく集めましょう」
私たちは素早く作業を分担した。私は袋を開け、ミウは中身を分類する。彼女の動きは無駄がなく、長年の経験が感じられた。
「君は随分と長く生きてるようだな。札幌の冬を何度も越えたのか?」
「五回」ミウは簡潔に答えた。「最初の冬は辛かった。でも学んだわ。冬を生き抜くには準備と知恵が必要だってことを」
「教えてもらえないか?」私は率直に尋ねた。「正直、このままでは冬を越せる自信がない」
ミウは作業の手を止め、私をじっと見つめた。
「なぜ助けるべきなの?外来種が増えれば、私たちの食料は減る」
「取引だ」私は即答した。「俺には東京で培った技術がある。君には北の知恵がある。互いに足りないものを補い合えば、生存率は上がる」
ミウは少し考え込むような仕草をした後、小さく頷いた。
「一理あるわ。でも信用はしていないから。一日ごとの取引よ」
「それで構わない」
その時、遠くから人間の声が聞こえてきた。早朝のゴミ出しが始まる時間だ。
「もう時間ね。今日の収穫はこれで十分」ミウは素早く辺りを確認した。「明日、モエレ沼公園の南側で会いましょう。日の出直後に」
私が何か言う前に、彼女は食料を抱えて雪の中に消えていった。その素早さと効率的な動きに、私は感心せざるを得なかった。
---
約束の場所、モエレ沼公園へと向かう途中、私は思わぬトラブルに直面した。
留守宅を出て間もなく、除雪作業をしていた人間に見つかってしまったのだ。
「おい、アライグマだ!」
男性は除雪用のスコップを持ったまま、私を指さした。スマートフォンを取り出し、何やら操作を始める。おそらく通報しているのだろう。
「まずい」
私は素早く動き、住宅の間の細い隙間に滑り込んだ。雪に足跡が残るのが不利だ。何とか追跡を振り切るため、屋根の上や塀の上を伝って移動した。
20分ほど複雑な経路で逃げ回った後、ようやく追跡を振り切ることができた。しかし、方向感覚を完全に失ってしまった。
「どっちがモエレ沼公園だ?」
辺りを見回すと、ここは住宅街から少し離れた地域のようだ。小さな川が凍りついて流れている。
「豊平川かな?」
チロが言っていた川だ。この川をたどれば、どこかに出られるだろう。私は慎重に凍った川の上を歩き始めた。
川沿いを30分ほど歩いたとき、私は突然、氷の割れる音を聞いた。足元の氷に細かいヒビが入り始めている。
「やばい!」
私は素早く岸に向かって飛び退いたが、間に合わなかった。氷が割れ、私は冷たい水の中に落ちた。
「うわっ!冷たい!」
必死に泳いで岸にたどり着いたが、全身が濡れてしまった。この気温では、濡れた体はすぐに凍りつく。体温を急速に失っていく感覚がある。
「このままじゃ…死ぬ…」
私は震えながら、近くに避難できる場所はないか探した。少し先に人間の家が見える。裏庭に小さな物置があるようだ。
力を振り絞って物置まで辿り着くと、幸いドアに小さな隙間があった。中に滑り込むと、そこは園芸用品などが収められた狭い空間だった。
「とにかく…体を…乾かさないと…」
物置の中を探ると、古いタオルや布のようなものが置かれていた。必死にそれらを体に巻き付け、体を温めようとした。しかし、すでに体の震えが止まらない。意識も朦朧としてくる。
「このままじゃ…」
そのとき、物置のドアが開いた。驚いて振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。
「あっ…」
少年は驚いた表情で私を見つめていた。年齢は高校生くらいだろうか。細身で、どこか物静かな印象を受けた。手にはスケッチブックを持っている。
危険を感じた私は身構えたが、動くことさえ困難だった。少年は暫くじっと私を観察していたが、突然家の中へと戻っていった。
「捕まえに来るのか…」
絶望的な気分で待っていると、少年が再び現れた。しかし今度は、タオルとドライヤーを持っていた。
「大丈夫だから…」
少年は優しい声で話しかけてきた。恐る恐るタオルを差し出し、私の反応を待っている。
通常なら逃げ出すところだが、この状況では選択肢がない。私はおずおずとタオルに近づいた。
少年は驚くほど手慣れた様子で、私の体を優しく拭き始めた。そして、少し距離を置いてドライヤーの温風を当ててくれた。
「カズナリ、何してるの?」
家の中から女性の声がした。
「なんでもない!自転車の雪落としてるだけ!」少年—カズナリと呼ばれた—は素早く答えた。
驚いたことに、彼は私を隠そうとしている。敵ではなく、味方になってくれるのか?
