第2話「暗黒からの再生」
「どう?気に入った?」
美容師が鏡を手に持ち、凛の後ろ姿を映し出した。10年間伸ばし続けたウェーブのある黒髪は消え、代わりに洗練されたショートボブが凛の首筋を美しく見せていた。
「…完璧」
凛は小さく微笑んだ。離婚調停から一週間、美咲と共に「変身計画」を実行していた。高級美容院でのヘアスタイル変更、エステ、パーソナルトレーナーとの契約、ファッションスタイリストとの買い物。
「次はネイルね」美咲が言った。「それからランチで作戦会議」
凛は頷いた。かつての穏やかで控えめな表情は消え、その目には冷たい決意が宿っていた。
高級ネイルサロンを出た二人は、会員制レストランに向かった。美咲の紹介で入会した場所だ。
「乾杯」
美咲がシャンパングラスを掲げた。「新生・水城凛の誕生に」
グラスを合わせながら、凛は静かに言った。「もう水城じゃないわ。旧姓の神崎に戻したの」
「そう、神崎凛…良い響きね」
「美咲、本当にありがとう。あなたがいなかったら、私、まだ泣いてるか、自暴自棄になってたわ」
「当然よ。あなたが私の離婚の時、どれだけ支えてくれたか覚えてる」美咲は真剣な表情で続けた。「で、次の計画は?」
凛はタブレットを取り出し、画面を美咲に見せた。表計算ソフトが開かれ、緻密なスケジュールと行動計画が表示されていた。
「まず、拓也と詩織の動向把握。そして、私の能力開発。ITスキル、投資知識、人脈形成」
「すごい…一週間でこれだけ調べたの?」
「眠れない夜が続いたから」凛は淡々と言った。「拓也と詩織、二週間後に結婚するらしいわ」
「え?そんな急に?」
「詩織が妊娠したみたい。拓也の母親から聞いたわ」
「姑から?まだ連絡取り合ってるの?」
「ええ。離婚は夫婦間のことで、義理の親子の縁が切れるわけじゃないって。拓也の母は私の味方よ」
美咲は感心した様子で言った。「さすが。敵を作らないのね」
「敵と味方を明確にするのは重要よ」凛はワイングラスを手に取りながら続けた。「それより、これを見て」
スマートフォンを取り出し、アプリを開く。『Revenge Time』という名前のアカウントが表示された。
「インスタグラム?」
「ええ。匿名で作った。詩織のアカウントをフォローしたわ」
画面には、拓也と詩織が抱き合う写真。渋谷のレストランで乾杯する二人。拓也の実家を訪問する様子。すべて詩織自身が投稿した写真だった。
「この子、バカね。アカウント公開してるじゃない」美咲が呆れた様子で言った。
「でしょう?しかも位置情報もすべて付いてる。二人の行動パターンが丸わかりよ」
「何に使うつもり?」
凛は小さく微笑んだ。「まだ言えないわ。でも、彼女のSNS中毒が私の武器になる」
「それと、これも見て」
凛はもう一つのアプリを開いた。証券会社の口座だった。
「離婚で得た慰謝料と財産分与の一部を投資に回したの。特に、拓也の会社の株」
「どれくらい買ったの?」
「今のところ1%ほど。でも、これから少しずつ増やしていくわ」
美咲は驚きの表情を隠せなかった。「1%でも大金よ…」
「価値ある投資よ」凛は冷たく言った。「お金は道具でしかない。私が欲しいのは力よ」
「それにしても、すごい変わり様ね」美咲は感慨深げに言った。「一週間前は泣き崩れていたのに」
「人は追い詰められると、本当の自分に目覚めるのかもしれない」凛は静かに言った。「私はずっと、誰かの妻、誰かの娘、誰かの友人として生きてきた。でも今…初めて自分自身として生きている気がする」
美咲はグラスを掲げた。「それこそ、乾杯に値することね」
***
凛は新たな日課を確立した。朝5時起床、ジョギング、シャワー、朝食。その後、オンラインコースでプログラミングを学び、午後は投資セミナーや経営塾に参加。夜はSNSで情報収集。睡眠時間は5時間に抑え、残りの時間をすべて自己成長と復讐計画に注いだ。
離婚成立から3週間後、凛は拓也と詩織の結婚式の日を迎えた。
「今日が本番ね」
美咲がアパートメントバーで凛と向き合っていた。高層ビルの最上階にあるバーからは、東京の夜景が一望できた。
「ええ」凛はタブレットを操作しながら答えた。「今、式が始まったところ」
「どうやって知ってるの?」
「詩織のインスタに投稿されてるわ。#結婚式 #最高の日 #幸せ」
