二、背中に添えられた手
ゴールデンウィークが明けてしばらく後に、北海国際では遠足がある。連休前のある日、遠足の班決めや準備などを話し合う時があった。クラス委員長の前橋晴人(まえばしはると)くんと、副委員長の中田佳代子(なかたかよこ)さんが、教室の前に出てくる。前橋くんが大きな声を教室に響き渡らせた。
「えーっと、いいかなぁ、んじゃ班決めるよー!」
ついで中田さん。
「ほんじゃ班長から。立候補はぁー?」
その掛け声と同時に、教室から何人もの手が上がる。こういう、いわゆるまとめ役というものは、おおよそみんな嫌がるものだけれど、北海国際の子たちの積極性というのは、こんなところにも現れている。
「四人かぁ。あと一人ほしいな。ほい、もう一声!」
前橋くんに促され、あと一人の手が上がった。これで班長は五人。クラスは三十人いるから、一班あたり班長含めて六人ということになる。ちなみに手を挙げた班長の中には、乱暴な佐伯遥もいた。
「それじゃあねぇ、これから班員五人の役割を決めます」
と、中田副委員長。
「基本的に立候補制ね。私たちが『◯◯係はぁ?』って聞いたら、さっと手を挙げてちょうだい。早い者勝ちだよ!」
だいたいこんな決め方で班員の役割が決まっていく。そして私がどうなるかと言えば、わざわざ言うまでもないことだ。
「お弁当係!」──。六人挙手、一人他に回る。私は挙手できない。
「パンフレット係!」──。五人挙手。私は挙手できない。
「案内係!」──。七人挙手。二人他に回る。私は挙手できない。
「連絡係!」──。六人挙手。一人他に回る。私は挙手できない。だんだん泣けてくる。
「レクリエーション係!」──。四人挙手。私はどこにも挙手できない。こんなシステムで私が参加できるわけがない。喉がヒックヒックと鳴ってきた。
「えーっと」と、前橋くんが相変わらずの大きな声で頭数を数える。
「お弁当係、一、二、三、四、五。パンフ係一、二、三、四、五。案内係一、二、三、四、五。連絡係一、二、三、四、五。レクリエーション係一、二、三、四…、か。うん、まあいいだろう」
私は鍋で頭をガンと殴られた気がした。「うん、まあいいだろう」。前橋くんの言葉が私の脳髄を絞り尽くす。なに?まあいいって。クラスで挙手してないの私だけだよ?その私が「まあいい」んだ。私なんかいてもいなくても「まあいい」んだ!私はやにわに席を立って廊下へ飛び出した。それを止める声もしない。ああそうですよね、「まあいい」んだから。
「…っく…うっ…、うううっ…すはああっ、うえええええええんっ!…ぐうっ、すはああああっ、えええええええええんっ!」
私はいつも窓の外を見下ろしているところへ走ると、顔を突っ伏し、大声で泣き出した。すぐ背後にクラスの子達がいる。私の泣き声は当然後ろにも聴こえているだろう。いいんだ、これが私の意思表示だ!私は大きく口を開いて一層激しく息を吸い込むと、まるで火が付いたように泣き喚いた。
「すはああああっ!ええええ…えええええんっ!え…え…え…えん、す、すはああああっ!…ええええええええんっ…え…ええ…え…」
激しく泣きすぎて、息を吐ききっても、すぐには息が吸い込めない。これ、むちゃくちゃ苦しい。どうして私がそんな苦しい思いしなくちゃいけないの?そう思うにつけ、一層悲しくなってつらくなって寂しくなって、私は泣き散らす。
「すはああああっ!えええええええええええんっ…!す、すはああああっ!ええええええええええんっ!」
「……香、ふ……か」
そんな私の耳に、何かが聞こえてきた。誰の声だろう? いや、そんなことは関係ない。私は今泣くのに忙しいんだ!
