第6話 感謝のキモチ
おかしい……。
ゆっくりしたペースで歩きながら
今日はいつものデートデーだったはずだ。いつもと趣向を変え、少し足を延ばして映画館が併設されたショッピングモールへ。ただし映画は特に見たいものがなかったので結局はいつものようにふたりでモールの中をぶらついていたのだが――。
成り行きで
良太の数歩先を行くのは着物姿の年配女性。歳はおそらく良太の親世代くらいで、若い頃はさぞ美人だっただろうと推察できる面立ちをしていた。今日初めて知り合った――厳密には知り合ったと呼ぶような間柄じゃないのだけど――れっきとした赤の他人だ。
縁もゆかりもない人だし素直に従う義理はない気はする。とはいえきちんとした身なりにしゃんと伸びた背筋、しっかりした歩調を見ているととても逆らおうという気は起きなかった。反抗したら後が恐ろしい……とは良太の直感だ。なんとなくの。
どうしてこうなったんだっけ――良太はチラと背後を振り向いた。ついさっきまでいたインフォメーションカウンターはすっかり小さくなっていた。だがハキハキした明るいスタッフの声はまだ微かに聞こえてくる。脳内に呼び起こされたのは、眩しい笑顔で客の対応をする女性スタッフの姿。
そう、こうなった発端は、あのインフォメーションカウンターだ。
ほんの十数分前、テキパキと仕事をこなす二人の女性スタッフを良太は待機列から眺めていた。やれポイントの後付けだのトイレの場所はどこかだのと、些細な注文や疑問にも彼女たちは懇切丁寧に受け答えをし、鮮やか
あっという間に順番が来た。朗らかな笑顔で迎えてくれた女性は、良太がおずおずと差し出したものを見て軽く目を
持ちこんだのは二つ折りの革製パスケースだった。全体の色味はクリーム色で、一辺に花の絵があしらわれている。
パスケースを手に取った女性は外側のクリアポケットに入れられた交通系ICカードをしげしげと眺め、次いで中を開いた。良太からは見えないがその内側にもクリアポケットがついていること、セピア色に褪せた写真が一枚入っていることはこれを拾ったときに確認済みだ。
その写真というのがどう見ても古かった。時代を感じる髪型と服装をした若い男性が、年代を感じる型式の車に寄りかかりポーズを決めていた。
雑誌か何かの切り抜きだろうか。だって見るからに優男だし、カメラ目線じゃないし。どこか物憂げな雰囲気もあってなんとなく大物感がある。
――でも、こんな芸能人いたっけ?
脳をフル回転させて記憶の隅々までさらってみたが、思い当たる人物は誰もいなかった。他に持ち主に繋がりそうな手がかりもなく、買い物中の杏に断りを入れてひとりで届けに来たわけだ。
女性スタッフもひと通り確かめ終わったらしい。彼女が顔を上げたところで良太は右手通路の奥を指さした。
「あのう、あっちの……お酒売り場の近くに落ちてて、それ」
「お酒売り場、」
「ええと、この道とお酒売り場のちょうど境目のところかな? あの、ICカード入ってるし、一応預けた方がいいかなーって思ったから」
女性の手の中のパスケースを
――さあ、杏さんのところに戻らなくちゃ。
目は自然と通路の先に向いた。杏は和洋酒売り場で贈り物を物色中だ。珍しく悩んでいるようだったがそろそろめぼしい品を決めただろうか。
すると次の瞬間、良太は横から届いた声に大きく瞬くことになった。
「パスケースをなくしたみたいで、届いておりませんでしょうか。二つ折りになってて、色はベージュで、」
「……パスケースですか? そうですねぇ、今のところは……」
「そうですか……。鞄になくて、落としたか、どこかに忘れたかだと思うのですけど」
「どちらのお店に行かれたか覚えていらっしゃいます?」
和装だ。
やわらかな菜の花色の着物に身を包み、ユリの切り花を抱えた年配の女性がそこにいた。後頭部の低い位置できっちりまとめた髪型に芯の強さを表すかのような眉と目、背筋をピンと伸ばした佇まいなどその気質が窺い知れるようだ。
ふと自分の応対をしてくれた女性スタッフを振り返ればバチッと目があった。向こうも思うことは同じらしかった。彼女は確信を持った目で着物女性の方に身を乗り出した。
