5月

第3話 訪れた試練

 ドリップケトルの注ぎ口からしゅーっと湯気が吹き出した。コンロの火を止め、ペーパーフィルターをドリッパーにセットする。すりきり一杯のコーヒー粉を入れて粉全体が湿る程度にお湯を注いだら待つこと三十秒、それから真ん中あたりに円を描くよう静かにゆっくりと残りのお湯を注いでいった。粉がむくむく膨らんで、お湯の注がれた箇所からは琥珀色の泡が広がっていく。

 あたりにコーヒーの独特な香りが立ちこめた。匂いはそんなに嫌いじゃないし淹れる工程も結構面白い。飲みたいとはやっぱり思えないけど。


「ええと、お湯が全部落ちきらないうちにフィルターごと捨てるんだっけ……」


 ドリッパーをひっくり返してペーパーフィルターを三角コーナーに落とした。全部淹れてしまうと苦みが出るって確かあん先生が言ってた気がする。というかそもそもコーヒーという飲み物が普通に苦いのに何が違うんだろう。

 あらためて見てみたカップの中には濃い色の液体がなみなみと入っていた。うう、すごく苦そう……。



 カウンターキッチンを出た良太りょうたは、リビングに置かれた小さなテーブルを見つめた。先日杏と一目惚れして即買いした白いテーブルだ。杏と料理を囲むには最適なサイズなのだが、今日の来客と向かい合わせに座るには少々距離が近すぎる気がした。うん、全力でご遠慮したい。

 良太はリビングの隣、小上がりになっている和室に足を向けた。開け放した和室のど真ん中に置かれたコタツ……もといコタツ布団を外した座卓におずおずとカップを置く。カップとソーサーの立てる小さな音がやけに大きく響いた。


「……あのぅ、コーヒー淹れたんで、どうぞ」


 できれば声をかけたくないなーと思いつつもせっかく淹れたコーヒーが冷めてしまうのは忍びなく、おそるおそる声を投げた。

 キャビネットの前で腕組みをし、テディベアを睨んでいた男性がおもむろに振り返った。ぬいぐるみのクマになんの恨みがあるのかと思うほど眉間に力の入った顔をしている。

 座卓についた彼はカップの中をじっと見つめ、ゆっくりと口に運んだ。それからまた中身をじっと見る。ずっと真顔、そして一言も発さない。美味しいのか不味いのか全くわからない。杏さん直伝だから多分大丈夫なはずだけどコーヒーは自分で味見できないのが痛い。

 爽やかな初夏の風がリビングのカーテンを揺らしていた。遠くに子どもの元気な声がする。この和室とは雲泥の差、まるで別世界だ。ここの空気は凍りついてるし、まだ冬のような錯覚さえするし。コタツしまうの早かったかな……。


 ――こんなことなら俺も杏さんについていけばよかったかも。


 五月晴さつきばれな昼下がりのリビングに男二人きりというシチュエーション。なぜ神妙な顔つきで向かい合っているんだろうか……杏の兄善一郎ぜんいちろうと。




 今日は杏の甥っ子いくの参観日。どうしても都合がつかない郁の両親に代わり、杏が見にいくとだけ聞いていた。早めのお昼を食べたあと彼女を送り出し、しばらくするとインターホンが鳴った。忘れ物かなと出てみたらそれが善一郎だったというわけだ。