「文香。文香」
「えええええええ…え…え…えんっ…すはああああっ!うええええええんっ!」
気がつくと、私の背中に手が添えられている。私が大きく息を継いで背中がぐっと膨らむたびに、その手が持ち上がっているのが感じて取れる。ああ、もう!私は「まあいい」人間にされて泣いてるんだ、そんな人間に誰が関わりを持つというの⁉︎でも…背中の手、大きいな。それにあったかい。ぬくもりが、伝わってくる。誰がこんなぬくもりを与えてくれるんだろう…。
「えええええええ…え…え…えん、すはあああっ、うええええええんっ!」
「文香。いい加減にもう泣き止め。なんだ、こんな大きな声を出して」
それでもその声は、私を包み込んでくる。大きな声?ああそうですとも、全力で泣いていますよ。それにしても、この声、誰だっけ…。緩やかで、温かい、その声。それに導かれるようにして、私は顔を上げた。涙に曇った私の目に、映ったその人は……。
「お…おおた…せん、せい」
「太田先生じゃないよまったく」
先生は私の背をさする手に力を込めた。
「F組の授業が早めに終わって廊下に出てみたら、えらい泣き声が聞こえてくるだろ。文香になにがあったってんで、飛んできたんだ」
「……飛んできた?」
「当たり前だ」
先生は、本当に当たり前だといわんばかりの顔でそう言った。
「大事な文香が、そんな悲しそうな声を上げて、息継ぎもできないくらいの勢いで泣き叫んでいるとあっては、何を置いても駆けつけざるをえまい」
大事な…?何を置いても…?駆けつける…?
「やめてください!」
私は先生を押し返した。
「私、先生が思ってくれているほど、大切な子じゃないです!今だって、私一度も挙手しなかったら、私なんていないものにされてしまったんです!私なんて…、私なんてそんな程度、それくらいの子でしかないんですっ!」
そう叫んだ瞬間、先生の両手が、私の両頬をぐいっと挟みつけた。男の人にしては、ふわりとした、柔らかな手だった。
「文香。たとえ誰が、文香をいい加減に扱おうとも、この俺にとって文香は、北海国際の掛け替えのない女の子だ。誰一人すら、文香の代わりを務められる者はいない。文香、つらいと思うときもあるだろう、死にたいと思うときもあるだろう、でも忘れるな。文香が死んだら、代わりは誰もいないんだ!」
太田先生…。どれほど説得力のないことを言う人だろう。私の代わり?そんなもの掃いて捨てるほどいる。いや、そもそも私の代わりなんて不必要だ。でも…でも、どうして?どうしてこの人の言葉は、こんなにも温かく私の胸を打つのだろう。涙がまたぽろぽろと溢れ出してきて、私の頬を伝い、太田先生の両手へと流れ込んでいく。
「先生…先生、うっ…、ううっ、すはあああっ、ええええええんっ!」
吹き出す嗚咽。私は再び大きく息を吸い込むと、先生の胸に顔を埋めて泣き出した。でも、二息も三息も泣かないうちに、今度は太田先生とは別の声が私を呼んでくる。
「はいはーい、池田ぁ、もう十分泣いただろぉ」
変に耳を打つソプラノ。聴き心地が悪いから私は嫌いだ。
「ほらっ、池田文香っ、こっち向け。あんまり論理に面倒掛けてんじゃねぇ!」
このソプラノに、この乱暴な口調。顔を上げなくてもわかる。佐伯遥だ。怖いからあまり見たくないけど、言うことを聞かないと何されるかわからないから、恐る恐る顔を上げる。怖い顔をした佐伯さんが、私の顔の前に右腕をぐいっと突き出してくる。そして言う。
「ハブられたくなければ一緒に来い!」
そして佐伯さんは私の腕を取ると、太田先生に「ほんじゃね論理」と挨拶し、太田先生の手から私を力強く引き離した。どうともこうとも言えない私は、そのまま教室の中に再び連れ込まれ、佐伯さんの席へと導かれていった。
「おい、お前、いい加減わかれよな」
