空の向こうより、君の父として。
愉快なオハゲ
第1話 空の向こうより、君の父として。
手元には埃をかぶったノートパソコン。
その隣には、黄ばんだ写真立て。
家族三人で笑う姿が、そこには映っていた。
けれど、その笑顔はもう、この世界にはない。
妻・
そして——娘・
それからの
生きている実感はなかった。
呼吸をし、食事を摂り、眠る。
ただそれだけの繰り返し。
かつて小説家として賞を獲り、話題を呼んだ筆も、今はもう動かない。
文字が浮かばない。意味を持たない。
彼にとって、創作とは娘に繋がる唯一の道だった——
だが、もうその道も途絶えた。
咲輝が遺したたった一枚の遺書。
『弱い私でごめんね』
その言葉が、智樹の胸に深く突き刺さり、抜けることはなかった。
——何もしてやれなかった。
父親として、気づくことも、救うこともできなかった。
「ごめんな……
独りごちる声は、乾いた部屋の中で虚しく消えた。
命日には何もできなかった。
供える花も、言葉も出てこない。
ただ静かに時間をやり過ごし、
それが唯一の慰めだった。
——生きている意味は、あるのだろうか?
何のために、今も呼吸をしているのだろうか?
答えは出なかった。
ある日、何の気なしにスマートフォンを手に取った。
埃の積もったノートパソコンとは違い、スマホだけは手放せずにいた。
娘との写真が、ロック画面に残っていたからだ。
その日も、無意味にSNSを眺めていた。
流れていく言葉。騒がしい投稿。
けれど、その中で、ふと目が止まった。
『死にたい。消えたい。苦しい。』
短い言葉。
だが、それは咲輝が遺したあの言葉と重なっていた。
思わず、投稿のプロフィールを開く。
アカウント名——『saki_1212』
——胸が鳴った。
偶然だ。そう思う。だが目が離せなかった。
『……大丈夫か? 無理しなくていい。
話せるなら、少しでもいい。君の気持ちを、聞かせてほしい。』
メッセージを送り、スマホを握りしめる。
その瞬間、胸に込み上げた感情。
——
そんなことは分かっている。
けれど、彼女に重ねてしまった。
まるで、禁忌のような後悔と、希望。
“もう一度、救いたい”
それが歪んだ思いであると分かっていても、止められなかった。
彼は、誰かを救うことで、
——それが、罪だとしても。
数時間後——
心臓の鼓動がやけに強く、うるさく感じる。
(……俺は、一体何をしているんだ……)
メッセージは既読になっていた。
しかし、返事はない。
当然だ。見ず知らずの人間から突然、そんな言葉を送られて……
まともな人間なら、不気味に感じて無視するに違いない。
自分の行動が、突発的な衝動だったことは分かっていた。
娘を亡くした罪悪感と後悔、そして“もう一度”という妄執。
(……違う。
分かってるのに……どうして、お前じゃないのか、って……思ってしまうんだ)
額を押さえ、深く息を吐く。
その時、スマホが小さく震えた。
——返信だった。
『……誰にも、話せなくて。死にたいって、ずっと思ってて……
でも、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。ありがとう』
短く、けれど確かに迷いと痛みが滲む言葉。
智樹は息を呑み、スマホを握りしめた。
その瞬間、頭の奥にふわりと声が響いた気がした。
——
(……この声は……
錯覚だ。音声が届いたわけではない。スマホのスピーカーも、何の通知もない。
ただ、文字を目にした瞬間に、あの娘の声がふいに甦ったのだ。
記憶の中に焼きついた、震えるような声。
優しさと、不安と、弱さが入り混じった、あの声。
違う。そんなはずはない。
だが、その言葉の端々に、あの娘の影を感じてしまう。
遺書に
『弱い私でごめんね』——その痛みが、今も胸にこびりついて離れない。
あの日、咲輝が着ていた制服。
袖口に指の跡があった。リュックには、ぐしゃぐしゃにされた教科書。
何より——机に残された無数の落書き。