「お客さま。もしかして……」
「……あっ」
隣から差し出されたパスケースに、着物の女性はわかりやすく目を見開いた。
かくして良太が持ちこんだ案件はスピード解決となった。落とし物が無事持ち主の元に戻ってよかった。その場にいた皆がほっこり笑顔になり、良太は「それじゃあ、俺はこれで」と会釈をした。
「あ、あなた」
「はい?」
背中にかけられた声にくるりと振り向いた良太は、着物の女性の面持ちに軽く息を呑んだ。そこにあったのは紛うことなき真顔。怒っているわけはないと思うが、じゃあ怒っていないのかというとそれも自信がない。とにかく目力がすごい。
「……あ、あの……。……え? なん……」
まっすぐに向けられた視線に射抜かれ思わず一歩後ずさると、そこでようやく女性は瞬きをした。
「――あなた、このあと急ぎの用事はありますか」
「へ? あ、えーと……急ぐ用事はないかな……あ、でも、向こうでカノジョが……ふふ」
「ちょっとついてきなさい」
「……え?」
良太の返事も聞かずに着物の女性はすたすた歩き出した。
えっえっとあたりを見回し、女性スタッフを振り返れば困ったような笑みで肩を
* *
女性はお酒売り場とは逆の方向へどんどん進んでいった。
一体どこに行くのだろう。脇目も振らずに歩いていくところを見ると目的地ははっきりしているようだけど――。もしモールの外へ出るようならさすがに拒否しなければ。
施設内の要所要所に青系のポスターが飾られていた。右下に青い花束が描かれ、花束に結ばれたリボンがポスターの縁をぐるりと囲むデザインだ。その真ん中にある文言は『Happy Father's Day』、添えてある日付は本日六月十五日。
思えば始まりはさっきのインフォメーションカウンターではなく、このポスターだったのかもしれない。ふたりでぶらぶらと店先を覗いたりお互いに服を合わせたりしていたらふと目に入った。
「そういえばさ……父の日ってお兄さんに何かするの?」
「ん、何が?」
「杏さんのお父さん代わりだったって言ってたよね」
良太の視線の先を辿って杏も合点がいったらしい。思案げに小首を傾げていたが、そのうち首を横に振った。
「兄さんのことだから、『こんな大きな娘はおらん』って言いそう」
「あー……」
「想像つくでしょ?」
兄・
「――でもまあ、こういうのは気持ちじゃないかなぁ。いつもありがとうって伝えるきっかけっていうか……。感謝の気持ちはいつ言ってもいいし、言われて嬉しくないわけないって思うんだよね。俺はね」
「……それはそうかもね」
「うん」
にこにこと伝えればやがて杏も唇に弧を描いた。
軽い気持ちで和洋酒売り場に向かった。すると想像以上に豊富な品揃えの売り場に出迎えられた。彼女の邪魔にならないよう良太は店を出て通路脇の椅子に腰掛けた。そこから眺める真剣な杏の横顔は格好いい中にも色気があってとても美人だった。
――あんな素敵な人と恋人同士なんだよなぁ……。
口許が緩んだ。何度確認しても夢みたいだし、調子に乗るなと
だけど良太の思い過ごしでない証拠に杏はこちらの発言や一挙手一投足を素直に受け止め、前向きな反応を返してくれる。好意的に建設的に、時に情熱的に。困った顔も怒った顔すらも可愛いなんて反則じゃないだろうか。
人生何が待っているかわからない。こうして幸せを噛み締め浸るのがルーティンのようになるなんて想像もしなかった。
ニヨニヨと目線を下げれば視界に白っぽい四角いものが映りこんだ。二歩ほど離れた場所にポツンと落ちていたのはパスケース。いかにも拾ってくれと言わんばかりに存在をアピールされ、良太は腰を上げた。キョロキョロとあたりを窺うも近場には誰もいない――。
「こちらで少しお待ちいただけますか」
「わっ!」
思考の海に没入していた良太は、急に振り返った着物の女性にびっくりして飛び上がった。えっあっと
あっという間に戻ってきた彼女は大小ふたつの紙袋を抱えていた。ユリの切り花もあって大荷物だなと思っていると、紙袋の小さい方が良太に差し出された。
「どうぞ」
「……ええと?」
――なんでシュークリーム?