カズナリは続けて私の体を乾かし、さらに小さな毛布のようなものを持ってきて、物置の隅に敷いてくれた。
「ここにいるといいよ。夜になったら…もっと暖かいところに移動しよう」
そう言うと、彼はポケットからチョコレートの欠片を取り出し、私の前にそっと置いた。
「食べられるかわからないけど……」
私は警戒しながらも、思わずそれに鼻を近づけた。
甘い匂いに記憶がよみがえる。東京で、人間の落としたチョコを口にしたことがある。
でも、その後しばらく気分が悪くなった。父に言われたっけ——「チョコは毒だ、絶対に食うな」と。
「……気持ちだけ、受け取っておくよ」
私は欠片からそっと顔をそらし、礼を言った。
「ありがとう……でも、これは食べられないんだ」
もちろん、私の言葉は彼には伝わらない。そして、カズナリはスケッチブックを開き、鉛筆で何かを描き始めた。
驚いたことに、それは私の姿だった。流れるような線で、濡れた毛皮や、疲れた表情までも見事に捉えている。
「君は…動物を描くのか」
カズナリは黙々と描き続けた。彼の表情は集中していながらも、どこか穏やかだった。人間と目があったのは初めてだが、彼の目には敵意や恐怖はなく、純粋な好奇心と優しさが見えた。
「カズナリ!ご飯よ!」
再び家から声がした。
「はーい!」カズナリは応え、スケッチブックを閉じた。「夜にまた来るね」
そう言って、彼は物置を出て行った。ドアはわずかに開いたままにしてくれた。
彼が去った後、私は毛布にくるまりながら考えた。人間は敵だと思っていた。特に北海道では、アライグマは「害獣」として駆除の対象だ。しかし、このカズナリという少年は違った。
「面白い奴だな…」
体も温まり、意識がはっきりしてきた。状況を整理してみると、モエレ沼公園でミウとの待ち合わせに行けなかった。彼女は怒っているだろうか。
外はすでに暗くなり始めていた。北海道の冬の日は短い。カズナリが戻ってくるまで、ここで休むことにした。
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夕食後、カズナリは約束通り物置に戻ってきた。今度は小さな容器に入った食べ物と、水の入ったお椀を持ってきていた。
「これ、食べられるかな?」
容器の中には魚の切れ端や野菜、そしておにぎりの欠片が入っていた。彼の夕食の残りだろうか。
私は恐る恐る食べ物に近づき、一切れを口にした。新鮮で温かい。ゴミあさりでは絶対に味わえない贅沢だ。
「うまい…」
私は夢中で食べ始めた。カズナリはそれを見て微笑んでいる。
食事が終わると、彼は再びスケッチブックを開いた。今度は色鉛筆も持ってきていて、私の肖像に色を付け始めた。彼の表現する私の毛並みの色は、茶色と灰色が絶妙に混ざり合っていた。
描きながら、カズナリは小さな声で話し始めた。
「実は、前から動物のスケッチをしてるんだ。特に野生動物が好き」
彼は自分の言葉が通じないことを知っているはずなのに、まるで友達に話すように私に語りかけてくる。
「学校では『動物フリーク』って言われてるけど…気にしないようにしてる」
彼の言葉には寂しさが滲んでいた。おそらく、人間の世界でも居場所を見つけられていないのだろう。それは、私のような「害獣」と共通している。
「でも、動物たちは正直だから好きなんだ。人間みたいに裏表がない」
彼はページをめくり、これまで描いた動物たちのスケッチを見せてくれた。キツネ、タヌキ、カラス、猫…様々な動物が、生き生きと紙の上に息づいていた。
「住んでた東京じゃあんまり野生動物見れなかったけど、札幌に引っ越してきてからは、いろんな動物に会えるようになったんだ」