『死ね』『気持ち悪い』『いらない』
智樹は、遺品整理の際にそれを見た。
——だが、それでも彼女は「大丈夫」と笑っていた。
父の前では、いつも笑っていた。
(気づけたはずだ……いや、気づいていた。
気づきながら、踏み込むのが怖かった……)
智樹は指を震わせながら、慎重に返信を打ち込む。
『話してくれてありがとう。無理しなくていい。
ゆっくり、君のペースで。君の言葉を、少しずつでいいから聞かせてほしい』
数分後、また返信が届いた。
『……話していいのかな。誰にも言ったことないけど……
学校で、うまくいかなくて。クラスに馴染めなくて、いつも独りで……
机の中にはゴミが入ってて、上履きもなくなってて……
先生に言っても、様子を見るって言われて……
笑ってるけど、本当は……もう、辛い……』
言葉が、心に刺さる。
智樹はその一文を何度も読み返し、目を閉じた。
咲輝も、そうだったのだ。
机の中のゴミ、隠された上履き——そのすべてを、後になって知った。
だがそのときには、もう遅かった。
——いや、違う。違う人間だ。
だが、どこかでそう思いたくなかった。
咲輝の「声」が、今、彼の中で生きている。
智樹は、自分の矛盾を自覚しながらも、その言葉に向き合った。
自分を見失わぬよう、咲輝を重ねすぎぬよう——必死に。
『無理に笑わなくていいよ。
辛い時は、辛いって言っていいんだ。君の痛みを、誰かに受け止めてもらっていい』
画面の向こうに、咲輝がいる。
違う、これは他人だ——
それでも、彼は祈るように、スマホを胸に抱いた。
少女とのやり取りは、少しずつ日常へと溶け込んでいった。
朝、目覚めればメッセージを確認し、夜には言葉を交わす。
智樹の生活は、そのひとつひとつのやり取りに支えられるようになっていた。
だが、それは同時に——彼の心を蝕む感覚でもあった。
少女の言葉、仕草、思考——それらが、あまりに咲輝に似すぎている。
最初は他人だと思い、意識して距離を保とうとした。
だが、時間が経つほどに、その境界は曖昧になっていった。
(違う、これは娘じゃない……
なのに、どうして……同じなんだ……)
ある夜のこと。
『ねぇ、お母さんの誕生日が近いの。何かプレゼントしたいけど、何がいいかな……?
お父さんがいたら、一緒に考えてくれたのに』
その言葉を見た瞬間、智樹の胸は強く打ち鳴った。
咲輝も、生前に同じことを言っていた。
——そして、あのとき。
咲輝は、父・智樹の誕生日にカーネーションを贈ってくれた。
不器用なラッピング、幼い文字の手紙。
そのすべてが、今でも鮮やかに思い出せる。
智樹は、その記憶を辿りながら返信をしていた。
気づけば、咲輝が選んだ花の色、包装紙の柄、手紙の言葉までを、無意識に綴っていた。
しばらくして、少女からの返信。
『……それ、私、話したっけ?』
智樹は言葉に詰まった。
(しまった……)
焦りが胸を打つ。
——だが、次のメッセージが届く。
『……まぁ、いいや。なんか、懐かしい気持ちになった』
その瞬間、智樹の心に言いようのない不安と安堵が交差した。
(俺は……何をしているんだ……?)
少女は咲輝ではない。
けれど、咲輝のように感じてしまう自分がいる。
——違う、違う、違う。
しかし、どれだけ否定しても、その心は揺れ続けた。
ある日、少女が語った。
『うちの町、淡月町っていって……地味だけど、落ち着いてて好き』
淡月町——智樹がかつて住んでいた町。
だが今は、十年前の市町村合併で名前が変わり、「淡月市」になっている。
『通ってるのは、翠陽中学校。体育祭の練習が大変で……』
翠陽中学校。
咲輝が通っていた学校だった。
だが、数年前に統廃合され、既に存在しないはずだった。
——おかしい。
さらに、少女が話す流行のアニメや食べ物、そのすべてが、微妙に現実とズレていた。
智樹は、思わず検索をかけた。
しかし、少女が話す情報は、この世界には存在しないものばかり。
(これは……同じ世界じゃない……?)