凛は画面を美咲に見せた。白いウェディングドレスに身を包んだ詩織と、タキシード姿の拓也が祭壇に立っている写真。二人とも幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「気分は?」美咲が心配そうに尋ねた。
「何も感じないわ」凛は淡々と答えた。「単なる通過点よ」
「本当に?」
「ええ。むしろ、このタイミングを待っていたの」
凛はスマートフォンを取り出し、アプリを起動した。『Revenge Time』のアカウントから、投稿準備を始める。
「何をするつもり?」
「最初のプレゼントを贈るわ」
画面には、拓也と若い女性―詩織ではない―が密会している写真が表示されていた。日付は2週間前。詩織との結婚が決まった後の出来事だった。
「これ…本当に?」美咲は驚いて尋ねた。
「探偵に調べてもらったの」凛は冷静に答えた。「拓也の浮気癖は治らないわ。詩織が妊娠を告げた後でも、別の女と会っていた」
「それを今…」
「ええ。結婚式の最中に投稿するわ。ハッシュタグを付けて」
凛は冷酷な微笑みを浮かべながら、タグを入力した。#水城拓也 #桜井詩織 #結婚式 #浮気 #真実
「投稿するよ」
凛がボタンを押した瞬間、美咲は息を呑んだ。
「詩織のスマホには通知が行くの?」
「ええ。彼女はSNS通知をすべてオンにしてるの」凛はグラスを口に運びながら言った。「さあ、始まったわ」
***
結婚披露宴の会場、水城拓也と桜井詩織―今は正式に水城詩織となった―は主賓テーブルで笑顔を浮かべていた。会場には拓也の会社の同僚や取引先、詩織の友人たちが集まっていた。
「乾杯!」
乾杯の音頭に合わせて、全員がシャンパングラスを掲げた。その瞬間、詩織のクラッチバッグの中でスマートフォンが振動した。彼女は一瞬無視しようとしたが、何度も通知が来るので、気になって画面を確認した。
「…!」
詩織の表情が強張った。拓也が彼女に近づき、小声で尋ねた。
「どうしたの?」
詩織は言葉を発することができず、ただスマートフォンを拓也に見せた。そこには、拓也と見知らぬ女性が親密に接している写真と、詳細な日時、場所が記されていた。しかも、それは詩織との結婚が決まった後の出来事だった。
「これは…」拓也の顔が青ざめた。「誰だ…こんなことを…」
会場の雰囲気が変わり始めた。招待客の多くもスマートフォンを見ており、SNSで拡散され始めた投稿を目にしていた。
詩織の友人の一人が彼女のところに駆け寄り、耳打ちした。詩織の顔が怒りで歪み、彼女は突然立ち上がった。
「拓也、これ、本当なの?」
会場が静まり返った。
「違う、これは…」拓也は言い訳を探そうとしたが、写真は明らかに本物だった。
「結婚式の日に…こんな…」詩織の目に涙が浮かんだ。
場内はざわめきに包まれ、多くの参列者が困惑した表情で二人を見つめていた。拓也の上司も険しい表情で立ち上がり、会場を後にした。
新郎新婦の晴れの日は、最悪の形で幕を閉じようとしていた。
***
「反応あったわ」
凛はスマートフォンの画面を美咲に見せた。『Revenge Time』のアカウントには大量のコメントが寄せられていた。
「拡散されてる…すごい勢いね」美咲は驚いた様子で言った。
「詩織の友人たちが一斉に拡散してるわ。彼女、友達多いのね」
「でも、これであなたの正体がバレる可能性は?」
「ないわ」凛は自信を持って言った。「このアカウント、徹底的に匿名化してある。IPアドレスも偽装してるし、デバイスも使い捨て」
「そこまで準備してたの?」
「ええ。この一週間、プログラミングと同時にサイバーセキュリティも学んだわ」
美咲は感嘆の声を上げた。「驚くわ…一ヶ月でそこまで…」
「必要は発明の母ってね」凛は冷ややかに微笑んだ。「でも、これはほんの始まりよ」
「次は?」
「様子見ね。彼らがどう対応するか観察するわ」
凛はグラスを傾け、残りのシャンパンを飲み干した。
「そろそろ行きましょう。明日は早いわ」
「どこか行くの?」
「ええ。拓也の会社の株主総会よ」
***
翌朝、凛は厳選したネイビーのパンツスーツに身を包み、髪をきっちりと整え、控えめだが存在感のあるジュエリーを身に着けていた。
「緊張する?」
運転席にいる美咲が尋ねた。凛は助手席で資料に目を通しながら答えた。
「全く」
