【論理×文香三部作 高校編】おかっぱの彼方に
徳間・F・葵
一、出会い
「眩しい…」
西陽が差す河川敷の道を、私は歩いた。土手に植えられた桜並木は、今が満開で、無数の花びらが陽の光を受けて金色に輝いている。毎年毎年、おびただしい数の花びらがこうして生まれ、やがて散っていく。それなら、なんのために花びらは生まれてくるのか、私にはそれがわからない。
河川敷の道は、この辺りのちょっとした桜の名所で、私以外にも散歩をしている親子連れやカップルの姿が見られる。みんなで写真を撮り合ったり、歓声をあげたりして楽しんでいる様子だ。その中を私は、一人で道を歩いていく。
「仲のいいことだね…」
私はそう呟いた。別に羨ましくはない。いや、そう思い切れない自分がいる。寂しくないと言えば嘘になる。この桜だって、もし仲のいい人がいて、その人と一緒に見られたらもっと素晴らしく見えたに違いない。
春風が吹いた。私の、腰まである黒髪がなびく。何も無い私の中で、たった一つ人に自慢できるこの艶やかな黒髪。みんなこの黒髪を褒めてくれる。その時だけ、他人と私との距離が縮まるのだ。
「桜綺麗だねぇ!ねね、ここで写真撮ろ!」
「えー、またかよ、仕方ねえな」
すれ違ったカップルが、そう言ってじゃれ合っている。私は軽くうつむいた。写真か…。そういえば、私、誰かと写真撮ったことなんて、いつのことだったろう。私には、友だちがいない。もちろん彼氏だっていない。クラスの中に居ても、いつしか浮いている。別に人間が嫌いだとか、そういうわけじゃない。ただ、自分からどうしても歩み寄れないだけだ。だからこの寂しさは、自業自得と言ってしまえばそれまでのことだ。そんな私は、明日から北海(ほっかい)国際高校の一年生。クラス替えもある。今度こそ、みんなの中に入っていきたい。みんな、私が足を一歩踏み出したら、受け入れてくれる子ばかりだ。そう、私が足を、一歩…一歩…。
私は、なびいた髪を手に取った。ナルシストになるわけじゃないけど、艶やかに、陽の光を反射して光る私の黒髪。手のひらからさらさらと流れ落ちる様子が、本当に美しいと思う。小学校の低学年の頃から伸ばしてきたこの髪。誰か、この髪に目を止めてくれないかな。私も、この桜みたいに、みんなに愛でられたい…。
私は人に愛されたい。今まで私は愛された経験があまり無かったから。高校に上がったら、愛を見つけることができるだろうか。私は、沈みかけた夕陽に目を細めながら、明日からの学校生活を思うのだった。
「ただいま」
私は玄関の扉を開けて、そう言った。無論、返事はない。廊下を進んでいくと、あちこちに洗濯物の山ができている。こんなところにどうしてあるのかというほど、お鍋がひっくり返っていたり、雑誌が転がっていたりする。私はそんな山を避けながら、リビングに出た。
「ただいま」
私は、もう一度言う。母親は、私の方を向いてとろんとした視線を送っていたけれど、やがて私に背を向け、台所に向き直った。母親は、心を病んでいる。ADHDという診断名を受けていた。そして母親は声を出さない。私は生まれてこのかた、母親がしゃべったところを見たことがない。その母親の希薄なコミュニケーションから察するに、母親は私にあまり関心を持っていない。だから私も、挨拶をしたきりで、早々に自分の部屋に引き上げる。まるで他人だ。
部屋の時計を見ると、午後六時半だった。父親はまだまだ帰ってこない。海外転勤族だった父親が、この尾風(おかぜ)の街にやってきて四年目。海外にいた時もそうだったけれど、家族よりも何よりも仕事を愛してやまない。今日も、まだまだ帰りが遅いだろう。いつも、私が眠ってから家に帰り、私が起きだす前に家を出る父親だった。こんな父親とも、母親とは別の意味で希薄なコミュニケーションしか持てない。私は目を伏せる。つまりは、私は家でも学校でも、孤独だった。
入学式当日の朝、父親は仕事、母親はまだ寝ていて、私は、今日も今日とて一人家を出た。もう慣れっこになっていたけれど、それでも一抹の寂しさはある。そんな寂しさを打ち消すように、私は青と緑の斜め縞のネクタイをきつく締めた。すはあああっ、と朝の空気を胸と肩いっぱいに吸い込む。私のブレス音は独特だ。「すうっ」とも「はあっ」ともつかない音がする。自分でもちょっと意識している。地下鉄の駅まで歩く。その途中、雀が三羽戯れていた。雀でさえ友だちがいるのに、私は…。