自分が小説家として培った知識のすべてが、
「あり得ないこと」を、仮説として導き出した。
少女は、自分の知る咲輝ではない。
だが——違う世界に生きる、咲輝なのではないか。
根拠などない。
証明もできない。
けれど——父だから分かる。
その実感だけが、智樹の心を満たしていた。
少女とのやり取りは、智樹の生活に確かな彩りを与えていた。
朝、目覚めればスマートフォンを手に取り、彼女の言葉を待つ。
夜になれば、その日あったことを語り合い、時に笑い合う。
その時間が、智樹にとって唯一「生きている」と感じられる瞬間だった。
彼は自覚していた。
——これは歪んでいる。亡き娘と重ね、少女に依存している。
それでも、止めることはできなかった。
彼女の声を聞きたい。文字の奥に咲輝の影を見たい——
それは救いであり、罪でもあった。
ある日、少女が語った。
『学校で嫌なことがあって……また、机の中に変なもの入れられてた。
でも、ママには言えないや。心配かけたくないから』
智樹の胸が軋む。
——咲輝も、幼い頃によくそう言っていた。
「ママには言わないでね。大丈夫だから」
美晴がまだ生きていた頃、咲輝はいつも、無理に笑ってみせていた。
転んで膝を擦りむいても、友達と喧嘩しても、弱音を吐かない。
小さな体で、まるで何かを守るように必死だった。
特に、美晴の病状が悪化し始めてからは——
咲輝はより一層、笑顔で振る舞うようになった。
咳き込む美晴に「大丈夫?」と声をかけ、薬を飲み忘れれば注意し、
そして、自分のことは何も語らなかった。
「ママが元気になるまでは、
その言葉に、どれほど救われたことか——
智樹は今でも、胸が痛むほど覚えている。
少女は、あまりにも咲輝に似すぎていた。
それでも智樹は、彼女を支えたいと願った。
今度こそ、失いたくないと願った。
『……君のこと、信じてくれる人がいると思う。
君のママも、きっと君を支えてくれる。だから……話してみないか?
怖いかもしれないけど、一歩踏み出すだけで世界は変わるから』
スマートフォンの画面を見つめながら、少女は悩んだ。
本当に話していいのか?
ママはきっと驚くだろう。泣いてしまうかもしれない。
でも、この人の言葉は不思議と胸に沁みた。
(……誰かに、言っていいんだよって……パパみたいな言い方)
迷いながらも、
『ママに……話してみたよ。泣かれちゃったけど……でも、ちゃんと話せた。
明日、先生にも相談するって。……ありがとう』
智樹は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
( 今度は、守れたんだな)
翌日、少女からの報告。
『学校、行ってきた。先生も話を聞いてくれて、加害者の子たちも注意された。
しばらく別のクラスに移してくれるみたい。怖いけど……少しだけ、前に進めた』
その日の夜、少女はスマートフォンを握りしめていた。
(……誰だろう、この人。どうして、私のことをこんなに分かってくれるんだろう……)
けれど、不思議と怖くはなかった。
ただ、心が少しだけ軽くなっていた。
智樹の胸に、込み上げるものがあった。
涙がこぼれた。だが、それは悲しみではなかった。
彼は初めて、「救えた」と実感した。
——その思いは、やがて行動に変わる。
埃をかぶっていたノートパソコンを、久々に開いたのだ。
娘が亡くなってから、触れることすらできなかった創作の道具。
しかし、今の智樹には、書きたいものがあった。
少女をモデルにした、苦しみを乗り越える物語。
彼はそれを、短い掌編として綴った。
久々に連絡した担当編集者から、驚きと喜びの返信が届く。
『先生……本当に嬉しいです。また、書いてくださって』
智樹は画面を見つめ、静かに微笑んだ。
(……まだ、俺にもできることがあるのかもしれない)
そう思えたことが、何より嬉しかった。
——しかし、そのわずかな希望も、長くは続かなかった。
ある日、突然の眩暈と吐き気に襲われ、意識を失った。
目を覚ました時、そこは病室だった。
見慣れない天井と、腕に繋がれた点滴。
そして、告げられた現実。
『進行性の
医師の言葉は、淡々としていた。
『むしろ、今こうして意識があるのが奇跡です』
智樹は、静かにその言葉を受け止めた。
(……やっぱり、か)
体の異変は、ずっと感じていた。
食欲の低下、疲労感、微熱。
だが、病院に行く気にはなれなかった。
何かを始めた途端、終わりがやってくる——
その予感が、現実になっただけだった。
けれど、不思議と怖くはなかった。
彼には、やるべきことがあったから。