佐伯さんの席で、私はまだ右腕をつかまれている。
「北海国際(ここ)の奴らはな、不器用なんだよ。特にお前のような奴に対してはな」
私は、恐る恐る佐伯さんに聞き返した。
「どういう…こと…?」
「こういう賑やかな奴ばかりいるだろ?だから、賑やかな奴どうしだったらどうとでも接せれる。でも、そうじゃない奴に対しては、なんとしていいかわからない。それがここの奴らだ。いいか、池田。お前が変わらなきゃどうしようもないんだよ」
「そんなこと…言ったって…」
相変わらず強引なことを言ってくる人だ。私が変わらなきゃって言ったって、変わっていられるものならとっくの昔に変わってる。
「よし、それじゃあな、池田。あたしの班を紹介するよ」
黙っている私を無視して、佐伯さんは勝手に自分の班員を紹介し始めた。
「まずこいつ。連絡係の徳永智世(とくながともよ)。台湾と日本のハーフだったよな。結構無口な奴だ。池田と似たようなタイプだな」
佐伯さんは、隣にいる徳永さんを紹介した。徳永さんなら私知ってる。この人も、深々とした黒髪が美しい。長さはやっぱり腰のあたりまである。佐伯さんの言う通り、確かに無口な人だ。
「よろしく、池田さん」
徳永さんは、銀縁眼鏡越しに私をまっすぐ見つめてそう挨拶した。目は細くて、その中の瞳は暗くきらめいている。やっぱり、暗くて重い感じの人だ。
「よ、よろしく…お願いします」
自分と似たようなタイプの人だけど、何故か苦手意識を持ちながら私はようやくのことで挨拶した。
「さてこいつだけど、案内係の屋代真美(やしろまみ)。この冬にソルトレイクシティから転校してきたばかりの奴だ。あたしもまだどんな奴かはよくわからないから、ほれ、自己紹介してくれ」
「えーっと、いきなり振られましたねぇ、うふふっ」
屋代さんはそう言って、笑った。低くてふわっとした声が印象的だった。丸顔で大きな目をしている。頬もふわふわとしていて、お菓子みたいな子だと思った。
「ソルトレイクからきました屋代です。ズバリ、アニオタです!同人誌も作っています!池田さんも興味があったらぜひ仲間に入ってください」
屋代さんの自己紹介に、佐伯さんが嬉しそうな声をあげた。
「おお!真美、お前、アニオタだったのかよ!実はあたしもそっち方面好きでさ。同人誌も一緒に作ろうぜ!そうだ、ここの六人で一緒に作ってもいいな!」
同人誌?そんなの作ったことないよ。私、絵も描けないし。ああ、私、ここでどうなっちゃうんだろう…不安しかない…。
「それじゃあこいつ。お弁当係の長岡千恵美(ながおかちえみ)。その隣にいるパンフレット係の宮城浩(みやぎひろし)の彼女さんだよ。身長百四十三センチというのが可愛いね。あたしなんか百六十八もあるから、ちっちゃい子がうらやましいよ」
そう紹介された長岡さんは顔を赤らめた。
「チビはチビでコンプレックスがあるんだってば。よろしくね、池田さん。気楽にやろ」
色の白い長岡さんだったけど、エラが張っていて、顔の形はホームベースのように見える。でもその顔貌に愛嬌があった。
「よ、よろしく…」
私は長岡さんに頭を下げる。
「さてこの宮城浩だが、うちの班の黒一点だ。なにかと頑張ってもらうからよろしく頼むぜ。頼りなさそうに見えるけど、意外にも北海国際のバスケ部のエースだ」
「頼りなさそうで悪かったな。パンフレット係はいろいろ忙しいから他のみんなの役に立てるかわからないけどなるべく頑張る。池田さん、よろしくね」
宮城くんは、そう私に声をかけてくれた。あ、私、男子から声かけられた。どれくらいぶりだろう…。
「よ、よろしく…お願い…します…」
全身がギュッと引き締められるような緊張感とともに、私はやっとのことで宮城くんに声を絞り出した。
「よーっし!残るはこの問題児だ」
