花と眠る

華周夏

花の道標

仕事に疲れて、作業着を脱ぎ捨て、シャワーを浴びて泥を落とし、安い酒をあおって眠る。毎日がその繰り返し。その浅い眠りの思考の中、彼女たちは訪れる。

「次は……いつ会える?」

「いつかまた。それに、あなたに逢いたい子は沢山いるの。ただ、あなたに添い寝するだけなのにね。みんな安心するって言うのよ。『このまま夜が明けなければいいのに』とまでいう子たちまでいるの。」

男は、いつの間にか肌着から紅色のワンピースに身を包んだ美しい女に話しかける為に、ベッドから上半身を起こした。男が、いそいそといつもの作業着に着替える姿が、女に目尻を下げさせた。女の気品に溢れる姿とはそぐわない、震災で壁にあちこちヒビが入った一軒家の北の隅の部屋。管理会社に直してもらった壁に重なるヒビが、続く余震の傷跡を残していた。

女が小さな薔薇の鉢をテーブルに置いて、

「この子を可愛がってあげて。」

小さな薔薇の瑞々しい紅いつぼみ。やさしい色味が、女の頬に似ていた。

「私はこの薔薇よりも、君に傍にいて欲しい。だから──。」

女は、困ったように微笑み、男の言葉を遮った。

「また、来るわ……この薔薇は、とても良い香りがするのよ。やさしくして、水をあげて。私だと思って。それに、これは夢よ。夢の変わりに、私はこの薔薇を置いていくの。」

 いつも、この調子。夢なのに、はっきり憶えている。美しい、こんな自分にはそぐわない女たち。甘い匂いも──やわらかな胸も、瑞々しい肌の布越しの感触、肩のまるみ。『つらいことはみんな忘れていいの』そして『これは夢よ』という、やさしい声。

夜中訪ねてくる、夢の中の美女たちは、皆そう言う。けれど、夢から覚めても、覚めない夢。ずっと漂っていたいと思う。

女が残した、甘く清々しい残り香。そして唯々増えていく、部屋を彩る、花を咲かし続ける小さな植木鉢。何も疑問も持たず世話をする。そして、目の端。黒縁の写真から目を逸らす。

思い起こせば最初の訪問者は、恥じらう姿が可愛らしい初心な女だった。男に添い寝をし、明け方に、男がぼんやりと目を覚ます頃、あどけない笑顔で『あの時はありがとう。これを、大切にして』と、男に可愛らしい蒲公英の咲く植木鉢を、はにかむように渡し笑う彼女が夢の最初の訪問者だった。蒲公英の花は、いつまでも枯れず花を咲かし続けた。不思議だったが、小さな植木鉢に真っ直ぐ中央から葉を放射状に伸ばして健気に黄色い花を咲かせる様子は、何より可愛らしかった。

酔って朦朧とした頭で、ベッドに横になる。北の隅のこの部屋には静かだ。ここには季節はない。時間もない。浅い微睡みに甘い麻酔が効いているように、独特の秒針が男の身体を刻んでいく。通りすぎる夢が過ぎ行くように、夢に現れる美しい女たちも様変りする。増えていく鉢植えが、いつの間にかテラスに移されている。不思議に思いながら、大切に花々に水をやる。其々の花に合う肥料をあげた。『夢』で会った彼女たちの雰囲気にあった花々が咲き乱れた。凛として気品のあるクレマチス、笑顔がふわりとした昼咲月見草、淑やかな紫陽花。溌剌とした笑顔が魅力的な向日葵。そして雪深いこの町に本格的に冬が訪れる前──除染の仕事が出来なくなる前──に、ここを訪れたのは品格のある美しい女だった。酔いそうな芳しい香りの中の眠りのあと、私に手渡したのは山百合の鉢植え。形の良い鼻梁。薄めの赤い唇。紡ぎだされる労りの言葉。

「こんな私のところへ来なくても。美しい君なら、もっと他に行くところがあるだろう。」

「あなたがいいの。私達は、あなたがいいのよ。こころに傷をつけられ、居場所もいのちも失うところだった私達を、あなたは助けてくれた。」

「そんな、私は君たちのような美女を助けたことを忘れるわけはないよ。君たちは夢だと言うけれど。起きて働いていても君たちを私は憶えているよ。これが夢なら、私はずっと、夢をみていたい。幸せな夢で暮らしたいよ。」

男は、一人きり。しかも記憶が朧気だ。仕事は稼ぎが良いから除染作業員。毎日が除染の草刈り、ただ土を掘る作業。何…ベクレル、何…シーベルトかを測る作業。

「仕事場で下っ端の私は、除染の際、上司に隠れて綺麗な花を咲かせる植物をそっと残しておいた。雑多に片づけられるのは可哀想で。花くらい咲かせてあげれば良い。少しくらい花があったくらいで人は死んだりしないのに……でも、苦情が来た。」

「どんな?」

百合の甘い香りを身に纏った女は、訊いた。

「蒲公英が蔓延ってるって。中小企業のお偉いさんの奥さんだった。『家を放射能まみれにする気ですか! 』って。キンキン声で怒鳴って。庭の片隅の蒲公英に綿毛がついていたよ。フッと息を吹きかけて、遠くへ飛ばした。もう、こんなところには来るなって。残った蒲公英は、むしった。辛かった。」

