フィデリオ様
「ああ、もう私ったら……」
「食べる気になったのね。さあさあ、料理長に作ってもらったばかりよ。朝話してたパンプディング! あとレモングラスのハーブティーはエルノのおすすめよ」
「グレイスーー私恥ずかしくって、駄目だーーあーー」
「誰だってお腹がすくわよ、わたしだっていっつもお腹なってるわ、平気よ」
「それもだけど、薬師の人達や……フィデリオ様に」
「大丈夫だって! フィデリオ様も言ってたでしょ」
グレイスは笑いながらラウラの手を掴み、テーブルへ連れて行く。
促されるまま椅子に座ると、甘くて香ばしい匂いがラウラの胸いっぱいに広がった。
「わあ、なんて良い匂いなの」
芳醇なバターとシナモンの香りが、目の前に立ち込めている。
ラウラは大きく息を吸い込み、子供のようにテーブルを覗き込んだ。
その時、またラウラのお腹がきゅうっと鳴った。
「ふふふ、美味しそうでしょ本当に最高なのよ! パンに入ってるレーズンは、特別な葡萄で作ってるからとてもみずみずしいの! 早く食べてみて!」
「うん」
「わたしも食ーべよーっと」
グレイスはラウラの正面に座り、二人のカップにハーブティーを注ぎ入れた。
パンプディングの甘い香りを、レモングラスの爽やかさが包み込む。
「いただきます」
「はい召し上がれ。いただきまーす」
まだ湯気が昇る容器から、大きなスプーンで自分の皿に取り分ける。
ラウラは、冷ます時間さえ惜しむように、一気にパンプディングを頬張った。
「はあふっ、はふっ、おいひいー」
「でしょー」
グレイスは、子供のように頬を膨らませたラウラを見て、満足そうに頷いた。
そして、「わたし猫舌なのよね」といいながら、パンプディングにふうふうと息を吹きかけ、口に運ぶ。
しっかり焼き目が付いた表面から、カリッという心地よい音が響き、グレイスは目を細めた。
中のパンは、甘いミルクと卵がたっぷり浸み込んでおり、少し酸味があるレーズンがさらに甘さを引き立てる。
たっぷりかかったシロップが、パンプディングの表面でキラキラと輝いている。
「あーもうっ、最高っ」
「本当に最高だわ! グレイスの言うとおり、こんなおいしいパンプディング初めて食べた」
「これはね、レーズンパンを焼いた翌日にしか出ないのよ。ラッキーだったわね、ラウラ」
「まあ、私ついてるのね嬉しい。ねえこのシロップは何? 蜂蜜かと思ったけど、もっと優しくて不思議な香りがする」
「これはメープルシロップよ。寒い地方の木からとれるの、美味しいよねーわたし大好き」
「メープルシロップ! 聞いたことあるけど食べるのははじめてよ。こんなに美味しいなんて」
お喋りをしながらも、ラウラの手は止まらない。
大きな耐熱皿からパンプディングを取り分け、レモングラスのハーブティーを飲み、またパンプディングを口に放り込む。
グレイスも、ラウラに続くようにもくもくと食べている。
大きな耐熱容器いっぱいに作られていたパンプディングは、あっという間に空になっていた。
二人は同時にふうっと息を吐き、顔を見合わせてくすっと笑った。
「ラウラが元気になって良かったわ」
「さっきは本当に……」
「謝るのは禁止よ」
「あっ、ごめ……ありがとうグレイス」
ラウラが恥ずかしそうに笑うと、グレイスはカップにハーブティーを注ぎながら頷いた。
続けて、空になった食器とカトラリーを小さなワゴンに乗せ、テーブルの上を片付けていく。
「ティーポットにはまだたっぷりお茶が入ってるから、ここに置いておくわね」
「ありがとうグレイス。あの、温室は……」
「大丈夫よ、まだ疲れが取れていないなら、明日からでもいいってフィデリオ様が言ってたわ」
「ああーもう、私どうして倒れちゃったの……」
ラウラはそう口に出したが、薬草の成長に動揺したことと、『聖女』と呼ばれたことが原因だと気づいていた。
薬師たちに悪気はないのはわかっている、それでも胸がきゅっと苦しくなった。
「聖女……」
「ああ、それ言ったのエルノね。あの子すぐ人にあだ名をつけるの。オリヴァー薬師長なんて地質学者なのよ」
「えっ、学者なんてすごい」
「違う違う。ラウラのことを『聖女』と呼んだように、『地質学者』もあだ名。オリヴァーさんのことよ」
グレイスが説明をしながら笑っている。
『聖女』と呼ばれて狼狽えてしまったが、他にも『地質学者』と呼ばれている人がいる?
ラウラが目を丸くしていると、グレイスは楽しそうに続けた。
「エルノはね、博士って呼ばれたかったみたいなの。でもオリヴァーさんと、なんだかわからないクイズを出し合って負けたんですって」
「薬草のクイズかな?」
「んー多分そう、わたしはわかんないけどね。でも調合は一番早いらしいわよ、早さが重要なのかわたしにはわかんないけど」
「薬草によっては早い方がいい場合もあるかな。そういえば昨日、道具を用意してくれたのはエルノさんだったわ」
「棚の整理は毎日エルノがやってるみたい」
「まあ! 本当に美しい薬品棚だったわ、あれをエルノさんが……」
ラウラは、美しい金色の巻き毛をぴょんぴょんと揺らし、人懐っこい笑顔のエルノを思い出す。
リーアムさんと兄弟と言っていたけど、年齢はあまり変わらないように見える。
でも、リーアムさんのほうが身長が高いから、エルノさんは弟かな?