そう言って佐伯さんは、私のことをズバッと指差した。
「自己紹介しろなんて言っても無理だろうから、あたしが勝手に喋らせてもらうよ。今回、あたしの大抜擢により、うちの班のレクリエーション係に自動的に就任した、池田文香だ。ロサンゼルスからの帰国子女で、北海国際には中学一年の頃からいる。そうだよな?」
「は、はい…」
「誕生日は六月一日。双子座。血液型はA型。好きなことは、廊下でボーッとすること。嫌いなことは、人と会話をすること。そうだよな?」
「……………」
違う。そうじゃない。私は人と会話をしたい。いつだってそう思ってる。でも…。いつもの私の態度から、人はそういう風に自分を見るのだろうなあと思う。だけど、ここで何も言わないのは…。私は、拳を握りしめた。そして、首を横に振る。
「ううん、私…」
「うん?どうした?」
少し大袈裟な動作で、聞き耳を立てて見せる佐伯さん。
「私…」
「だからどうしたって!」
「あの…ね…」
私は声を絞り出した。
「私…、会話が嫌いじゃない。クラスのみんなと…、お話し…したいの」
「へぇ、そうだったのか」
そう告白する私に、佐伯さんは目を丸くした。
「池田っていえば、廊下で窓の外ぼうっと見てるだけってイメージがあってさ。てっきり人との間に垣根作って閉じこもってるやつだとばっかり思ってた」
「ち、違う…。私、そうじゃない…」
「そうかそうか」
やっとのことで言った私の肩を、佐伯さんがポンポンとたたく。その顔はにこやかで、かわいらしかった。佐伯さん、こんな顔も見せてくれるんだ…。
「池田、お前さ、臆病になってるばっかじゃダメだぞ。さっきも言っただろ、北海国際(ここ)のやつらは、臆病者には何もできねぇ。だけどさ、自分から一歩踏み出せば、いくらでも受け入れてくれるやつらばっかだ」
「う、うん…」
「まずは手始めに、あたしらからやってみろ。大丈夫、誰も取って食いはしねぇから。安心して話でも何でもすればいい」
「わかった…」
佐伯さんの明るい笑顔に導かれるように、私は小さくうなずいた。
「んじゃ、手始めに、それぞれの係りで何をやるか、あたしから説明するよ」
そう言って佐伯さんは、手際よく各係の説明を始める。その中では、私が担当することになったレクリエーション係についての話もあったが、その言葉はなかなか私の耳には入ってこない。半ば強引に佐伯さんの仲間にさせられたけど、そしてその佐伯さんは思ったよりいい子みたいだけど…、でも、私これからどうなるの?という不安が大きかった。
下校時間になった。帰り支度をする私に、佐伯さんがいきなり声をかけてくる。
「文香!」
「えっ…?」
名前を呼ばれたことに驚く。佐伯さんはニヤリと笑った。
「いいだろ。あたしのことも遥でいいから」
「う…うん…」
今日はどうも佐伯さん…遥のペースに乗せられてばかりだ。
「それでさ文香」
遥はじりっと私に近づいた。反射的に身構えてしまう私。でも遥はそんなこと気にする様子もなく、こう言う。
「お前さ、部活何かやってるか?」
部活?そんなこと、私がやるわけがない。
「う、ううん。何も…」
「そんじゃあさ文香、あたしの部活見学してかねぇか?」
「え…?は、遥の…?」
また突然なことを言いだす遥。
「何部…なの?」
「合唱部だよ!」
遥はそう言って胸を張る。教室に流れ込む春の日差しを受けて、遥の、背中まであるロングヘアがきらめいた。まあまあきれいな髪だ。私ほどじゃないけど。それにしても合唱部…?私、歌なんて歌う柄じゃないし。
「でも…私…」
「いいからいいから!ただ見学するだけなんだから、入部させられることもねぇし」
遥は私の腕を引いた。
「う…うん…」
合唱なんて興味がないんだけど、遥の強引さに負かされるような形で、私は音楽室に引っ張られていった。