駅から地下鉄に乗ると、視線を感じた。北海国際の、濃紺のダブルボタンブレザーに深緑ベースのチェックスカートの制服はかわいいから、よく目立つ。それに、私の髪も見てくれているのだろう。私、人目をひくのに、なんで自分からその人目の中に歩み寄っていけないのだろう。
やがて地下鉄は、下社(しもやしろ)の駅に着いた。そこから私はスクールバスに乗り換える。すでに私と同じ制服を着た子が、十数人もたむろっていて、停留所は賑わっていた。北海国際の生徒は、社交的な子が多い。みんなあちこちで、もう何年もの友達のように仲良くしゃべり合ってじゃれ合っている。そんな中で、私は鞄を手にしたまま黙ってたたずんでいる。みんながあまりにも明るいもんだから、私は電柱にでもなったような気分だ。やっぱり私はこうなってしまう。私から一言話しかければ、すぐにでもこの会話の中に入っていけるかもしれないのに。ああ、誰か私に声をかけてくれないかな。
「文香(ふみか)、今日も髪綺麗だね!」
なんて、声をかけられる想像をしてしまう。だめだ、受け身じゃいつまでも変われない。ここはひとつ、私から声をかけるようにしなければ。私は勇気を出して、高鳴る胸を押さえながら、口を小さく開き、息を吸った。
「ぁ…あの…」
私の隣にいた女子に恐る恐る声をかけてみた。でも、その女子は、話していることに夢中で、私の声は耳に届いていないようだった。私は小さくため息をついて、うつむいた。だめだ、どうしてもできない。所詮私も母親のようなコミュニケーション能力しか与えられていないんだ。
(だめだな、私…)
心の中で、一人そうつぶやく。やがてバスがやってきた。席に座ると、ちょうど、男女合わせた仲良しグループの隣になった。バスが学校に着くまでの三十分ほどの間、このグループは絶えず明るく語らっていた。そんなグループに入れない私を情けなく思いながら、私は窓の外だけを見つめていた。私のこの寂しさは、誰もわかってはくれない。
始業式を終え、ホームルームに戻ってきた。教室の隅から新しいメンバーをチラチラと確認する。あ、あの子はひょっとしたら声をかけられるかも。あ、この子は苦手だな。あ、この子ちょっとかっこいいな。など、いろいろ考えるけれど、結局は、いつものように孤立していくんだ。そう思うと、こんなに人がいる教室で、ひとりぼっちのような気がしてくる。いや、こんなに人がいるからこそ、余計にひとりぼっちに思うんだ。そんなことを思ううち、時間が経って、担任の横山(よこやま)先生が入ってきた。今日は簡単な連絡事項ばかりですぐに終わった。先生が出て行くと、みんな帰り支度をしながら、それでも仲良さげに語らっている。この雰囲気が耐えられない。私は教室の外へ出て、窓の外の校庭を眺めた。
「あー、つらい…」
私は思わずつぶやく。だけど意外にも、そのつぶやきに応える声があった。
「何がつらいんだ?」
「え」
私は、一瞬何が起こったかわからず、周囲を見回した。
「ははは、こっちだ」
「えっ、ええ?」
私は振り向いた。そこには、学校内で見たことのある、先生らしき人が立っていた。
「学年始まり早々からつらいとは、ちょっと酷い話じゃないか。どうしたんだ」
その人は、年齢が三十歳くらいの比較的若い男性だった。髪型は、男のくせに黒髪のおかっぱで、顔は、目鼻立ちのくっきりとした顔をしている。なんだか、変わった雰囲気のある人だ。北海国際は中高一貫の学校なので、この人のことは中学校の頃から見覚えがある。でも気恥ずかしさは変わらない。私はその人から目線を外した。私は、人の顔をあまり見れない。
「あ、あの…えっと…」
この人誰だったっけ…、いきなり私に声をかけてきた。そんなことってありえない。一体どうやって返事をすればいいんだろう。というか、普段滅多に人と話さないから、話し方を忘れちゃったよ。
「まあまあそんなに緊張するな」
その人は、おおらかにそう言った。目線をチラッと戻す。優しい目が印象的だった。私の中の張り詰めたものが、徐々に和らいでいくのを感じる。
「俺は、これからこのクラスの古文を担当する非常勤講師の、太田論理(おおたろんり)という。お前もA組の子だろ?名前はなんて言うんだ?」
非常勤講師…ていうことは、先生?太田論理?なにその名前…ペンネーム?あ、私も答えなきゃ。
「えっと…い、池田(いけだ)、文香…です…」