彼の話から、彼が最近札幌に引っ越してきたことがわかった。私と同じく、この土地では「よそ者」なのだ。
時間が経つにつれ、外の気温はさらに下がっていた。カズナリはそれを心配したようだ。
「このままじゃ寒すぎるよね。家の中に…入る?」
彼の提案に私は驚いた。人間の家の中に招かれるなんて。
「親は今、出張で留守なんだ。明後日まで帰ってこない」
彼は立ち上がり、家の裏口を指さした。「来る?」
私は迷った。人間の家に入るのは危険だ。それは父の教えだった。しかし、この寒さでは物置でも生き延びるのは難しい。そして、このカズナリという少年には不思議な信頼感があった。
ゆっくりと、私は立ち上がった。カズナリは嬉しそうに微笑み、裏口へと先導してくれた。
家の中は驚くほど暖かかった。床暖房が入っているのだろうか。あまりの温かさに、私の体から力が抜けていくのを感じた。
「二階の僕の部屋がいいかな」
カズナリに導かれ、私たちは階段を上った。彼の部屋は整理整頓され、壁には様々な動物の絵が貼られていた。机の上には参考書が積まれている。
「ここなら安全だよ」
彼はクローゼットの中に小さな布団を敷き、「ここで休んで」と促した。
私は恐る恐るクローゼットに入った。柔らかい布団の感触に、思わず体が沈み込む。こんな贅沢な寝床は初めてだ。
「おやすみ」
カズナリはそう言って、クローゼットのドアを少し開けたままにして、自分のベッドに横になった。
暗闇の中、私は考えていた。人間との共存。それは可能なのだろうか。チロやミウは警戒するだろう。小田切守のような人間もいる。しかし、カズナリのような人間も存在する。
「面白い…」
私は小さく呟いた。札幌での生活は、想像もしなかった方向に進んでいる。明日、どうやってミウと連絡を取ろうか。彼女は心配しているだろうか、それとも「また一人死んだな」と冷淡に考えているだろうか。
そんなことを考えているうちに、温かさと疲労で、私の意識は徐々に遠のいていった。
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朝、私は物音で目を覚ました。カズナリが学校の準備をしている音だ。
「起きた?おはよう」
彼は制服に着替えながら微笑んだ。机の上には、私のための食べ物と水が用意されていた。
「今日は学校があるから、夕方まで帰ってこれないんだ。でも、ここにいていいよ。誰も来ないから」
彼は部屋の窓を少し開け、「空気の入れ替えも必要だからね」と言った。心配りが細やかな少年だ。
「行ってくる。夕方にはちゃんと帰ってくるから」
そう言って、カズナリは部屋を出て行った。しばらくすると、玄関のドアが閉まる音がした。
家に一人残された私は、まず食べ物に手をつけた。昨夜よりも豪華で、卵焼きの切れ端まである。「これは贅沢だな」と思いながら食べ終えると、部屋の中を探索し始めた。
カズナリの机の上には教科書や参考書が整然と並んでいた。壁には動物の絵だけでなく、自然保護に関するポスターも貼られている。彼は環境や動物に強い関心があるようだ。
本棚には生物学や野生動物に関する本が並んでいた。その中に一冊、「北海道の外来種問題」という本を見つけた。ページをめくると、アライグマの項目があった。
「北米原産のアライグマは、ペットとして輸入された個体が遺棄または逃亡し、野生化。在来の生態系を脅かす存在として、積極的な駆除が行われている」
私は複雑な気持ちでその文章を読んだ。そこには、アライグマが引き起こす「被害」が詳細に記載されていた。農作物の食害、在来種の捕食、家屋への侵入…。
「俺たちはこんなに嫌われているのか」
そして、その本の余白に、カズナリの字で小さくメモが書かれていた。
「外来種は悪くない。環境を変えたのは人間だ」