男は、私には選択の余地もないから。そう言い自嘲した。

「……あなたはやさしい人ね。あの子たちが懐くのも解るわ。自分を責めないで。綿毛の蒲公英はいのちを繋いだ。あの蒲公英の子供はあなたに『ありがとう、と伝えて』と言っていたわ。あの子は生きてる。あなたが繋いだ。あなたも、愛するひととのいのちを繋いだわ。もうすぐ雪がたくさん降るね。だからあなたも、もう眠っていいのよ。除染も、雪が降ったら出来ない。冬は眠りの季節。何も怖くないの。たくさんの私達のいのちを助けてくれてありがとう。でも、もう、行かなくちゃ。余計につらくなる。あなたに見せたくはなかったけど、もう、大丈夫よ。現実を見て。」

男は、小さなサイドボードを見上げた。黒縁の写真に映されていたのは作業着の男の写真。フラッシュバックする、自分の死。横断途中の青信号だけが眩しかった。

『思い出した? 』

「私、なのか? あそこに飾ってあるのは亡くなった両親の写真じゃなかったのか? 」

動揺する男に、女は切なそうに言った。

「いつもの丘の上のパン屋さん。奥様は、お腹が大きくなって、食べられなくなっても、あのパン屋さんのチョココロネだけは食べられたって……あなた言ってたわ。」

「私は、もうここにはいないのか……。毎日の仕事は? 君たちは? 」

「すべて夢。そして、私達は蒲公英と同じよ。あなたが除染の時に、助けてくれた花たちよ。……でも、私はもっと昔。あなたのお父様とお母様に助けてもらったの……そして、あなたが育ててくれた山百合よ。今のあなたは、時間と空間、記憶……全てと隔絶したの……あまりの、悲しみで……。」

俄に信じられないその真実と、ぼんやり残る記憶。女から薫る夏山の甘い匂い。父と母の笑った顔。両手に抱えたこうばしく温かなパン屋さんの袋。信号無視の乗用車。小さな斎場。お腹の大きなあのひと。家で、喪服もそのままに私の写真を抱いて、叫ぶように泣くあのひと──。

「妻がいるんだ。結婚して、子供ができて……。私は名前すら知らない。幸せの途中だった……。会いに行きたい。」

『ドアを開ければ解るわ』そう言うと、美しい女は山百合の鉢植えに姿を変えた。思い出す。両親の形見だ、この山百合の花は。父と母が、区画整備でなくなる裏山に咲く山百合の株を庭におろし、まだ小さな株を鉢におろした。それが今、大輪の花をつけた。

「おかあさん、あのひとだあれ? 」

「誰って、何か見えるの? ゆり。」

「ないてるよ、おとこのひと。おせんこうのへやにあるしゃしんのひと。」

小さな鍋をかき混ぜる木ヘラを止めて、女性は涙を流して、何かに祈るように大きな声で言った。

「あなた、何処にいるの? 声だけでもいいの。幻でもいいのよ……お願い。」

男は、部屋を見る。テラスに並べられた鉢植え。

『要らない』そう言われ、沢山の人にバイ菌のように扱われゴミに出されようとした草花たち。

除染の邪魔にされ、処理されそうになった山野草。傍らには固形肥料。じょうろ。大切に、してもらっていた。

花たちは、男が悲しみに耐えうる時を待っていた。やさしい言葉をかけ、代わりに耐えきれない慟哭を一つ一つ、土に埋葬するように記憶の底に埋めていった。痛みを、約束されたささやかな幸せを失うつらさを、妻のお腹の中の赤子に、会うことさえ出来なかったことを、あまりにもまだ若い無念の死を、花たちは夢を男に見させることで、男の傷を、傷だと男が気づかないうちに、癒そうとした。けれど、花たちのちからには限界があった。これ以上夢を見させる力がなかった。

『あなたの気持ちを伝えてあげて。花を託したら、空へ行きましょう。』

「あなた、あなた! 」

『君を置いていって、すまない。《ゆり》か。いい名前だね。君に似て可愛い。草花は君が育ててくれたのか? 』

「何故か朝になると、あなたの部屋に置いてあったの。だから……。」

『ありがとう。テラスのあの花たちを大切にして欲しい。そして、君とあの子にはこの花を。山百合。夏山の女王だよ。両親の形見なんだ。大切にしてくれ……君を、あいしているよ。ずっと、君をあいしているよ。』

「あなた……。」

『君はまだ若い。私に囚われなくていい。いつか、誰かを想うかもしれない。誰かを愛することは罪ではないよ。君の幸せが、私の幸せだ。君は私の永遠のひとだから』

「……おとう、さん? 」

『そうだよ。ゆり。やさしく、慈しむこころを忘れないで。正しくありなさい。いつかお前も恋をする。誰かを想うことに臆病になってはいけないよ。恋をすること、誰かを愛することは、尊いことだよ』

男は花に抱かれて二人の前から姿を消した。淡い微睡みから覚めて、広がるのは美しい世界。けれど、妻とあの子にはまだ会わない方がいい。そう解っているのに、男は《何か》に問わずにはいられない。

『私はあとどれくらい、いとしいひとをここで待たなければならないのでしょうか。』

贅沢な悩みだな──そう言い男は、見渡すばかりの花畑を見つめ、目を細めた。





《了》

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花と眠る 華周夏 @kasyu_natu0802

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