音楽室の入り口をくぐると、そこにはもう三十人くらいの部員が集まっていた。全員女の子。もともと北海国際の生徒の七割以上が女子なのに加え、合唱部という部活の性質上、部員は女の子に偏りがちになる。
「こんにちはー」
遥が元気に挨拶。
「こんにちはぁ」
それに対して部員のみんなも、口々に大きな声で挨拶を返す。あぁ…。このコミュニケーションがすでに苦手だ。遥は、ドギマギする私を引っ張って、音楽室の奥にいる顧問の山倉(やまくら)先生のもとに行く。
「大輔(だいすけ)っ!見学者一名連れてきたぁ」
遥に名前を呼び捨てされた山倉先生だが、それを気にする様子もない。
「おぉ遥か。その子が見学か?」
音楽の授業は中一の頃から受けてるけれど、山倉先生は私を「その子」と言った。名前覚えられてないな。ちょっとショック。
「それ、名前くらい自分で言いな」
遥に脇腹を肘で小突かれる。
「あ…えと…。い、池田…文香…です…」
ようように名前を言う私に、山倉先生が微笑みかける。
「そうか。池田は、歌に興味があるか?」
ありませんと言える状況ではなかった。
「あ…は、…はい」
下手な嘘をつく私に、山倉先生は目を細めた。
「うんうん。じゃあ今日は後ろの席で、ゆっくり見学していくといい」
「はい…」
「こっちだよ文香」
遥に再び腕を引っ張られ、私は音楽室後ろの席に着かされる。
「よーし、じゃあ練習始めるぞー」
山倉先生が指揮棒で譜面台を叩くと、それに合わせて部員が席につく。ちなみに遥以外、私が見知った子はいない。先生はみんなの顔を見渡した後、「では声出してみよう」と、ピアノに向かった。短い和音とともにみんなが息を吸い込む音が聞こえ、「あーあーあーあーあー」と勢いのいい声が響く。その中でも、遥の歌声が一際よく聞こえる。もともとあまり好きな声ではなかったけれど、今はそれほどでもない。息を継ぐたびにその肩が大きく動くのが、遥の一生懸命さを物語るようだった。やがて発声練習が終わる。
「よし、じゃあ『COSMOS』いくぞ。中小路(なかこうじ)、ピアノたのむ」
「はい」
中小路さんと呼ばれた女子が席を立ち、ピアノの前に着いた。
「それじゃ一度全曲通して歌うぞ。起立」
私を除く全員が立ち上がる。猫背の私と違って、みんな姿勢がいい。私もここに入ったら、背筋が伸びて、少しはシャンとできるかな。山倉先生が指揮棒を構えると、みんな肩幅の広さに足を開く。先生の指揮棒が動いて、中小路さんのピアノが流れてきた。短い前奏に続いて、みんなが歌い出す。私の右側が、遥のいるソプラノ、正面がメゾソプラノ、左側がアルト。美しいハーモニーが聞こえる。みんな伸び伸び歌ってる。私なんか、しゃべるのでさえ苦手なのに、歌でこんな元気に声出せるなんてすごいな…。私は遥のほうを見る。サイドに流れたロングヘア越しに、頬と顎がきびきび動いているのが見えた。大きな口を開いて息を吸う遥。肩がぐっと上がり、制服の背中が膨らむ。打ち込んでるな遥。そんな打ち込めるものがあるっていいな。私なんか、家と学校を往復するだけで、興味のあるものなんて何もない。
「ひーかりのこーえがそらーたーかーくきこーえるー…」
なんか今のフレーズすごく長くなかった?そんなに長く息続くんだ。私は思いきり息を吸ってみた。けっこう吸える感じがする。さっきあんなに激しく泣けたんだから、私もその気になったらたくさん息吸って、こんな長いフレーズも歌えるかな。でもダメだよね。私、歌とかなんとかという前に、声出すこと自体に慣れてない。学校に来たって、来てから帰るまで一言もしゃべらない日のほうが多いもの。遥が大きな声で歌い続けている。大柄なその身体から、印象的なソプラノが聞こえる。ちょっと強引なくらい積極的な遥。身体全部で声を出す遥。そんな遥が羨ましかった。私も、遥の十分の一でもいいから、前向きになれたら…。
