第1話 らくがき

朝の光が、廃ビルの割れた窓から差し込んでいた。 粉塵を含んだ金色の光が、瓦礫に覆われた床に長く斜めの影を落としている。 ここは、旧市街の外れにある無人区域。誰も近づかないこの場所が、俺とハルの隠れ家だった。


「……おい、ハル。またクレヨン踏んでるぞ」


俺の声に、しゃがみ込んだままの小さな背中がピクリと動く。 少女は床に広がる白いパネルの上で、なにかを夢中で描いていた。


「だって、ここがいちばん、光がきれいに入るんだもん」


振り返ったハルが、悪びれもなく笑う。手には色とりどりクレヨン。指先とほっぺたにも色がついていた。


「もう少し後ろに下がれよ。足あとだらけになってる」


「でもほら、ここ。昨日のよりちょっとかっこよくなったと思わない?」


彼女が指さしたのは、床に広がる"ヒーロー"の姿だった。 赤色のラインが胸元を走り、片手には剣。もう片手には、大きな盾。


「ライティス、って名前にしたの。正義の盾って意味だよ」


「また自分で意味つけたのかよ」


呆れながらも、その絵から目が離せなかった。 何度も見ているはずなのに、昨日よりも、もっと強そうに見える。 昨日よりも、少しだけ優しい顔をしている。


「ほんとに、こんな奴がいたらいいのに。全部守ってくれる、すっっっごく強くて優しいヒーロー」


ハルの声は、小さく、でもまっすぐだった。


この街に残った子どもは、もう数えるほどしかいない。 物資の配給も滞りがちで、誰も彼もが“今日”を生きることで精一杯だった。


だから、絵なんて描いてる暇があったら――と思う自分と、 そんなハルの絵がここにあることに、どこかホッとしている自分がいた。


「なぁ、ハル。なんで毎日、同じヒーロー描いてんだ?」


「同じじゃないよ。毎日ちょっとずつ違うんだもん」


「ふーん……」


そのときだった。 瓦礫の向こう、地鳴りのような振動が足元を揺らした。 遠くで何かが崩れる音。空気が変わる。沈黙が、街を包む。


俺とハルは顔を見合わせた。 次の瞬間、屋上の警報装置が悲鳴のようなサイレンを響かせる。


それは、再び“あれ”が来たことを知らせる音だった。




「逃げるぞ!」


俺が言い終わるより早く、ハルは立ち上がっていた。 手にしていたクレヨンを慌ててポケットに押し込み、俺の腕を掴む。


「今度は近いかもしれない。南側のシェルター、まだ開いてるといいけど……」


ビルの非常階段を駆け下りながら、空の色が変わっていくのを見た。


朝の青が、焦げ茶のように濁り、煙が立ちのぼる。 街の向こうで、ビルの一角が崩れ落ちていくのが見えた。


「あの方向……センター街じゃないか?」


「配給の列が……」


言葉にならないものが、喉の奥でつかえる。 こんなとき、自分に何ができる?


ただ逃げることしかできない自分を、奥歯を噛んで呪う。


だけど。


「こっち!」


ハルの声がする。 彼女の手が、俺の手を引いた。 細い、けれどあたたかいその手が、まっすぐ進む。


まるで、誰よりもこの街の抜け道を知っているみたいに。


ハルは、こんな世界でも“前”を見てる。 それが、なんだか悔しくて、誇らしくて――胸の奥が熱くなった。 逃げ道なんて知らない俺は、ただ彼女の背中を追いかけていた。 この手を、離したくなくて、強く握り返した。




俺たちは、南側の区画へと走り続けた。 崩れかけた高架をくぐり、転がるバイクの残骸を飛び越える。 そして──旧配電塔の影がのびるあたり、空気が一変した。


空気が凍りつくような振動と、背筋を走る金属音。


「コウッ!」


次の瞬間、爆風。 視界が白く、そして赤く染まった。


気づけば俺は吹き飛ばされて地面に叩きつけられていた。 痛みはなかった。ただ、耳鳴りと共に、何かが――壊れた音がした。


「……ハル?」


崩れた壁の向こうから、かすかな衣の切れ端が風に舞った。


「ハル……?」


答えはない。声も、気配も、何も見えなかった。


ただ、土煙がゆっくりと沈み、残骸の山が無言で立ちはだかっていた。


俺は瓦礫をかき分けようとした。だが、次の瞬間、空気が鋭く切り裂かれた。


──金属を擦るような甲高い音。そして、重たい着地音。


ビルの外壁が崩れ、爆風が吹き抜ける。 その中心に、やつがいた。


四足とも二足ともつかない、異形のシルエット。 重力を無視するように脚部が反転し、無数の銃口が尾のように揺れる。 月の破片から生まれた“模倣体”。 戦車、戦闘機、ミサイル。 人類が恐れてきた兵器の断片がつぎはぎのように集まり、意志のない殺意となって迫る。


──ゴーレム。


その存在は、空気を震わせ、空の色すら変えていた。


「……っ!」


震える膝を叱咤しながら、俺は立ち上がった。 だが、次の一撃を防ぐ手段なんて、どこにも見当たらなかった。




そのときだった。


耳鳴りを貫くような、心臓の鼓動に似た共鳴音。


瓦礫の中心、かつてハルが描いた“らくがき”の残骸の真上。


そこに、なにかがゆっくりと浮かび上がる。


最初は、光だけだった。 赤いラインが、空中に幾何学模様を描いていく。


次に現れたのは、青白い装甲の輪郭。 胸の中心に、盾のような装飾が象られていた。


やがてそれは、人型の輪郭をゆっくりと描き出し、最後に片膝をついた。


赤いラインが淡く脈打ち、青白い装甲が瓦礫にきらめいた。


──あの絵だ。


ハルが、毎日少しずつ描いていた。 世界のすべての悪を退ける、優しくて強いヒーロー。


正義の盾。


それが、いま目の前に立っている。


胸の装甲がゆっくりと持ち上がり、内部から淡い光が漏れ出す。 小さな空間──空の操縦席が俺にやるべきことを教えている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星の紡ぎ手 @20upa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