グレイスに二人のことを訊ねようとした時、彼女の方が先に口を開いた。
「それでね、エルノとリーアムが兄弟なのは知ってるよね?」
「うん」
「二人は一歳違いで、エルノの方がお兄ちゃんなの」
「まあ、ちょうど今考えてたの。てっきりリーアムさんがお兄さんなのかと……」
「うんうん。エルノが12歳になった頃にね、身長抜かれちゃったんだって! まだわたしより小さいのよ。だってね、食べ物の好き嫌いがすっごく多いの! これ言ったらすっごく怒るんだけどね」
グレイスの大きな瞳が一段と輝いた。
とても楽しくて仕方がないという表情で笑っている。
15歳の少女らしい笑顔に、ラウラもつられて微笑んでしまう。
ふとラウラは、自分が生まれ育った村にいたサリーのことを思い出していた。
両親の仕事が忙しい時に、お世話をしてくれた雑貨屋のサリーお姉さん。
お姉さんは、鍛冶屋のケビンさんと仲が良くて、よく二人に遊んでもらっていた。
その時、ケビンさんを見るお姉さんの目が、いつも輝いてたっけ。
私は二人のことが大好きで、結婚が決まった時はうれしかったな。
あ! グレイスは、あの時のサリーお姉さんと同じ目をしてるんだ。
どこかから光が差し込んでいるかのような、キラキラした瞳。
もしかして……エルノさんのことが好きなの?
「ねえグレイス。グレイスはエルノさんと仲が良いのね」
「えっ? なに? どうして?」
突然の問いかけに驚いたのか、グレイスの頬が一気にピンク色に染まった。
大きな瞳を瞬かせ、もう一度「どうして?」と言いながら席を立ち、せわしなく両手で顔をぱたぱたと扇いでいる。
「だって、エルノさんのこと詳しいから」
「えっ、いやっ、違うわよラウラ。ほら、エルノってなんだか弟みたいなの、うん、そうなの!」
耳まで真っ赤にしたグレイスは、そう言ってワゴンに手をかけた。
「さーてと、ラウラも元気になったみたいだし、わたしはいったん仕事に戻ろうかな」
「そうだったわ、グレイスはお仕事があるのよね。本当にありがとう」
「ううんいいの。また昼食の時間に呼びに来るわね」
「うん」
「あと、棚とか机とか、足りないものがあれば遠慮なく言ってね。って、わたしが用意するんじゃないけど」
グレイスは肩をあげて、ふふふと笑った。
まだ少しだけ頬が赤い。
ラウラは、この部屋には何の不満もなく、十分すぎるほどだと思っていた。
荷物も少ないため、片付けもすぐに終わってしまいそうだ。
ほんの一時間ほど前まで、自分がここで働いていけるのかと不安でいっぱいだった。
それが今、嘘のように胸の奥の靄が晴れ、すっきりとしている。
美味しいパンプディングを食べたせい?
それとも『学者』というあだ名の人がいると知ったから?
グレイスが、そのあだ名をつけた人物のことを、好きかもしれないと感じたから?
何にしても、自分は意外と単純なのだなと思い、ラウラは一人でくすっと笑った。
薬師さんたちは、きっといい人ばかりだ。
多分、「聖女」と言われたことは深く考えなくてもいい。
それに、初めて同年代の女の子の友達が出来た。
グレイスともっと仲良くなりたい。
そして、フィデリオ様……。
とても美しくて、それでいて気取らず、街の皆に愛されている。
線が細く華奢に見えるのに、腕も胸も筋肉質で……って、え? どうして私そんなことを?
突然、誰かに包み込まれているような感覚が、ラウラの身体によみがえった。
低くて優しい声が、何度も自分の名前を呼んでいる。
ラウラは、全身が一気に熱くなった。
やだどうしよう! グレイスが言ってたこと、本当だ!
私、フィデリオ様に抱きかかえられてこの部屋に運ばれた!
自分の身体からなんだか良い匂いがしてたのも、フィデリオ様の?
きゃーーーー駄目だーーーー恥ずかしいーーーー!
「どうしたのラウラ?」
ラウラが両手で顔を覆った瞬間、グレイスの声が聞こえた。
両手の隙間から声の方向を見ると、部屋の扉の前でグレイスが首を傾げている。
「なんでもないわ、本当にありがとうグレイス」
「そう? じゃあ昼食は1時だからね、呼びに来るわねー」
「うん、ありがとう」
ラウラが笑顔を見せると、グレイスは小さく手を振って応え、部屋を出て行った。
木の扉が、パタンと軽い音を立てて閉まる。
一人きりになった部屋で、ラウラは自分の心臓の音が耳に届くほど、ドキドキしていることに気付いた。
胸の高鳴りが、恥ずかしさだけではないような気がして、ふぅーっと大きく息を吐いた。
「よし、片付けよっかな」
ラウラは、自分に言い聞かせるようにわざと声を出して呟き、小さな鞄を広げた。
それでもまだ、胸の鼓動は収まることがなかった。
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