練習は一時間半くらい続いた。長い時間だったけれど、真剣に歌うみんなや遥を見ていたせいか、実際の時間よりも短く感じられた。練習が終わると、遥が私のもとにやってくる。表情はにこやかで、部活をやり終えた爽快感のようなものが感じられた。
「よう、文香。どうだった?」
どうだったと言われても…。返す言葉がすぐには見つからない。
「う、うん…。そう、だね…」
えーと、えーと、何て言おう。
「みんな、元気で…、よかった」
「そうだろうそうだろう」
遥はほがらかに笑った。私の中の「怖い子」という遥のイメージが拭われていく。
「ウチは、元気さという点では、よそのどこの学校にも負けてねぇ。みんな身体いっぱいに息を吸い込んで歌ってる」
「だよね…。みんな一生懸命で。羨ましい」
「どうだ文香。ここで一緒にやらねぇか」
「え…、ちょ、ちょっとそれは…」
しゃべることさえ不慣れな私に、歌なんてできるはずもない。でも…、ひょっとしたら私にもできるかもしれないという気持ちはあった。だけどそんなこと言えない。
「そうかそうか。気が向いたら来てくれ。まああたしも、文香が今日いきなり入部してくれるとは最初から思ってなかったし」
「え…、じゃあ、どうして…、私を誘ったの?」
遥の、二重瞼で黒くて大きな瞳が、きらりと光った。
「せっかく親しくなったんだしさ文香。今日は文香と一緒に帰りたくて」
そして遥は、照れ隠しをするように私の腕をぐいっと取ると、急かすように言った。
「さ、帰るぞ文香。最後のスクールバスまであまり時間がねぇ」
正門前にあるバス発着所。もう夕暮れ時だ。部活を終えた生徒たちがたくさんたむろしている。その中に、遥と二人でやってくる。そんな私たちに、歩み寄る人影があった。それを見つけた遥が、表情をパッと輝かせる。
「あっ!秀馬(しゅうま)ぁ〜」
遥に手を振られた人影が、小走りに私たちのもとにやってくる。
「おお、遥。合唱部お疲れ」
夕暮れに浮かぶ人影は、目鼻立ちがまあまあ整った男子だった。きれいな人だけど、太田先生のほうが…、と思ってしまう私がいる。
「秀馬もお疲れ」
遥は、ちょっと甘い声でそう言うと、秀馬という人の腕にすがり付いた。そしてそのまま私を見る。
「文香。この人は坂口(さかぐち)秀馬。宮城と同じバスケ部だよ」
「そ、そう、なんだ。…お友だち?」
私にそう聞かれた遥は、照れ臭げに視線を泳がせる。
「友だちっつうか…、まあ、その…、あたしの、彼氏だ」
「あ、は、はい…」
あ、遥、彼氏いるんだ。いいなあ…。でもそうだよね、遥かわいいから当たり前か。
「秀馬、こいつは池田文香。同じクラスの、あたしの友だちだよ」
え?友だち…?今遥、友だちって言ったよね?遥と、私が?私に、友だちができたの?驚きとともに、何か温かいものを胸の中に感じる。それは、太田先生と一緒にいた時に感じたものと似ていた。
「よろしく池田さん」
軽く片手を上げて、坂口くんが挨拶してくれる。切れ長でやや吊り目の目元が涼しげだ。じっと見つめられて緊張する。
「よ…よろしく、お願い…します…」
ようやく声を絞り出す。それを見た遥が笑う。
「あはは。そんなカチコチになる必要ねぇよ。秀馬優しいから安心しな」
「う、うん…」
私たちのもとを、一陣の風が吹き抜けていった。日暮れ時ながら、その風には暖かさがある。季節はもう、春から初夏へ移ろう頃だった。
「んじゃ、バス乗ろっか」
遥に促され、私はバスに乗る。車内にはいくつもの友だちグループができて賑わっている。いつもなら寂しさに襲われるシーンだけど、今日は違う。
「文香、秀馬、こっち座ろ」
ちょうど空いていた後のほうの席に座る。窓際が坂口くん、その隣に私、通路を挟んで遥。ん、私おじゃま虫してる?