その言葉に、私は少し救われた気がした。
窓から外を見ると、雪が再び降り始めていた。モエレ沼公園は遠い。今日中に行けるだろうか。ミウはまだ待っているだろうか。
ふと思いついて、部屋の窓を開け、外に出てみた。屋根の上から周囲を見渡すと、遠くに公園らしき場所が見える。あれがモエレ沼公園かもしれない。
「行くべきか…」
迷いながらも、私はカズナリの家を後にすることにした。窓は少し開けたままにしておいた。戻ってこれるように。
雪の中を慎重に進み、公園へと向かった。1時間ほど歩いたところで、ようやくモエレ沼公園の入り口に辿り着いた。
公園は広大で、雪に覆われていた。イサム・ノグチという人間が設計したという山や彫刻が雪の下から顔を出している。
「ミウ…どこにいる?」
南側を探しながら進むと、突然背後から声がした。
「やっと来たわね」
振り返ると、そこにはミウが立っていた。彼女の表情には怒りより、むしろ安堵の色が見えた。
「待っていてくれたのか」私は素直に驚いた。
「…ええ」ミウは少し照れたように視線をそらした。「約束したでしょ。それに…」
彼女は言葉を切った後、急に表情を引き締めた。
「昨日、小田切の部下たちがこの辺りをパトロールしていたわ。アライグマの目撃情報があったらしいの」
「それは俺だな。見つかりかけた」
「無茶しないで」ミウの声には珍しく感情が滲んでいた。「この時期に濡れたら死ぬわよ」
彼女の心配に、私は驚きつつも嬉しさを感じた。
「なんとか助かった。人間に助けられてな」
「人間に?」ミウは疑わしげに眉をひそめた。
「カズナリという少年だ。俺のような『害獣』を助けてくれた」
「信用しない方がいいわ」ミウは即答した。「人間はいつか必ず裏切る」
その言葉に、彼女の過去の傷が見え隠れした。首の消えかけた首輪の跡。彼女もまた、人間との関わりで傷ついた過去があるのだろう。
「今は、冬を生き抜く方法を教えてほしい」私は話題を変えた。
ミウは少し考えてから、頷いた。
「まず、住処よ。永続的な場所が必要」
「今は留守の家に住んでいる」
「それはいずれ使えなくなるわ」ミウは冷静に分析した。「古い建物や使われていない場所を探すべき。特に暖房設備の近くがいい」
彼女は続けて、食料の確保法、体温維持の方法、そして何より、小田切の罠を避ける方法を教えてくれた。
「最近の罠は高度よ。匂いで誘い込み、GPS付きの首輪を自動的に装着する仕組み」
「なんてこった…」
「だから、異常な匂いのする場所には近づかないこと。特に魚の腐った匂いには要注意」
彼女の実践的なアドバイスは、私にとって文字通り命綱だった。話しながら、私たちは公園内を移動し、ミウが知っている安全な場所を回った。
雪の降る公園を歩きながら、私は少しずつミウのことを知っていった。彼女は小樽の港で生まれ、子供の頃に人間に捕まった経験がある。首輪をつけられ、ペットとして飼われていたが、逃げ出して野生に戻った。
「だから人間が嫌いなの」ミウは静かに言った。「自由を奪われることほど恐ろしいものはないわ」
「自由か…」私は考え込んだ。「でも、完全な自由はあるのか?東京でも、札幌でも、俺たちは人間の作った環境の中で生きている」
「それでも、自分の意志で動ける。それが自由よ」
その言葉には説得力があった。私たちの会話は、次第に哲学的な方向へと向かった。ゴミあさりをする私たちが、人間の廃棄物に依存していることの皮肉。野生でありながら、完全な自然には戻れない存在。人間と野生の狭間で生きる私たちの立ち位置。
「これが北の流儀だな」私は雪を踏みしめながら呟いた。
日が傾き始め、冷え込みが厳しくなってきた。ミウは公園の片隅にある小さな倉庫を指さした。