少女に、言葉を残すこと。
それは、父として遺す「最後の贈り物」だった。
智樹は、病室のベッドに横たわりながら、ノートパソコンを開いていた。
……本当のことなど、書けるわけがない。
書けば、この奇跡が壊れてしまう。
彼女の中にある“父”が、死んでしまう。
だから——俺は、嘘をつく。
これは、咲輝ではない。けれど、俺の愛は本物だ。
嘘の中に、真実を込める。
小説家として、父として、最後にできることをしよう。
点滴の管が繋がれた腕は重く、思うように動かない。
それでも、彼は懸命にキーボードを打ち続けた。
少女——咲輝への、最後の手紙を書いていた。
『
その書き出しが正しいのか、自信はなかった。
だが、彼の中では確信していた。
画面越しの彼女は、確かに“娘”だった。
違う世界、違う人生——それでも、父として伝えたい想いがあった。
『君が生きていてくれて、本当に嬉しい。
そして、君が誰にも話せなかった気持ちを、俺に教えてくれたこと……ありがとう』
……咲輝は、いないんだ。
目の前の画面に、
言葉の端々に、あの子が滲んでも。
それでも、これは
分かってて、止められなかった。
咲輝にもう一度会いたかった。抱きしめたかった。
ごめんって言いたかった
彼の指は、ゆっくりと、しかし迷いなく震えながら文字を綴っていく。
病室には、静かな電子音だけが響いていた。
『君は、自分を責める必要なんてない。
辛いことがあったなら、誰かに頼っていい。
笑えない日があったって、それは弱さじゃない。
泣きたいときは泣いて、苦しいときは助けを求めていいんだ』
『人はね、ひとりじゃ生きていけない。
だからこそ、助け合って、支え合って生きていくんだ。
そのことを、君が忘れずにいてくれたら、それだけで俺は救われる』
彼は、過去の
苦しみに気づけなかった自分を、ずっと責め続けてきた。
(……もし、あのとき、言葉をかけられていたら)
その後悔を、この手紙に込めた。
『君には、未来がある。
新しい出会い、たくさんの喜び、そして愛すべき人たちとの時間が待っている。
どうか、歩いてほしい。君の人生を、君らしく。
君が君であることを、どうか誇りに思って』
『つらいとき、心が折れそうなとき、自分が嫌いになったとき——
空を見上げてほしい。
その空の向こうから、君の幸せを祈っている父がいる。
俺は君を愛している。心から、命よりも何よりも』
『もし、誰かを愛したとき、その人に素直になって。
優しさを怖がらないで。
君の笑顔は、きっと世界を照らす。
だから、その光を失わないで』
『君がどんな道を歩んでも、どんな選択をしても、俺は誇りに思う。
だから、生きて。
ただ、それだけを、どうか——』
言葉とは、時に刃であり、時に盾となる。
書く者は、選ばねばならない。
何を伝え、何を隠すか。
真実は、必ずしも語られるべきではない。
……俺は、小説家だ。
嘘を物語に変える者だ。
だから——これも、物語にしよう。
嘘でしか守れない想いがあるならば、俺は、その嘘を抱えて逝こう。
智樹は、最後の力を振り絞って文字を打ち込む。
『
これからも、ずっと。空から、いつも見守っているから』
涙が、キーボードにぽたりと落ちた。
画面は滲み、文字が霞む。
それでも、彼は送信ボタンを押した。
それが、自分の人生における——最後の“作品”だった。
……送信音が鳴り、静寂が訪れる。
まるで、その向こうに、娘の笑顔を見たかのように——。
咲輝は《さき》、自室のベッドに座り、スマートフォンの画面を見つめていた。
通知音が一つ、静かに鳴った。
スマートフォンを手に取った瞬間、時間が止まった。
音も、風も、世界のすべてが遠ざかる。
ただその画面だけが、唯一の現実だった。
そこには、一通のメッセージが届いていた。
送信元には、忘れもしない名前——「
父が生前に使っていた、あのアカウントだった。
——それが、彼からの最後の言葉だとは、咲輝にはまだ知る由もなかった。
手が震える。
何故か分からないが、胸がざわめく。
(……なんだろう、これ……)
画面を開く。
そして、文字を目にした瞬間——
まるで耳元で囁かれたかのように、懐かしい声が聞こえた気がした。
——咲輝へ
咲輝の指が止まる。
その文字、その言葉、その響き。
何度も聞いたはずの声。
遠い記憶の中にある、温かな声。
『……パパ……?』
その名を口にした瞬間、胸の奥が、張り裂けるように苦しくなった。
まさか、そんなはずはない。
違う、ただの偶然。
……でも、違う、違う……こんなの、偶然で済むはずがない——!