「本当にすごいわね…」美咲は感心した様子で言った。「私だったら震えてるわ」
「もう怖いものはないの」凛は静かに言った。「最悪のことは既に経験した」
車は大手IT企業の本社ビルに到着した。エントランスには「第36回定時株主総会」の看板が掲げられていた。
「13時に迎えに来るわ」美咲が声をかけた。
「ありがとう」
凛は大きく息を吸い込み、会場へと足を踏み入れた。会場は数百人の株主で埋まっていた。凛は後方の席に静かに座り、周囲を観察した。
壇上には、拓也の姿はなかった。通常なら営業部長として出席するはずだが、昨日の騒動の影響だろうか。
株主総会が始まり、社長の挨拶、決算報告と続いた。やがて質疑応答の時間となった。
凛は静かに手を挙げた。マイクが回ってきた。
「神崎と申します」凛は落ち着いた声で言った。「御社の福利厚生と社内倫理について質問があります」
役員たちが顔を見合わせた。
「当社では、社内恋愛、特に上司と部下の関係についてどのような方針をお持ちでしょうか」
会場に緊張が走った。昨日のSNS騒動を知っている株主も多かったのだ。
経営管理部の役員が答えた。「当社では、社内恋愛自体を禁止してはおりませんが、上司と部下の関係については、人事異動などの適切な対応を取ることになっております」
「では、既婚者による不倫行為、特に部下との不適切な関係については、どのような対応をされていますか?」
役員の表情が硬くなった。「そのような…具体的なケースによりますが、社内規律に反する行為には厳正に対処しております」
「昨日、SNSで話題になった水城拓也営業部長と桜井詩織社員の件も、調査対象になっていますか?」
会場がざわついた。質問が具体的すぎたのだ。
「個別の人事案件についてはお答えできませんが、社内の問題については適切に対応しております」役員は汗をぬぐいながら答えた。
凛は満足げに微笑んだ。「ありがとうございます。適切な対応を期待しています」
株主総会が終わり、凛が会場を出ようとしたとき、一人の中年男性が彼女に近づいてきた。
「神崎さん、少しお時間よろしいですか?」
「はい」
「私は藤堂です。藤堂投資顧問の代表をしています」
名刺を受け取った凛は、相手の名前に見覚えがあった。拓也が以前、「会社の大株主で厄介な人物」と話していた投資家だ。
「お話があります。お茶でもいかがですか?」
凛は頷いた。これは想定外の展開だったが、チャンスかもしれない。
***
「あの質問、勇気がありますね」
藤堂はカフェでコーヒーを前に言った。
「単なる株主の権利です」凛は冷静に答えた。
「神崎さん…以前は水城さんでしたね?」
凛は僅かに目を見開いた。「調べましたか?」
「私の仕事は情報収集です」藤堂は微笑んだ。「水城拓也の元妻であり、昨日のSNS騒動の裏にいる人物…」
「何の話でしょう?」
「隠す必要はありません。私はあなたの味方になりたいのです」
「なぜです?」
「理由は二つ」藤堂は指を立てた。「一つは、あの会社の経営陣が気に入らない。二つ目は、あなたの才能に興味がある」
「才能?」
「わずか一ヶ月で離婚を有利に進め、株を取得し、SNSで世論を動かし、株主総会で質問する。並の人間にはできません」
凛はコーヒーカップを持ちながら考えた。この男は危険かもしれないが、味方にすれば大きな力になる。
「で、提案は?」
「私は現在、その会社の株式を8%保有しています」藤堂は言った。「あなたはどれくらい持っていますか?」
「1.2%です」
「それなら、私たちで9.2%。10%に達すれば、臨時株主総会の招集請求権が得られます」
凛の目が光った。「そこまでのお考えが?」
「経営陣の入れ替えを図りたいのです。あなたのような才能ある人材に、もっと活躍してほしい」
「私に何ができますか?」
「まずは情報提供を」藤堂は真剣な表情で言った。「あなたは水城拓也を知っている。会社の内部事情にも詳しいはず」
凛は沈黙した後、決意を固めたように言った。「協力します。ただし条件があります」
「なんでしょう?」
「私の目的は拓也と詩織を破滅させることです。それを邪魔しないでください」
藤堂は小さく笑った。「理解しています。むしろ、お手伝いしましょう」
二人は握手を交わした。新たな同盟が生まれた瞬間だった。
***
「こっちも話が進んでるわ」