「今夜はここで過ごしましょう。明日、別の場所を見せるわ」
倉庫の中は、園芸用具や除雪機が置かれていたが、隅には誰かが作ったと思われる巣がある。古いボロ布や紙で作られた、意外と居心地の良さそうな空間だ。
「誰かの巣だが…」
「心配しないで」ミウは中に入りながら言った。「ここはみんなの避難所よ。緊急時には共有するの」
私も中に入ると、確かに暖かかった。外の冷気が遮られ、互いの体温で温まる狭い空間。
「さて、明日からが本番よ」ミウは巣に横になりながら言った。「本格的な冬の準備をしないと」
「何が必要なんだ?」
「まず、食料の備蓄。次に、複数の避難経路の確保。そして…」
話しながら、ミウの声はだんだん小さくなり、やがて静かな寝息に変わった。彼女は疲れていたのだろう。私を探して長時間待っていたのかもしれない。
私は彼女の寝顔を見つめながら考えていた。初めて会った時の冷たさはどこへ行ったのか。彼女の中にも、孤独と仲間を求める気持ちがあるのだろう。
「ありがとう…」
小さく呟いて、私も目を閉じた。外では雪が静かに降り続けていた。
---
翌朝、私たちは早くに倉庫を出た。ミウは私に様々な場所を案内してくれた。
「ここは商店街の裏。飲食店が多いから、食べ物の廃棄も多いの」
「ここは図書館の裏の空調設備。温かい空気が出ているでしょう?」
「ここは市役所の倉庫。誰も来ないけど、暖房は切れないの。非常時の避難場所よ」
彼女の知識は本当に豊富だった。札幌の街を知り尽くしているようだ。
「すごいな」私は感心した。「これだけ知っていれば、冬も乗り越えられそうだ」
「知恵と準備があれば、どんな冬も生き延びられるわ」ミウは少し誇らしげに言った。
昼過ぎ、私たちは住宅街に戻ってきた。カズナリの家も見えてきた。
「あれが、人間の少年の家だ」私は指さした。
ミウは警戒した様子で家を見つめた。「本当に信用していいの?」
「わからない」正直に答えた。「でも、彼は違うような気がする」
ミウは不満そうな表情を浮かべたが、何も言わなかった。
私たちが橋を渡っていた時、突然、声が上から聞こえてきた。
「やあ、東京者!見つけたぞ、Indeed!」
見上げると、橋の欄干にヤマトが止まっていた。高慢な態度はそのままだが、敵意は感じられない。
「ヤマト、久しぶりだな」
「心配したぞ。昨日は姿を見せなかった」ヤマトは翼を広げながら言った。「しかし、噂通り、ミウと組んだようだな」
「組んだわけじゃないわ」ミウは即座に否定した。「一時的な協力関係よ」
「Whatever you say」ヤマトは英語を混ぜながら笑った。「いずれにせよ、情報がある」
ヤマトの情報によると、市の害獣対策チームが明日から新たな作戦を開始するという。小田切守自らが指揮を執り、アライグマの捕獲率を上げるための新型罠を仕掛けるらしい。
「今回の作戦は『冬眠前一掃作戦』というらしい」ヤマトは深刻な表情で言った。「冬に入る前に、できるだけ多くの『害獣』を一掃する計画だ」
「どこから聞いた?」ミウが鋭く質問した。
「市役所の窓から。小田切と彼の上司の会話をね」ヤマトは得意げに言った。「我々カラスは、英語も日本語も理解できるのだよ」
「そうか、ありがとう」私は頷いた。「で、どの地域から始めるんだ?」
「まず豊平川流域と、モエレ沼公園周辺だ。そして順次、住宅街へと広がる」
その情報は私たちにとって命に関わる。モエレ沼公園は昨夜私たちが寝た場所だ。あのまま居続けていたら、危険だったかもしれない。
ヤマトは更に続けた。「また、興味深いことに、小田切の作戦に反対する人間もいるようだ。遠藤美雪という女性ジャーナリストがね」
「遠藤美雪?」
