ジルという名の

月埜聖也つきのせいや

ジルという名の



夢も希望も失った人間が最後に話し相手として選ぶのはバーテンダーだという


古びたビルの地下にあるバー

【ガストロ】のカウンター隅でわたしはひっそりとスコッチウイスキーを煽っていた。


店内には2、3組の客がいて

ダーツに興じている。


静かに流れる古いジャズのスタンダードが切なく心にしみて、もう一杯、スコッチウイスキーをおかわりした。


バーテンダーがチェイサーの水とショートグラスをわたしの前へ置いた。


【あちらのお客様からでございます】


わたしは驚いて顔をあげると、

ファムファタール(運命の女)という美しい青い色のカクテルが注がれたグラスを持ち上げた。


見知らぬ初老の男がこちらをみている

おもいがけない好意にためらうほど、もう若くもうぶでもなかった


初老の男は、スツールから立ち上がると、そのままダーツをはじめた


気のない相手をかまうのは

あっさり諦めたようだ


甘く青いカクテルにくちびるを寄せて目を閉じる


一握の幸福な記憶…

人生のもっとも華やいだ時期

わたしは、ある女に運命を狂わされてしまった


彼女の名はジル。


田舎の港町に生まれたというが。素性は定かではない


ジルは蠱惑的な女だった

なんといってもその魅力は

金色の豊かな長い髪とアーモンドのようなアーチを描く大きな瞳。

肉付きのよい腰を左右にふりながら歩く芳醇な色気にあった。

わたしは、父の愛人であったジルにひとめで惹かれた。


まだ若く孤独を抱えていたわたしはジルの魅力にとりつかれてしまった。

しかし彼女は、

彼女の生い立ちがそうさせるのか、粗野な言動は度々わたしを悩ませた。


食事のマナーにいたっては、およそ品のかけらもなく、

目もあてられないほどだった。

わたしは彼女の下品なふるまいに驚き、呆れながらも、

ふしぎと解放を感じていたのだ。


わたしが心の奥底に隠し持つ

暗い欲望をむき出しにさせる

魔力がジルにはあった。


一度でいい、わたしも

ジルのように自由に奔放にそして下品にふるまってみたい

密かに抱く暗い欲求を

ジルが代わって満たしてくれたような快感を感じていたのだ。


わたしの母とは対照的なジルという名の悪魔に魅せられて

夢中で彼女を追った


ジルの求めるものを敏感にとらえては尽くした


わたしは身も心もジルに捧げるどれいになった



はじめのいざないがどちらからであったかはたいした問題ではない

昼に夜にわたしたちは

まじりあった

二頭の蛇

互いの尾を呑みあうように

求めあう


ある満月の夜

ジルの白い指がわたしの乳房を鷲掴みしたかとおもうと

アルカイックな笑みを浮かべて囁いた


"あなたを愛してる"


その瞬間、わたしはジルの

首をしめあげていた


いやな音がした


ジルの四肢がぴくりとも動かない白い肉のかたまりのようだ


急速にワインの酔いからさめていく


アイシテル


アナタヲアイシテル


ジルが涙を流しながら

乳房にふれた瞬間(とき)

わたしにはいいようのない絶望があふれた


愛などいらない

ジルおまえのことなど愛していない

わたしが愛しているのは

わたし自身の暗い欲望だけなのだ

夢から覚めるなら

おまえなんかいらない

消えてしまえ



ファムファタール

運命の女というカクテルが艶やかに光っている


【今夜は、恋人の命日なんです】


バーテンダーがグラスを磨く手を止めた


【ずっと一緒に旅を続けようと思って】


無言で空になったグラスを受け取るとバーテンダーは

紙のように白い顔をこちらに向けた


まだ半分ほど器に残るカシュウナッツをゆっくりとひとつつまみあげるとわたしは微笑んだ


スツールから立ち上がり

店の出口へと向かう


遠くでサイレンが鳴っている


生ぬるい夜風が

そっと頬をなぜていった


END




































































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ジルという名の 月埜聖也つきのせいや @seiyatsukino

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