美咲のアパートで、凛は藤堂との会話を報告していた。
「すごいじゃない」美咲は興奮した様子で言った。「一日でそんな大物と同盟を」
「運が良かっただけよ」凛は謙虚に言った。「それより、拓也たちの様子は?」
美咲はタブレットを取り出し、SNSの画面を開いた。
「大変みたい。結婚式は中止になって、参列者全員が帰ったらしいわ。詩織のインスタには『裏切り者』『嘘つき』というコメントが殺到してる」
「拓也の会社は?」
「取引先からクレームが来てるみたい。『倫理観の欠如した会社とは取引できない』って」
凛は満足げに微笑んだ。「社会的制裁が始まったのね」
「これで終わり?」美咲が尋ねた。
「いいえ」凛は冷たく言った。「これはほんの序章よ。彼らの悪夢はこれから始まる」
美咲は友人の変貌ぶりに、畏怖の念すら感じていた。かつての優しく従順な凛は消え、その代わりに冷徹で計算高い女性が現れていた。復讐の炎は、凛の内側で静かに、しかし激しく燃え続けていた。
***
詩織はホテルの一室で、泣き崩れていた。
「あの写真…本当なの?答えてよ!」
拓也は窓際に立ったまま、うなだれていた。「…本当だ」
「私が妊娠して、結婚を決めた後に…他の女と…」
「すまない…一時の過ちだ」
「過ち?」詩織は叫んだ。「あなたと私も…凛さんにとっては『過ち』だったのね」
「違う、俺は本気で君を…」
「嘘つき!」詩織はベッドから飛び起き、拓也に詰め寄った。「もう信じられない…全部嘘だったのね」
「落ち着け、詩織」拓也は彼女の肩をつかんだ。「考えてくれ。写真をリークした奴がいる。俺たちの敵だ」
詩織は突然冷静になった。「…凛さん?」
「そうかもしれない」拓也は顔をこわばらせた。「だが証拠はない。それより今は、俺たちの関係を…」
詩織はスマートフォンを手に取り、拓也の発言を無視して画面をスクロールした。
「私のインスタが炎上してる…同僚からも非難メッセージが来てる」
「会社には行くな。俺が対応する」
「どうするの?」
「まずは時間を稼ぐ。この炎上も、いずれ収まる」
詩織は疑わしげな表情で拓也を見た。彼女の目には、彼に対する不信感が浮かんでいた。
「赤ちゃんはどうするの?」
拓也の表情が一瞬硬くなった。「…予定通り育てるさ。俺たちの子だ」
詩織は黙ってうなずいた。しかし、その目には確信がなかった。
「必ず立ち直ってみせる。そして、犯人も見つけ出す」
詩織はうつむいたまま小さく頷いた。流産の痛みと、結婚式での屈辱。彼女の心は疲れ切っていた。
「少し寝るわ…」
詩織が寝室に向かった後、拓也は窓際に立ち、暗い夜空を見上げた。たった一ヶ月前までは、順風満帆だった人生。今や、すべてが崩れかけていた。
「凛…お前なのか?」
拓也の胸に、疑惑と恐怖が広がっていった。
***
「成功ね」
美咲のアパートで、凛はノートパソコンの画面を見ながら言った。拓也と詩織のSNSアカウントはすべて非公開になっていた。しかし、凛はすでに彼らの友人のアカウントを通じて情報を得ていた。
「次の計画は?」美咲が尋ねた。
「経済的打撃よ」凛は冷静に答えた。「精神的に追い詰めたところで、財布を狙う」
「どうやって?」
「藤堂さんの協力を得て、拓也の会社の内部調査を促進させる。拓也は不正会計を知りながら黙認していた。その責任を追及するわ」
美咲は恐れ入った表情で友人を見た。「凛…本当に変わったわね」
「当然よ」凛は冷たく微笑んだ。「弱い女は死んだ。誰にも傷つけられない、新しい私が生まれた」
美咲はグラスを傾けながら言った。「復讐の先には何があるの?」
凛は一瞬考え込み、そして静かに答えた。「新しい人生…かもしれない」
彼女の頭には、藤堂の提案が浮かんでいた。サイバーセキュリティと女性支援。それは単なる生き方ではなく、使命になるかもしれなかった。
「まずは、復讐を完遂する。それから考えるわ」
凛は決意を新たにした。次なる一手は、すでに頭の中で形になりつつあった。
***
こうして、凛の「暗黒からの再生」は着実に進んでいった。かつての水城凛は完全に消え、新たな神崎凛が誕生していた。その目には、冷たい決意と、未来への希望が宿っていた。
復讐の炎は、まだ序章に過ぎなかった。
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