 彼がなぜひとりで訪ねてきたのか全く見当がつかなかった。杏が不在なことを伝えても返ってきたのはただ一言「知っている」。……心臓に悪すぎて生きた心地がしない。


「聞いていると思うが」

「はっ、はい」


 飛び上がりそうなくらい驚きつつ、実際は軽くる程度にどうにか動きを抑えた。ばくばく暴れ出す心臓に落ち着け落ち着けと念を送る。ああああ杏さん早く帰ってきて。


「先月、四人目が生まれた」

「……はい?」

「上と間があいたうえに産気づいたのが予定より早く、入院中もいろいろあってな、しばらく慌ただしかった」

「はい……」


 なんだこの会話。

 良太はややぽかんとしながらも相槌だけはしっかり打った。話を聞いていないと思われるわけにはいかない。株が暴落すれば結局杏に迷惑をかける。

 コーヒーを睨んでいた善一郎はゆるりと顔を上げた。良太をまっすぐ見据える瞳には強い光が宿っていた。


「忙殺されている間に杏が家を出ていた。置き手紙には、おまえと住むと」


 ぎくりと息を呑む。弱々しい相槌をなんとか返すと良太はそれとなく視線をそらした。背筋を冷たい汗が流れていく。

 ……やばい。要件はそこか。




 杏は母子家庭で育ったそうだ。歳の離れた善一郎が父代わりでもあったというのは以前彼女の口から聞いていた。

 大事に大切に成長を見守ってきた妹がある日突然家を出た。それだけでも心配だろうに、一緒に暮らすのがと聞けばさぞや心中穏やかではないだろう。

 だけど同棲に関して言わせてもらえるならあまり責任もないと思っていた。自分から言い出したことではないし、相談して決めたわけでもないし。成り行きでこうなったというか、良太だって入院していて身動きが取れなかった間に勝手にいろいろ事が進められていたわけで。まあ特に文句も問題もないけど。

 住めば都とはよく言ったもので、いざ暮らし始めるとこれが意外と楽しく、むしろ便利なことも多かった。他人と一つ屋根の下なんて煩わしくて到底無理だと思っていたのに、杏となら全然関係ないなぁなんて――


「家賃は杏が払っているのか」

「へっ!?」


 槍のごとく飛んできた言葉に思わず変な声が出た。気難しい兄とのツーショットというこの状況が嫌すぎて思考がトリップしていたようだ。


 ――待て、考えを改めよう。


 膝の上で固く握り拳を作った。

 これは株を上げるチャンスだ。ちゃんと考えているところを示して、妹の同棲相手に相応しいと認めてもらえるチャンス。


「……情けない話なんですが、俺自身今月は出費が嵩んでちょっと厳しくて、家賃は杏さ……あの、妹さんにお世話に……。でも来月からは折半できると思うし、今はその分家事の方を」

か」


 ぐっと詰まった。しまった、失言……。

 光溢れる室内にわざとらしく吐かれた深い溜息が響いた。うう、顔を上げられない。




 子どもの声や車のエンジン音が耳に小さく届く中、善一郎がコーヒーを飲む音がかぶさる。それから座卓にカップを下ろす音も。


「……とっくに成人もしている妹に今さらとやかく言うつもりはない。あれに言ったところで聞かないのはおまえもよく知っているだろう。だが――」


 善一郎はそこで口を閉じた。俯き顔のまま良太がちらりと目だけで視線を送れば真正面から射抜かれた。すごい目力だ……杏もすごいと思ってるけど善一郎はそれ以上だった。さすが杏の兄。

 そして沈黙が訪れた。


「……?」


 何も言わずじっと睨んでくる善一郎に良太は小首を傾げる。今は確か向こうの話の途中だったはず。「だが、」の後にはなんと続けるつもりだったのか。

 思考時間はたっぷり十秒、そしてハッとした。彼はもしかして良太の言葉を待っているのではないか。これから杏とふたりで住むにあたっての抱負というか決意表明みたいな、そういうのを聞かせろということでは。だからあんなに睨んでいるのでは。


「あー……ええと」


 だけど何を言えばいいんだろう。「絶対に幸せにします」?

 うーん、なんだかしっくりこない。そもそも〝杏を幸せにする〟って最高難度な気がする。難易度地獄。大体杏は「あたしの幸せはあたしが決める」とか言うタイプだ。

 かといって「妹さんをください」は絶対違うし。まだプロポーズしてないし――ってちょっと待て俺。〝まだ〟はさすがにおかしい。結婚話なんて今まで一度も出たことがない。

 ――いや、この間郁が来た折にちらっと話には出たんだっけ。でも全力で否定する流れだったし、つまり杏にもそんな気はないってことだ。Q.E.D.