キョトンとしたが、女性の方も引く気はなさそうだった。わけがわからないが、ひとまずそのまま受け取ることにする。
彼女は花と紙袋を抱え直すとあらためて良太をまっすぐ見つめた。
「あなたが拾ってくださったICカードに、三千円ほど入っております」
「はあ、三千円」
「ですので、ほんの気持ちばかりですが。おかげさまで大変助かりました。ありがとうございました」
「ああ、そういう……。いや俺は別に大したことしてないけど、でもあの、これアリガトウゴザイマス」
持った感触から中に二個入っているのはわかった。大体一割ということか。
良太が軽く頭を下げると着物の女性は深々とお辞儀をした。慌てて同じように頭を下げたが女性は何事もなかったようにあっさり去っていった。
なんだか妙に緊張した。後ろ姿をぼんやり見送っていた良太はハッと我に返り、あたふたと来た道を戻り始めた。やばい、杏を待たせているかもしれない。
和洋酒売り場を目指し一目散に駆けていけば、前方インフォメーションカウンター付近に見慣れた姿を見つけた。
「杏さん!」
「いた、良太! どこ行ってたのよ、落とし物届けるだけで」
「ちょっと……いろいろあって。杏さんは、お酒買えた?」
「一応ね」
ほら、と細長い紙袋を掲げてみせた杏に良太は笑顔を送った。
* *
貰ったシュークリームを仲良くひとつずつ食べるとかえってお腹が空いてきた。軽く食事を済ませ、ショッピングも十分満喫してからふたりはモールを後にした。これで帰宅というわけではなく、次の行き先は杏の実家だった。せっかく贈り物を調達したのと父の日は今日ということで善は急げとなったのだ。
合意のうえで来たとはいえ、いざ立派な日本家屋を前にすると良太は怯んだ。杏はさっさとインターホンを押し、応答を待つことなく門扉を開ける。そりゃあ元々住んでいたのだからそれで普通なのかもしれないけれど――。お構いなしに玄関へと歩いていく杏の背中に良太は声を投げた。
「あ、杏さん、俺ここで待っててもいいかなぁ」
「え、なんで」
「いやぁ……俺は手ぶらだし、なんかくっついてるのもどうかなって……」
「あたしが持ってるじゃない。っていうかあたしが渡しにきたんだから、良太は気にしないでいいのよ」
「うん、だから待ってるよ」
へらりと言い切る。杏はいまいち腑に落ちない顔をしていたが結局はひとりで玄関に向かった。
彼女が辿り着くのと同時にドアが開いた。杏に隠れて見えないということは善一郎ではないようだ。もしかすると厳格らしいと噂のお母さんかな――そんなふうに考えていると当の杏が振り返った。「ねえ!」と小走りに駆けてくる。
「兄さん、今いないんだって。もうすぐ帰ってくると思うから、家に上がって待ってたらって母さんが。良太どうする?」
「ええ? どうするって言われても……え、あれっ」
「なに、どうかした?」
杏が怪訝な声を上げた。だが良太はそれどころじゃなかった。そしてそれは玄関口で訝しげに目を
――それから善一郎が帰ってくるまでの数十分間と帰ってきてからの十数分間、良太は通された洋間でマネキンのように固まり、息の仕方がわからなくなるような心持ちで相槌を打つだけのマシーンになった。
お茶請けに出てきた本日二度目のシュークリームは味が全くしなかった。
――――――――――
なお例の写真は生前の父だそうな。作中で書くチャンスがなかった……。(無念)
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