「そうか、文香か。文香は、どうしてそんなにつらいんだ?」
この先生、初めて会話するのにいきなり私を名前で呼ぶよ。でも、それが何故か嬉しかった。
「えっと…、あの…溶け込めなくて…」
「溶け込めない?クラスにか」
「はい…」
「ふーむ」
太田先生は、そう言って腕組みをした。
「無理に溶け込もうとしなくていいんじゃないのか。文香には、文香にしか送れない学校生活というのもあるはずだ。人間関係が全てじゃない」
もう一度太田先生の顔をチラリと見た。先生は、私の瞳をじっと見つめている。吸い込まれるように私も先生の瞳を見た。
「無理に…ですか…」
私にしか送れない学校生活…。そんなものがあるのだろうか。でも、もしあるとしたら、私は…。
「まあ、あんまり深刻に考えすぎないことだ。おい、それにしても文香、お前、髪綺麗だな」
ドキッときた。いきなり髪を褒められた。
「あ…はい…」
「いやあ、そんな艶やかな髪は、滅多にあるものじゃない。文香、よく褒められるだろ」
心臓が脈打つ。髪を褒められたことは何度もあるけれど、私、なんでこんなに嬉しがってるんだろう。
「あ…まあ…」
「その髪を持っているというだけで、文香、十分に自分に自信を持っていいと思うぞ。じゃあまたな」
太田先生は、踵を返して立ち去っていった。その後ろ姿を、見る私。心臓がまだ落ち着いていない。窓から風が吹いてきて、私の髪を温かく包んでいった。
翌日から、早速授業が始まった。授業と言っても、教室の中はうるさい。みんな好きなことばかりしゃべっていて、先生にも気軽に話しかける。それに先生も応えるものだから、授業がちっとも進んでいかない。こんなので良いのだろうか。そしてまた、私は道路に捨てられた空き缶のように、一人取り残された気分になるのだ。
二限目は、古文。昨日会った太田先生の授業だ。先生は人気があって、みんな先生のことを「論理」と呼び捨てにする。授業が始まると、先生はまず出席を取る。私は出席番号が一番なので、いきなり名前を呼ばれる。
「よし、それでは出席を取る。一番、池田文香!」
「…はい」
私がうつむきながら返事をすると、先生は、私の顔を見た様子だった。そして、こんな声がした。
「元気か」
「え?…あ、は…はい」
私は向き直って、太田先生にそう返事をした。先生は、黒い瞳で私を見ながら、「うんうん」と二度頷いて、こう言う。
「よし、それならいい。二番、石田達夫(いしだたつお)!」
先生の出席取りは続いていく。私は、何故か嬉しかった。先生はどうやら、出席のときに時々こうやって声をかけるようで、この時も何人かの生徒が、「どうだ」とか「捗ってるか」とか言われていた。それが先生のやり方のようで、先生が昨日のことを覚えていてくれて、私に特別気を遣ってくれたわけではないようだ。それがわかっていても、それでも私は嬉しかった。太田先生は、他の先生とは違う。
出席取りが終わって、いよいよ授業に入る。先生の授業も相変わらずうるさい。みんな堂々とスマホを出して、ツイッターやインスタ、ラインをしている。でも先生は、北海国際はこういうところだと思っているのか、特に注意することもなく授業に入った。
「よし、それじゃあ今日から一年間古文をやっていく。それでは教科書を開いて。五ページ。徒然草だな。まず最初に──」
「論理ぃ、古文なんてかったるい〜」
一番前の席にいる、亜麻色の長い髪をした女子が、早速先生に茶々を入れた。この子は、ロレンス・ルネリングさんという。外国人の女子だ。北海国際には、混血児の子や、外国人の子も大勢いる。
「ロー、そう言うな。日本語の過去を学ぶことは、大事なことだぞ。それでは五ページの一行目──」
「論理ぃ、昨日眠れたぁ?あたし眠れなかったからだるい〜」
今度は、教室の後ろ隅から大きな甲高いソプラノ。背中まで髪を垂らした結構可愛い女子だ。名前は、佐伯遥(さえきはるか)という。ちょっと乱暴なところのある子なので、私にとっては怖い子だ。
「遥、どうせまた夜中までスマホでもいじってたんだろ。夜は早く寝ないといけないぞ」
こんな具合で一通りのやりとりがある。ようやく先生が授業を始めようと思ったところに、いきなり教室の真ん中から手が伸びて、スマホからシャッターの音。
「やりぃ〜!論理の初授業撮ってやったぜ!」
「おお?いきなりそう来たか渉(わたる)。無断撮影は肖像権侵害だぞ」