咲輝は、震える指で必死にメッセージを読み進めた。
文字が、胸に突き刺さる。
優しく、切なく、そしてどうしようもなく、懐かしい。
その言葉のすべてが、父だった。
父以外、こんなふうに私を思ってくれる人なんていない——
そして、ふと思い出した。
今まで相談していた相手。
名前を伏せていたその人が、時に優しく、時に叱咤しながら、自分を支えてくれた。
咲輝は、震えながら呟いた。
『……まさか……ずっと、話してたの……パパだったの……?』
胸に去来する思い出の数々が、父の姿と重なっていく。
その優しさ、その言葉の選び方、そして、誰よりも自分を見てくれていた視線——
涙が止まらない。
息が詰まり、嗚咽が漏れる。
『パパ……なんで……なんで、言ってくれなかったの……!』
やっと会えたと思った。
声が聞けた気がした。
でも、それはもう——叶わない。
咲輝はスマートフォンを胸に抱きしめ、崩れ落ちた。
『会いたかった……ずっと……もう一度だけでいいから……』
苦しい、寂しい、悔しい、そして、愛しい——
言葉にならない感情が、溢れて止まらなかった。
あの日、突然いなくなった父。
涙も流せず、心に穴が開いたまま、大人になった。
ずっと、空を見上げて、問いかけてきた。
(……見てくれてたの? 私のこと、全部……)
彼は、ずっと傍にいたのだ。
違う世界から、それでも懸命に、咲輝を守ってくれていた。
胸の中で、父の声が響いた気がした。
——咲輝、愛してるよ。
咲輝は涙に濡れたスマートフォンを見つめ、微かに笑った。
『……私、負けないよ……生きるよ……前を向く……!』
ふと、咲輝は震える手で返信画面を開いた。
今すぐにでも、伝えたかった。
『ありがとう』と、『大好きだよ』と——
しかし、そこには無機質なエラーメッセージが表示された。
「このアカウントは存在しません」
目の前が真っ白になる。
咲輝は、画面を握りしめて嗚咽した。
『そんな……そんなの、ないよ……パパ……!』
『……ありがとう……言いたかった……大好きだって……言いたかったのに……』
『どうして、もういないの……? どうして、消えちゃうの……?』
『一度だけでいい、声を聞かせて……ちゃんと……言いたかったの……』
『パパ……ありがとう……ごめんね……ありがとう……大好きだよ……!』
——遅れてもいい。届かなくてもいい。
彼女は「今」伝えようとする。
——もう、どこにもいない。
けれど、だからこそ、あの言葉は本物だった。
奇跡のように、今、届けられた父からの愛だった。
窓の外、夜空に輝く星々が、優しく
その光の中に、彼女は確かに見た。
遠い空から微笑む、父の面影を——
そして、それがどんなに遠く離れていても、決して消えない絆であることを——
それから数年——
咲輝は、穏やかな日々を送っていた。
春の陽射しが差し込む部屋で、彼女はふと空を見上げる。
窓の向こうには、澄み切った青空と、どこまでも続く雲の道。
あの日以来、彼からのメッセージは届かない。
当然だ。もう、あのアカウントは存在しないのだから。
けれど、心の中には今も鮮やかに残っている。
あの夜、手にした言葉、胸に刻んだ愛。
咲輝は、少し笑って呟いた。
『……ねぇ、パパ。ちゃんと、見てる?』
スマートフォンの画面を開く。
彼とのやり取りは消えてしまったが、あの最後のメッセージだけは、残っていた。
何度も読み返した。
もう送れない返信画面を、ただ眺めて。
——ありがとう。私、もう大丈夫だよ。
彼女は、小さく頷いて立ち上がった。
日常は相変わらず忙しく、時には躓くこともある。
でも、どんなに辛くても、前を向いて歩ける。
——だって、私は知っている。
この空のどこかで、大好きな父が見守ってくれていることを。
咲輝は、静かに空へと手を伸ばした。
それはもう届かないかもしれない、けれど確かに繋がっていると信じられる何か。
そして——その手を胸に当てて、目を閉じた。
『パパ、愛してる。私、ずっと生きていくよ。あなたの娘として——』
風が吹いた。
優しく、背中を押してくれるように。
父の言葉を胸に、未来へと向かって。
空は今日も、変わらずに青かった。
空の向こうより、君の父として。 愉快なオハゲ @hanyomi
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