「環境問題を追っているライターだ。彼女は『外来種を一方的に悪者にするな』というキャンペーンを始めている」
これは意外な展開だった。人間の中にも、私たちの味方がいるのか。
会話を終えて、ヤマトは空へと飛び去った。彼とミウの間には微妙な緊張関係があるようだったが、今は共通の危機に直面している。種を超えた協力関係が必要な時だ。
「どうする?」ミウが私に尋ねた。
「避難場所を変えるべきだな。安全な場所はあるか?」
ミウは少し考え込んだ。「一つだけ、ほとんど知られていない場所がある。でも…」
「でも?」
「そこへ行くには、かなり危険な道を通らなければならないわ」
ミウの言う「危険な道」とは、市の中心部を横断するということだった。人間の活動が最も活発な場所を通り抜けるのは、捕まるリスクが高い。しかし、回り道をすれば、罠が仕掛けられる可能性がある場所を通ることになる。
「直接行こう」私は決断した。「時間の無駄は許されない」
ミウは躊躇した様子だったが、最終的に同意した。「日が暮れてから行きましょう」
その日の残りの時間、私たちは周辺の食料を集めた。夕方になると、カズナリが学校から帰ってくるのが見えた。彼は家に入る前に、辺りを見回している。私を探しているのだろうか。
「あの少年が助けてくれたの?」ミウが小声で尋ねた。
「ああ。思いがけない親切だった」
「気をつけて」ミウは警告するように言った。「優しさには必ず代償がある」
彼女の言葉には、過去の痛みが感じられた。かつて彼女も、人間の「優しさ」に騙されたのかもしれない。
日が落ち、街に明かりが灯り始めた。私たちの危険な横断の時間だ。
「行くわよ」ミウが前に立ち、私を導いた。
私たちは影から影へと素早く移動した。街中は人間で賑わっていた。仕事帰りの大人たち、買い物をする人々、食事をする家族連れ。彼らの足元をすり抜けるように、私たちは進んでいく。
「あそこ!」
突然、人間の男性が私たちを指さした。「アライグマだ!」
「走って!」ミウが叫んだ。
私たちは全力で逃げ出した。男性は携帯電話を取り出し、誰かに通報している。おそらく害獣対策課だろう。
混乱の中、私とミウははぐれてしまった。私は路地裏に飛び込み、そこから塀を乗り越え、住宅の裏庭へと逃げ込んだ。
「ミウ!どこだ!?」
返事はない。彼女は別の方向に逃げたのだろうか。それとも捕まってしまったのか。
私は高い木に登り、周囲を見渡した。パトカーのサイレンが遠くに聞こえる。市の職員らしき人々が、懐中電灯を持って辺りを探している。
「まずい…」
このままでは見つかる。私は木を降り、さらに先へ進むことにした。地図で見た記憶を頼りに、ミウが言っていた安全な場所を目指す。
途中、何度か人間にあやうく見つかりそうになったが、なんとか逃げ切った。そして、一時間後、ようやく目的地に辿り着いた。
それは古い廃棄物処理場だった。使われなくなった建物と機械が、雪の下から顔を出している。周囲は塀で囲まれ、人の気配はない。
「ここか…」
私は慎重に中に入った。内部は意外と広く、様々な部屋がある。中には、かつて事務所だったと思われる場所もあった。
「ミウ…来ているか?」
小さな声で呼びかけたが、返事はない。彼女はまだ到着していないのか、それとも別の場所に隠れているのか。
不安な気持ちで、私は事務所の中に入り、古いソファの下に身を潜めた。体力を消耗し、寒さで震える体を少しでも休ませるためだ。
「無事でいてくれ…」
ミウのことを心配しながら、私は疲れた目を閉じた。
---
目を覚ますと、外はすでに明るくなっていた。ソファの下から這い出て、周囲を見回す。
「ミウ?」
静寂が返ってくるだけだ。彼女はまだ来ていない。それとも、もう来て、私を見つけられずに去ったのだろうか。