突然写真を撮った生徒は、吉田(よしだ)渉くん。子供っぽいところのある男子で、よく女子にちょっかいを出している。私はあまり好きではないけれど、そんな吉田くんにさえ、手を出されない私が情けなかったりする。
「それじゃあ、五ページの一行目。徒然草の有名な書き出しの部分だ。今から俺が読むから、よく聞いていろ」
私は、教科書を開いた。でも、私の目は教科書から離れ、先生をずっと追っていた。
「『つれづれなるままに、ひぐらし、すずりにむかひて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくかきつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。』」
先生の声は、低めで耳当たりの良い声だった。イケボだ…。滑舌も良くて、一文字一文字を丁寧に発音していた。なんだか、先生の顔と同じように、声までも私の心に染み付いてしまった。
先生はその後、黒板にはっきりとした文字で本文を書き、文法と現代語訳の解説をした。わかりやすい授業だけれど、みんな相変わらず好きなことをしている。もっと先生の授業聞けばいいのに、と、私は少し腹立たしくなった。
いきなりチャイムが鳴り、授業が終わる。え?もう?いつもなら長い四十五分の授業が、あっという間だった。先生は教壇を降り、生徒のみんなと話をしている。そんな先生を遠くからチラチラと見つめながら、私は、「元気か」という先生の言葉を、胸の中で噛みしめていた。
それから、相変わらずの、砂を噛むような毎日が続いた。思えば、高校に上がって二週間が経つ。中学時代、高校に上がれば何か変わるだろうと思っていたけれど、なにも変わり映えのない毎日になっている。当たり前のように友だちもできない。
昼休み、みんなは教室でそれぞれお弁当を広げている。でも私には、お弁当を作ってくれるような人はいないから、カフェテリアに行ってお昼ご飯にする。するとこのカフェテリアも賑わっていて、みんな友だちどうしで仲良く食べているから、私の居場所はない。いつもそそくさとご飯を済ませて教室に戻ってくるけれど、その教室にもお弁当グループがいる。必然的に私は、廊下の窓際で外を眺める。校庭を見ても、友だちと仲良さげにお弁当を食べたり遊んでいる子ばかりだ。
「はぁ…」
劣等感の壁に挟まれて、身動きできない。私はどうして、いつもいつもこうなんだろう。重苦しい気持ちのまま、スマホを取り出し、ツイッターを開いた。
『死にたい』
そう一言だけ書く。とは言っても、私は百人フォローしているのに、フォロワーは二十三人しかいない。ツイッターの世界でさえ、私は人間関係に恵まれない。私の今のつぶやきも、世界中で二十三人だけが見て、その二十三人もこれを読み捨てるんだ。その証拠に、私の書き込みにリプライもいいねも付いたためしがない。それでも、『死にたい』とまで言えば、誰か『どうしたの』とでも言ってくれると思って、しばらく期待してずっとツイッターを見ていたけど、なにも反応はなかった。
「…死にたい」
思わずそうつぶやいた、その時だった。
「おい文香、お前今なんて言ったんだ!」
この声…!胸の鼓動のゲージが振り切れる。
「俺の耳には、『死にたい』って聞こえたぞ!」
私は顔を上げた。そこには、あの黒髪おかっぱ頭の太田先生がいた。
「本当か⁉︎本当に今死にたいって言ったのか⁉︎」
先生は、真剣な顔で食ってかかるように私に言った。
「え、ええ…、その…」
「いいか、文香。たとえ冗談でも生き死にに関わるようなことを気軽に口にするもんじゃない。文香。お前は世界中で一人しかいない。大事な文香だ。その文香がいなくなるなんてこと、俺には想像すらつかないぞ」
先生はそうやって一気にまくし立てた。この人は一体何を言っているのだろう。私のことが世界で一人しかいないとか、大事だとか。この人は一体何を言っているのだろう。でも不思議に、胸の奥が温かくなった。
「わ、わかりました…すみません…」
「あんまりびっくりさせるなよ」
先生はそう言って、私の頭をぽんぽんと撫でると、立ち去っていった。私は、その後ろ姿を見ながら、どんな気持ちを先生に抱いているのかわからないでいた。でも、胸の中の温かみだけは、真実であるような気がした。
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