「は、遥…。私、席…、代わったほうが…」
「え?あはは、いいよいいよ。気ぃ使うな」
遥は笑いながら手を振って、気さくに応えた。そうこうするうちに生徒全員が、それぞれの方面行きのバスに乗り終える。暮色が深まる中、扉が閉まり、バスが発車した。
「それにしても」
窓の外を見ていた坂口くんが、私たちに向き直って言う。
「池田さんと遥、いつの間に友だちになったんだ?」
「今日からだよ。ね、文香」
「う…うん…」
遥がニヤニヤ笑う。
「誰かさんがさぁ、窓際突っ伏して『寂しいよぉぉっ!』って大声上げて泣き喚くから、このあたしが友だちになってあげたんだよ」
「あぅ…」
顔を赤らめてうつむく私。そんな私を坂口くんがのぞき込む。
「そういえば、一限目に大きな泣き声が聞こえてきてたな」
「どうする文香。秀馬F組だぞ。文香の泣き声、一階の端から端まで聞こえてたってことだぜ」
いたずらっぽく笑う遥に、私はますます言う言葉をなくす。さっきは胸いっぱいの息で、全力上げて泣いたからなぁ…。
「池田さん、そんなに泣かなくちゃいけないくらい寂しかったのか。一体何があったんだ?」
そう聞く坂口くんに、遥は朝の班ぎめの一件を話して聞かせた。
「そうか…。池田さん、立候補できなかったのか。内気なタイプの子には、そういう決め方は酷だろうな」
「うん…」
バスは「グリーンロード」と呼ばれる有料道路に入った。ここからしばらくの間、緩やかなカーブを切りながら、バスは信号待ちもなく、滑らかに走る。遥はしばらく、坂口くんと部活の話をしていたけれど、ふと私にこんなことを尋ねた。
「でさ、文香のお父さんお母さんって、どんな仕事してんだ?」
遥は屈託がない。
「母親は…、まぁ、専業主婦。父親は…、製菓会社の、貿易担当。ソフトクリームとか…扱ってる」
「そかそか」
遥はコクコクとうなずいた。
「んじゃあお父さん忙しいだろ」
「そう、だね…。忙しすぎて、顔、めったに合わせない。いつも、私が起きる前に家を出て、寝てから帰ってくる」
「そりゃ忙しいな。でもお母さんいるからいいだろ?」
そうか…。遥は私の家のこと何も知らないんだ。
「それが、ね…」
私は言い淀みながらも、遥に、私の母親のことを話して聞かせた。友だちなら、知っておいてほしかった。
「そっか…。文香ん家お母さん、そんななんだ」
「じゃあ池田さん、お家じゃ誰も話せる人がいなくて、寂しいだろう」
二人とも心配そうな顔をしてくれる。
「うん…。寂しい」
「そんならさぁ文香、寂しかったらあたしと電話しよう。あ、ラインも交換しないか?」
「え…、いいの…?」
うつむいていた顔をあげる。遥が愛らしく微笑んでいた。
「うん、しよしよ」
遥がポケットからスマホを取り出す。
「ありがとう遥。嬉しい…」
本気で嬉しかった。ラインなんて、交換どころか、まともに使ったことさえ一度もない。私は、操作を遥に教わりながら、たどたどしく遥とライン交換をした。
「これからいろいろと話そうぜ文香」
「うん!」
「にこにこしてんじゃねぇよ。今朝まであんなに泣いて、論理を手こずらせていたくせに」
遥がおどけて私を突っつく。太田先生…。今朝は迷惑かけたな。今度会ったら謝ろう。でも…、私の背中に置いていてくれた手、大きくてあったかかったな。先生…。胸がときめく。私、先生に何を思っているんだろう。