 考えれば考えるほどわからなかった。誰かこの場の最適解を教えてほしい。




 玄関の外で物音がした。すぐに解錠とドアの開く音が耳朶を打ち、続いて元気な声が響いてきた。


「おじゃましまーす! 良太くんただいま〜!」


 ぱたぱた軽い足音が近づいてくる。リビングに飛びこんできたのは予想通り郁だった。藍色のランドセルを背負った彼は和室を覗きこんできょとんと目を瞬かせた。


「お父さん」

「え、兄さんもう来てるの? ……って何、このお通夜みたいな空気」


 後から入ってきた杏がランドセル以外の細々した荷物を善一郎に差し出しながら眉を顰めた。


「杏さん、『もう』って?」

「さっき家を出てすぐ電話もらってさ、『あとで寄るから郁も連れて一緒に帰ってこい』って」

「お母さんと誠也せいやをむかえに行くんだよね! 今日、病院の日だって言ってたもん。ええとね、なんとかケンシン?」

「一ヶ月健診ね」

「そうそれ!」


 にこーっと満面の笑みを見せる郁に室内が瞬く間に春の陽気になっていく。子どもの笑顔は偉大である。

 善一郎が立ち上がった。体操服袋や上靴などをひとまとめに抱えると「行くぞ」と郁の頭に手を置く。


「えっもう!? 良太くんと遊びたかったのに」

「郁。お母さん待ってるんでしょ? また今度おいで」

「杏さんの言う通りだよ。お休みの日にゆっくり遊びに来たらいいよ」


 ふたりがかりの説得と提案に少年は一応納得したようだ。むうと唇を尖らせながらも「じゃあまた来るね」と渋々玄関に向かう。

 杏に付き添われる小さな背中を追いかけようと一歩踏み出したところで良太の足は動かなくなった。行く手を遮るように出てきた影、そして放たれる威圧感――善一郎だった。


「――泣かせるな」


 立ちはだかる横顔から告げられたのはたった一言だ。主語はない。けれど強い眼差しが「わかっているな?」と念押ししていた。

 う、と息を呑んだあと良太は慌てて首を縦に振った。善一郎はたっぷり余韻を残し、部屋を出ていった。




 ドアの外で大きく手を振る郁に、良太もリビングからそっと振り返す。そうしてゆっくり外界が閉じられると青年はその場に座りこんだ。もとい、足の力が抜けた。


「…………つかれた」

「どうしたの?」


 杏が訝しげな目を向けてくる。あらためてまじまじ眺めてみればジャケットに細身のパンツスタイルという杏の出で立ちは冗談抜きに格好良かった。すらりと背の高い彼女によく似合っていると思う。まさに〝高嶺の花〟。なんでこんな人が自分なんかとと思う一方で、向けられたまっすぐな瞳に宿る気遣わしげな色は素直に嬉しい。


「……俺も一緒に行けばよかったなぁ、と思って」

「郁の参観? 来月は日曜参観があるみたいだからこっそり覗きにいくのもいいかもね。――そういえば兄さんはいつ来たの?」

「ええと……一時過ぎかな」

「じゃあ余裕で参観に間に合ったんじゃない。兄さんが行けばよかったのに。その方が郁だって」


 ぷりぷり怒りながらジャケットを脱ぐ彼女には弱々しい笑みを送るだけで精一杯だった。

 とても長い、午後だった。





 * *





「ねえ、良太もお茶飲む? ミルクティー淹れようか」


 廊下の向こうから声が飛んできた。着替えてリビングに戻ってきた彼女に良太は首肯し、しばし考えたのちにへらっと口角を上げた。


「俺が淹れるよ。杏さんは座ってて」


 腰を上げれば軽やかな風が前髪を揺らしていった。

 卓上にぽつんと置かれた来客の名残――空になったカップを取り上げて良太はキッチンに向かう。









▼イメージイラスト

https://kakuyomu.jp/users/ritka/news/16818622174159401272

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