第6話 傾眠の行方 20250408
Y、貴方の肩先に私の両手が置かれているのを想像して見てください。
同じ姿勢で張り詰めた筋肉、緊張で肩が上がっていませんか?ゆっくりと肩関節を回してから上げ下ろしをして、深呼吸してまいりましょうね。
私の行動範囲の標準木は並木道も含めて6ヶ所ほどあります。
先週から今週初めで全ての箇所で満開となり、そしてそろそろ葉桜へと変化しています。ふわふわのオーガンジーの白いドレスをまとっているような染井吉野たちはとても華やかで、川縁では菜の花も満開。青空に薄桃と黄色がくっきりと際立ち、カセットテープならば春のA面を明るく彩ってくれました。この辺りでは卒業式から入学式まで桜が散ることなく保ったようで、それぞれの方の人生の節目に桜がともに在る年となりました。
春の気配を受信すると、家族の行動が不穏になります。これぞ春の裏面、B面であります。私が警戒する時期の到来です。
認知の乱れがある家族は気温がいつもよりあたたかい日の深夜に尿意を覚えて起き、どこで用を足せば良いかわからなくなったようです。
家屋警備を解除せず、寝室の窓を全て開け放ち、中庭で自然の呼び声に対応することに決めた判断に彼女の理性を垣間見ることができました。
その日は満月に近く、警備警報が鳴り響く中で下半身を露出しながら月明かりのもとでふらふらと舞うように右往左往する彼女の姿はかなりの異形でありました。映画や書物では死者が蘇ったものをゾンビと称するようですが、私の中では意思疎通が難しく特定のことに強い執着をもち、意味不明の行動をする3点において「認知症者はゾンビ…食われないようにしなきゃ…」とヒロインを気取って対応したりしています。
好きな食べ物をおとなしく嬉しそうに食べている様などは、ゾンビというよりはグレムリンの昼間のギズモや千と千尋の神隠しの銭婆婆宅にて礼儀正しくお茶をともにするカオナシのような雰囲気があり、微笑ましくも感じます。
到着した警備員さんに彼女の姿を見られないよう寝室へ誘導し、誤発報であったことを説明謝罪して再び眠ろうとした時には3時近く。4時に起きて仕事に出る私はリビングでの仮眠でその日の睡眠を済ませました。
この数年、家族は目を離していると自然と「うつらうつら」している状況が多くなりました。90歳も近くなればそれはそうかと思ったり、もう一人もステージⅣの末期がん治療の最中、体調調整に必要なのでしょう。
でも、これは春の気温上昇に伴って適温の中で疲労を癒すための眠りとは違って、このまま放置すれば彼らの意識は彼岸の川縁を散歩するようなものでもあります。だから、見守る側は気が抜けなくなる傾向の一つでもあることがわかりました。
中庭ダンスを目撃した日から私の睡眠のリズムが狂い始めました。早朝から午前中にかけての仕事が終わり、帰宅して食事を家族に供して家事を済ませると強烈な疲労で座して動けなくなってしまった日もありました。
市販の睡眠導入薬の力を借りて眠ろうにも、尿意やその他の不穏で家族に呼ばれて対応をするたびに薬の効能は吹き飛び、サンドマンの訪問はキャンセルとなります。
貴方は「どんなに眠くとも外出中に女性はどこであっても絶対に眠ってはいけないよ、自分が隣に居られないのだから尚更だ」と強く心配していましたね。会話ができた当時の私の仕事は待機が多かったため、人気のないところであろうと仮眠するのは電車で眠り込んでしまうよりも更によくないことだと憤慨するほどの強さで怒っていました。
日本以外の場所で過ごした経験があれば、この強い心配は所持品と生命を守るために必要なスタンスだとすぐにわかります。そも、自宅や自室に戻るまでの間ずっと緊張を強いられる環境での生活は眠気とは無縁です。
ああでも、今の私は自宅の中で傾眠する者たちをこちら側に引き留めるミッションの真っ最中なのです。眠ろうとすると邪魔が入り、眠りたいのに深く眠れなくなります。そして寝入ってしまうと驚くほど長い時間睡眠を取っているのです。だからこそまだ私が体調を崩さずに春を過ごしていられるのかもしれません。
貴方のように訓練と従事する仕事の内容によって昼夜を問わず動けるようになりたい、なのに加齢に伴って春の日差しの中でうっかりうつらうつらしてしまうことが増えました。せめて夢の中で会えたらと叶わぬ希望を抱えながら、私の日常は過ぎてゆくのです。
貴方が護ってくれる安寧を、維持することが私の闘いとなっています。
また書きます。どうか元気で。
For Y 志乃 @shinoino
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