地下室にて
「お、おい」
市原が震える手で、二宮の腕の先を指さした。肘先が試験管を倒したのだ。銀色っぽく光る液体が、ヒビからつうと流れ出た。地下室が静まり返って、きいんと耳鳴りがする。
俺は目を丸くした。二宮自身もあわあわしている。俺たちのチャチな防護服では、空気感染は防げない。
もうおしまいだった。俺たちは死ぬ。自分が作ったウイルス兵器に、この地下室で殺されるのだ。
「状況を整理してくれ、山東」
二宮が沈んだ声で俺を呼んだ。
(整理したところで、何も変わらないじゃないか)
そう反論しそうになったが、俺はぐっとこらえる。もう喧嘩はこりごりだ。
「このウイルスはどういう作用で人を殺すんだったかな?」
市原はまだ
「あの汁は、俺たちの作った3種類のウイルスの混合物だ。まず数時間後に、周りのヤツらと殺し合う。これは市原の作った『殺人衝動ウイルス』の効果。翌日、耐えがたい絶望に襲われる。二宮の『うつ病ウイルス』だ。最後に、更に3日遅れて、俺が仕込んだ『熱病ウイルス』がやってくる」
俺の要約を聞いて、皮肉屋の市原がへらへらと付け足した。
「『俺たち三人がみんな優秀だ』という前提ではな」
自分のミスで皆を感染させた癖に、要らないことばかり言うのだ。予想通り、二宮が激昂する。
「なんだと! 俺がミスるっていうのか? 少なくとも俺は、試験管を割るような真似はしねえよ!」
誰が「二宮はミスる」と言ったのだろう。二宮は馬鹿で、しかも運の悪いことにクソ真面目だ。おっちょこちょいだが利発な市原とは、死ぬほど相性が悪い。文字通り。
「なんだ、もう狂暴になってるじゃねえか。俺の仕込んだ分は完璧だな」
憤る二宮を、市原がせせら笑った。俺はもう疲れている。こんな馬鹿ども、一緒に死んでしまえばいい。しかし政府も、よくこんなクズ同僚を用意したものだ。おかげで俺の人生はパーになった。
俺も一緒に死んでしまうのは残念だ。非人道的兵器に手を染めた報いかもしれない。生物学者数名、二年間カンヅメで軍の極秘研究、高額の報酬。金に目がくらんで、一年以上も太陽を見られない職場に監禁され、しまいには同僚に殺される。
「さあ、もう寝る時間だ。市原の動物実験を信じれば、最初に目を覚ました奴が、他の2人を殺すだろう。おやすみ」
そう吐き捨てて俺は席を立った。
「おやすみ。良い夢を」
市原も吐き捨てるように、また皮肉めいたことを言って寝室に向かう。
「それでいいのか、最期の一言は?」
二宮が
あくる日は何事もなく訪れた、寝起きは爽やかだった。
(あれ? まだ生きているな)
と思った次には、
(さっさと他の二人を殺さなければマズいぞ)
と少し焦った。
だが、一向に気が乗らない。そりゃ誰だって人殺しはしたくない。よく考えてみると、そもそも俺が狂暴になっていないのだと気づいた。つまり、市原の『殺人衝動ウイルス』は、機能していなかったのだ。
実験室に戻ると、二人は気まずそうに席についていた。俺よりも生存本能が強い奴らだ。どうせ早起きする気満々だったのだろう。
「良い夢が見れたか?」
二宮が俺に声をかける。市原は歯にものが挟まったような顔で下を向いていた。
「どうしたんだい、ウイルスづくりでも試験管を割ったのか。市原さんよ」
と二宮が言うと、市原はまた悪口を浴びせた。
「幸運だったじゃねえか。おかげでお前の担当したウイルスの出来もわかるぞ、二宮。見ものだな」
「死に際までナメたことを言ってくれるな、お前は」
二宮はいつもこうだ。市原にすぐ口喧嘩を吹っ掛けるのに、勝ったためしがない。二宮のほうが頭が悪いことぐらい、誰が見てもわかる。おかげで地下室の空気はいつも最悪だった。だが、研究は地頭だけじゃない。馬鹿な奴も、試験管を割る奴も、両方ダメだ。まともな腕の生物学者は俺だけだった。
しかし、市原は実験が下手とはいえ、俺は頭脳の方は信頼していた。ウイルスすら作れない役立たずだとは思っていなかったのだが、おかげで死が1日遅れた。逆説的だが、クズ同僚を拾ってきた政府には感謝したい。
しかし、一難去ってまた一難。次は二宮のうつ病遺伝子が来る。これは最悪だ。かかった人間は例外なく自殺する。
次の朝。俺たちはピンピンしていた。また失敗だ。
今度は二宮の歯にものが挟まったようだった。だが市原は二宮を嘲笑するかと思いきや、何かピンと来たようで、急に眼を見開いてまともなことを言い出した。
「ちょっと待て。お前、実験データを見せろ」
コンピュータの前に3人で立って、二宮の一年の成果を見直す。市原が『うつ病ウイルス』の設計図を見て、
「馬鹿! いや、最高だな、お前! わざとか、これ?」
と笑い転げた。俺も思わずニンマリしてしまった。
遺伝子マップが壊れているのだ。つまり、二宮が仕組んだウイルスは、感染してもうつ病が発症しない。ウイルス学の初歩だった。
「えっ? なんだい、わざとって」
二宮が言った。本気でわかっていないようだった。やはり馬鹿だ。