私は建物の中を探索することにした。この廃棄物処理場は、思ったより大きく複雑だ。事務所棟、処理施設、倉庫、そして広大な敷地。すべてが雪で半ば埋もれている。
探索の途中、私は意外な発見をした。この場所には私たち以外の動物も住んでいたのだ。リスの一家、フクロウの巣、そして地下の配管にはネズミの大家族。彼らは互いに干渉せず、それぞれの空間で生活していた。
「まるで動物王国だな…」
そして、施設の最も奥まった場所で、私は彼を見つけた。チロだ。
「チロ!?」
エゾタヌキは驚いた様子で振り返った。「おう、東京者じゃないか。生きてたのか」
「君こそ、ここで何を?」
「冬の避難場所さ」チロは説明した。「手稲山流域が危険になってな。ここなら安全だと思って来たんだ」
「ミウを見なかったか?メスのアライグマで、首に首輪の跡がある」
「いや、見てねえな」チロは首を振った。「お前一人か?」
私はミウとはぐれた経緯を説明した。チロは真剣に聞き入り、時折頷いていた。
「小田切の新作戦か…」チロは物思いにふけるように言った。「昔からいた『害獣対策』とは違う。あいつは本気で根絶やしにする気だ」
「何が彼をそこまで駆り立てるんだ?」
「聞いた話では、数年前に自宅がアライグマに荒らされたとか。元々は自然保護活動家だったらしいが、自分の家が被害に遭ってから180度方針転換したらしい」
個人的な恨みか。それなら尚更、簡単には諦めないだろう。
「ミウを探さないと」私は立ち上がった。「協力してくれないか?」
チロは少し考えてから頷いた。「いいだろう。俺もこれ以上犠牲者を出したくはない」
私たちはその日一日、交代で外に出て、ミウの姿を探した。しかし、手がかりはなかった。
夕方、絶望的な気分で廃棄物処理場に戻ってきた私を、思いがけない光景が待っていた。
「遅いわね」
ミウが事務所の椅子に座っていた。少し痩せた様子だが、無事だ。
「ミウ!」私は思わず駆け寄った。「無事だったのか!」
「ええ」彼女は少し照れたように目をそらした。「逃げるのに時間がかかったの。小田切の部下たちに追われて、遠回りして来たわ」
その時、チロも戻ってきた。「おう、会えたじゃないか」
「チロ?」ミウは驚いた様子だ。「あなたも来てたの?」
三匹が集まり、それぞれの状況を共有した。この廃棄物処理場は、思った以上に安全な場所のようだ。人間はほとんど近づかず、様々な動物にとっての避難所になっている。
「ここを拠点にしよう」私は提案した。「冬を越せる場所だ」
「賛成」チロが頷いた。「ただし、ルールが必要だ。この場所の平和を守るためにな」
ミウも同意した。「みんながここに来るかもしれないわ。特に市の作戦が本格化すれば」
私たちは、廃棄物処理場での生活ルールを決めた。食料の共有方法、縄張りの区分け、そして何より、人間への対応策。これが私たちの小さな共同体の始まりだった。
「『廃墟王国』と名付けよう」私は言った。「ここは私たちの王国だ」
「王様気取りか?」チロは鼻を鳴らした。
「いいえ、それは悪くないわ」ミウが思いがけなく賛成した。「私たちの王国。人間に追われる者たちの、最後の砦」
三匹は窓から外を見た。日が沈み、空には星が輝き始めていた。雪はさらに激しく降り、世界を白く染め上げていく。
厳しい冬が始まろうとしていた。しかし、今は一人ではない。仲間がいる。それだけで、希望があった。
「これが北の流儀ってやつか」私は小さく呟いた。「独りじゃなく、共に生きる」
ミウが小さく微笑み、チロはぶっきらぼうに頷いた。私たちの「凍てつく絆」は、この極寒の夜も確かに温かかった。
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