第3話 雲の日

 あの人に会うまでの時間がとても長く感じる。毎日、毎朝のように出会う場所を見つめてしまう。そこにあの人はいないというのに。

 この気持ちに言葉をつけるのが怖く感じた。何かを理解してしまうのが、高校生の僕からしてみれば恐怖に思えたのだ。きっと口にしてしまえばなんて事のないものなのだろう。拍子抜けな言葉で収まるだろう。けれど、それがもしも考えているよりも重大なものだったとしたら。そう思えば思ってしまうほどに怖いと考えてしまうのだ。

 最近は晴れの日を見ない。今日は曇りだ。ところによっては雨が降るらしいが、僕の地域では雨の心配はない。今日とてバス停を見つめる僕は、少しだけ滑稽に見えるだろう。


「羨望の眼差しはバス停じゃなくて憧れの人に向けるものだよ、みっちー」

「……サクラさん」

「やーやー。また会ったね、みっちー。どうだい? 青春とやらは見つかりそうかな?」


 いつもの調子で語るサクラさんに、どこか安心感を得る。どうして彼女に会うだけでこんなにも安堵できるのだろう。こんな不思議なことはない。何よりも胸の奥が温かくなるのは最大の謎だった。

 バス停近くに着いてタバコを咥えて火をつける。手慣れた動作を見て、やはり喫煙者なのだと思った。気持ちよさそうに白い煙を吐き出す彼女はうっとりした視線で僕を見つめた。

 何やら違いを見つけたらしい彼女は自らの色付き眼鏡を指さして笑顔で言うのだ。


「今日はメガネなんだね」

「あ、コンタクトを切らしてて」

「目、悪いんだ?」

「一応……」

「一応て。やっぱりみっちーは面白いな〜」


 やははと豪快に笑うサクラさんはとても姉御感を思わせる。高校生にはいない全く新しい人種だから物珍しいのだろう。面白さとやらは僕には理解できないが、彼女にしてみれば僕は面白さの対象らしい。どこがそんなに面白いんだろう。

 日差しはないのにツバつきの帽子をかぶっている。それがまた派手なデザインで、服装と相性がすごくいい。服選びの才能でもあるのか。ストリート系の姿は社会人には見えない。大学生だろうか。それとも服装が自由な会社にでも働いているのか。思い返せば僕は彼女のことを何も知らなかった。名前以外、ほとんど全部知らない。

 不思議そうに見ている僕の視線に気がついて、頬を掻く彼女は肩をすくめて、そういえばと話す。


「今日は彼氏とデートなのさ。だからこんなカッコなわけ〜。いいだろ〜」

「彼氏……いたんですね」

「そんなにモテないように見える? え、あたし自身絶世の美女だと思ってたんだけど」

「自分でそう言ってる人が絶世の美女だった試しがなかったと思うんですけど」

「ひっどいな〜。まあ、言われてみればそうなんだけどさ」


 ちくりと、胸の奥が痛んだ。その痛みの理由を僕はわからなかった。

 しかし、デートというが今日は平日だ。やっぱり大学生なのだろうか。大学生は休みが多いと聞いたことがある。見た目的にも大学生だと言われたほうがしっくりくる。結局知りたかったことは何ひとつ教えてもらえそうにないが、サクラさんが陽気な理由はわかった。

 これだけ綺麗な人だ。彼氏がいたって不思議じゃない。それこそ普通のことだろう。何も気にすることはない。気にする必要がない。僕は彼女にとってただの高校生なのだ。そこらにいる学生の1人に過ぎないのだから。


「およよ? なんだか悲しそうな顔になってるけど、どうかしたのかい?」

「してませんよ」

「してるじゃないか〜。不思議な子だね、みっちーは」


 笑顔。太陽のような微笑みが僕の顔を覗き込んでくる。

 また胸の辺りがちくりとする。

 この痛みはどういった名前なのだろう。知りたい気持ちと裏腹に、知ってしまったら傷ついてしまう気がしてまた恐怖する。サクラさんの言うように不思議なこともあったものだ。


「悩みがあるときはね――」

「悩んでもいませんよ」

「いいから聴きたまえよ、少年。ともかく、悩みや悲しいとき……難しい顔をしているときはね。一旦、それを放り投げてしまえばいいのさ〜」

「なんですか、それ」

「ぽーい。ってな感じで遠くに投げてやればいい。悩みなんてものは悩んでいる時には解決しないものだからね。悲しい時も悲しんでいれば誰かが助けてくれるわけでもない。もしかしたら助けてくれる人もいるかもしれないけれど。その人が現れるのは次の瞬間なのか、それとも何十年も先なのか誰もわからない。そんなことに時間を費やすだけ無駄ってものだよ〜」


 ね。とサクラさんは言う。明るい表情は、まるで僕の胸の痛みの名前を知っているよう。その答えを与えてくれないのが、また彼女らしい。それっぽいことを言って、さらっと解決してしまおうとしている。そんなに簡単に治るものなら、初めから悩んでなどいないと言うのに。

 はっ。と僕は想う。いま、悩んでいたのか。でもなぜ。一体何に悩みを持ったと言うのだろう。

 空を見上げる。雨が降りそうにない曇り空。この空のように僕の心には雲がかかっているようだ。


「今できることをできるだけ、やれるだけやるのさ。そうしたら案外、悩みや悲しみがなくなっているものだからね」

「そんなに簡単なことですか?」

「簡単なことじゃない。でも普通のことだよ。普通の人はそうして生きている。だからみっちーにもできるよ〜。みっちーは普通の高校生だからね」


 僕が普通なのはその通りだ。そして、普通ならばそうするものだと言われれば、きっと僕にもできるのだろう。

 サクラさんから見た僕は普通の高校生なのだ。普通の学生が、普通に悩んでいただけに過ぎない。そう僕は普通なのだ。

 そうしてバスがやってくる。楽しそうに乗り込んでいく彼女の背中を見て、再三胸が痛む。助言の通り、この思いを放り投げてしまおう。それが普通だと言うのなら、尚更。

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