「はっ! お前を卒業させた大学は問題だが、今は感謝してるよ。 最高だ!」
歯に衣着せぬ市原の物言いに、俺はちょっと身構えたが、二宮はエヘヘと笑っていた。素直なのだ。もともとは、こういう憎めないキャラクターだったのかもしれない。
夕食。俺たちは備蓄食料のうち一番好きな缶詰を選んで、めいめいの好きなように食った。二宮がカレー缶を三種類開けて、ナンを同時に浸しながら呟いた。
「俺たち、最初は仲良かったのにな」
「そうか? もう一度仲良くなれるさ。一緒に死線を乗り越えただろう?」
パテを3枚にした特製ビッグバーガーを頬張りながら、市原が元気づけた。『熱病ウイルス』を乗り越えなければ、もう一度のチャンスはない。俺はサバの味噌煮定食に、副菜をたくさんつけて豪華にした。
「しかし市原、なんでお前の実験も失敗したんだ?」
「おっ、グッドクエスチョン。山東が食事中に喋るの、珍しいな」
「お前らが喧嘩してたからだよ」
「ははは、悪い悪い。実はな」
唐突な俺の質問に、市原はニヤリと笑って答えてくれた。
「感染しないように細工したんだ。さすがに遺伝子マップは壊してないけどな」
それでようやく、俺は合点がいった。市原は実験が下手くそだが、頭脳は優秀だ。
「マウスだけに感染するようにした。サルの狂暴性のデータは捏造だよ。俺は生物兵器なんか、はなっから作りたくなかったんだ」
頭を抱える市原を、二宮がなぐさめる。
「お前、良いところもあるんだな。俺だって生物兵器は作りたかなかったけど、ズルまでは考えなかったよ。いや、頭が良い奴ってやっぱ違うな、羨ましいな」
二宮は心底感動しているようだった。
「馬鹿も美徳さ。お前じゃズルもできないけどな」
市原が答えると、二宮は声をあげて陽気に笑った。市原が祈るように俺に問いかける。
「なあ、山東よ。お前もうっかりヘマしてたりしないか?」
「いや、残念ながら」
俺はうなだれて、一年の研究成果を全て説明した。申し訳ない気持ちだった。俺は今まで、政府の言う通り、きちんと殺人ウイルスを作っていたのだ。マウスもサルも、人間もきちんと殺すだろう。実験に甘い所は、これっぽっちもなかった。
俺の実験ノートを渡された市原は、ページをめくるたびに、悲壮な表情になっていった。二宮がうなだれて言う。
「最悪だよ。お前、俺たちの中で一番優秀だもんな」
俺たちはこの夜、初めて互いの身の上話で盛り上がった。俺たちはその日、二宮がもともと薬学者であることを知った。だからウイルスに詳しくなかったのだ。彼は常備薬を組み合わせて、最適な薬を調合してくれた。俺たちはそれを飲んだ後、意識が飛ぶまで三人で語り合った。
『熱病ウイルス』の徴候は静かに訪れた。俺たちは顔が膨れ上がって、目が充血し、息が上がりきってぐったりと寝込んだ。
「次は俺たち、もっと仲良く、やり直したいな」
二宮がかすれた声で言った。
「どうだか。生物兵器を仲良く作るチームの方が、どうかしてるぜ。天罰だろ」
市原が答える。そうやって皆倒れていった。その後の記憶はない。
次の日が来た。俺はデスクに突っ伏したまま目が覚めた。体じゅうの関節が痛む。生きてる。
まだ熱がある。ヨロヨロと立ち上がると、ズボンの裾を掴まれた感触があった。
「山東。起きたか。なんと、2人も助かったな」
足元で倒れたまま話すのは市原だった。呼吸はキツそうだが、頬の腫れが引いてきている。
二宮は椅子から転げ落ちている。首筋の辺りに、咳に苦しんで首をひっかいた跡がある。まだ温もりが残っていた。死後数時間というところだろう。
「気に病むことじゃない。二宮は俺たちが殺したんじゃないぞ」
市原は立ち上がって、ぱんぱんと服についた埃を払った。いくらか勇気づけられた。でも、なら誰が殺したというのだろう。二宮の虚ろに開いた両眼から、目を逸らすことができない。
腹ごしらえをしたら、出発だ。俺たちは二人ともカレーとナンを食った。
重い鉄の扉を、市原が化学反応で爆破した。飛び出すと、8月中旬だった。かんかんと日が照らして、モグラの目には眩しい。ここは陸軍の駐屯地のすぐ近くだった。監視の目はどれほど厳しいのだろうか。
「逃げるぞ。お前はどうする?」
「そりゃ、外国に亡命だろ。どこがいいんだろう?」
幸い俺たちは、新種の兵器を持っている。途中で公安に射殺されなければ、飛行機や船のジャックは簡単にできるだろう。だが、市原は俺の答えを聞くと、心底馬鹿にしたように鼻で笑った。
「はっ。優秀だな。じゃあここでお別れだ。俺は一年ぶりに、本物のハンバーガーを食いに行く。そうれ、仇討ちだ」
そう言うと市原は伸びをして、銀色の試験管を駐屯地の草むらに放り込んだ。
やられた。俺は笑って、
「俺、モスバーガー派だから」
と言っておいた。
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