遥の合唱部を見学していた分、私はいつもより一時間半遅く家に帰ってきた。でも母親は、そんな私をチラリと一瞥しただけで、「遅かったね」の一言もない。そして無言で夕食の支度をし、無言で夕食をとる。そして私も無言。テレビさえつけない。それが私の家の常だ。食事が終わると私は、さっさと自分の部屋に引き上げてくる。青と緑の斜め縞のネクタイを外し、制服を脱いでハンガーに掛ける。部屋着に着替えた。そのとき、スマホが鳴る。
「あ…」
スマホは、遥からのライン着信を通知していた。嬉しい。知らない間に頬が緩んでいる。通知をタップする。画面が切り替わり、遥のメッセージが出てくる。
『はろはろ文香?夕食済んだかい?』
私はリプライを打ち始める。指が軽やかに動いた。
『今済んだとこ。遥は?』
『あたしも今済んだとこだよ。文香のお母さん、食事はちゃんと作ってくれるのか?』
心配そうな顔をしてくれている遥が思い浮かぶ。
『食事は、作るときも、作らないときもある』
返信がすぐに来る。
『作ってくれないときは、どうしてるんだ?』
『しかたがないから、近くのコンビニで何か買ってくる』
既読が付いた後、しばらくあって、遥の白い吹き出しが現れた。
『あたしん家も、似たようなもんだよ』
『え?遥の家も?』
『あたしの家さ、ネグレクトなんだ。知ってる?ネグレクトって』
知ってる。育児放棄だ。遥の家が、そんな家だっただなんて…。今日学校で見た、遥の明るい笑顔が思い出された。
『遥のお父さんお母さん、遥の世話、まともにしてくれないの?』
遥の返信がしばらく途絶える。待っていると、大きな吹き出し。
『情けねぇよな。あれで二人とも医者なんだぜ。患者に大きなこと言いながら、実の子どもには、金だけ出して世話らしい世話は一切なしなんだからな。夕食だっていつもコンビニだ』
『いつ頃から、そんなになっちゃったの?』
『あたしが海外にいた頃だから、もう小学校の低学年からだな。ウチの親、もともとあたしにはあんまり関心がねぇんだよ。だから文香の気持ちもよくわかる』
お互い、親に関心を持たれていない者どうしなんだ。遥…。
『じゃあ私たち、家では孤独なんだね』
『そうだな。あたしさ、いつもこのくらいの時間が寂しいんだよ。秀馬も塾に行っててあたしの相手できねぇし。だからさ文香、もしよかったら毎晩こうやって話そ』
そう言われてまた、胸の中が温かくなる。
『うん。私でよければいつでも相手になるよ。よろしくね遥』
『ああ。よろしく文香』
私、今友だちとラインしてる。楽しいな。こんなことなら遥のこと怖がらずに、もっと前から知り合っていればよかった。それにしても今日は、悲しくて大泣きしたけど、太田先生にも慰めてもらえたし、遥とも知り合えたし、いい一日だったな…。この日の夜、ツイッターにこんなことを書く。
『寂しくてわんわん泣いた。でも、温かく慰めてもらった。思いもよらず友だちもできてラインもした。なんか目まぐるしい一日だったけど、結果オーライだよね』
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