諦眼

そうざ

Surrender-Opia

 どの病院の待合室も老人の占有率が高いのは相場が決まっていると予期しながらも、実際にその通りだったので世も末だと思った。

 嗚呼、若くて、未婚で、美形で、ナイスバディで、経済的に自立していて、我が儘を言わず、雨ニモ負ケズ、口が堅く、身持ちも堅い割に俺に対してはすこぶるゆるゆるで、裸がユニフォームの女でひしめき合う待合室はないものかと妄想しながら、俺は渋々老人の間に腰を下ろした。


『自覚症状のない眼病もあるそうだから、一度ちゃんと診て貰いなさい』

 大方、テレビの健康番組に植え付けられたざっくりとした危機意識だろう。もう直ぐ喜寿を迎える母だが、その剣幕は何十年も前から変わっていない。宿題を済ませてから遊びなさい、早くお風呂に入っちゃいなさい、よく噛んで食べなさい――まるで同じ調子だ。

 この世に生を受けて半世紀も経つ一人息子が未だ独身という動かし難い事実がその原因だろうか。

 俺が悪い訳ではない。この国の生涯未婚率は低いのだ。低いのは由々しき問題らしいが、俺は悪くない。少子化らしいが、俺は悪くない。

 母は小言めいた事を言うと最後に必ずこう付け加える。

『あんたも、もう若くないんだからね』


 目が良いのは、俺の数少ない自慢だった。他に自慢出来るものがないからだった。眼力がある訳でも、人を見る目がある訳でもない。単純に視力の話。

 それが、それさえも、喪失してしまった。老眼なんて別世界の話、何なら自分は老眼なんかにならない、そんな何の根拠もない確かな自信こそが若者を若者たらしめている気がしてならない。人間はおぎゃぎゃと生まれ落とされてから暫くは近眼の状態で、徐々に正常な視力を持つようになるらしいが、その能力の一切合切いっさいがっさいは盛者必衰の理を定められているのか。

 全てが駄目になって行く。国際情勢も、世界経済も、文化芸術も、階段で笑い出す膝も、精液混じりの小便の切れも、食べ放題で元を取れない胃袋も、にら以外も挟まる歯の隙間も、駄目駄目だ。

「最近は如何ですかぁ」

「いかだ? いかだなんて乗った事ないよ」

 看護師と老患者との頓珍漢な会話も、純粋に笑っていられる内が花だ。


 単純に眼病の兆候を調べて欲しいだけなのに、先ずは視力検査からと来た。

 フレームに何やら細かい目盛りの刻まれた丸眼鏡。この眼鏡が掛け値なく似合う人が居たら、その人こそ真のメガネドレッサー賞に相応しいと思う。

「上……下……右……ひだ、やっぱ上……右、じゃない上だ、上……斜め上なんかある?」

 くっそぉ、ランドルト環め。いつも芋蔓式にベンゼン還の事まで思い出させるランドルト環め。正に目のかたき。ランドルト環の形が正確に判別出来なかった時のそこはかとない恥ずかしさ、理不尽な申し訳なさを何とする。そもそも勘が鋭い奴は正解の確率が高くなる検査は間違っている。正解数に応じて診察料が割引にならない制度は間違っている。

 結局、老眼以外に問題はなかった。それにしても老眼という呼び方はどうかと思う。何処かに居るかも知れないLOGANさん、訴訟を起こしなさい。


「では、今度は精密検査を行います」

 看護師に案内されたのは、小さな穴の開いた箱のような機械だった。

 もしかして親子くらい年が離れているのかな、俺にとってはストライクゾーンでも、あちらにとっては戦力外通告かな、などと考えている内に頭を機械に固定された。まるで箱の中を覗き見る不審者だ。

「片目ずつ見え方を調べますねぇ」

「はぁい」

「視界の先にある十字印が見えますかぁ」

「はぁい」

「そこをずっと見てて下さいねぇ。目を動かさないようにお願いしまぁす」

「はぁい」

 アラーム音が鳴ると、視界の何処かに映像が表示される。


 ――ピッ――


 映像を認知したら手元のスイッチを電撃的に押す。単純極まりない癖に矢鱈に集中力を強いられる検査だ。


 ――ピッ――


 但し、アラームが鳴っても必ず映像が表示される訳ではないと言う。


 ――ピッ――


 確かに見えたかどうかを判定する為に、騙し討ち的な、人を食った、いけ好かない設定になっているとの事。


 ――ピッ――


 視界のど真ん中だったり、端っこだったり、まさしく瞬く間に現れては消える。


 ――ピッ――


 はっきりと見えないにも拘わらず、映像は俺をそわそわとさせた。見てはいけないものを見せられている感覚だった。大昔の映画にこんなシーンがあったような気がしないでもない。早く帰って18禁コンテンツを愉しみたい。半世紀も生きている俺にはその資格がある。隠れて観ている未成年諸君、ざまぁ。


「気になる兆候が出てますね」

 医者は俺をいらっとさせる生き物だった。

「治療法が確立していない難病です」

 腹が立つ奴、ベスト3。

 面白くもない本当の話をする奴。

 本当の話をするくらいしか能がない奴。

 嘘でなければ本当の話だと思っている奴。

「妄想癖の強い人が罹り易いという研究もありますが、単に加齢に過ぎないとの見解もあります。何れにしろ治療法が確立していません」

 おい宇宙、お前は何億年生きてんだよ、俺より先に死ねよ。

「目薬を処方しておきますね。進行を遅らせる事しか出来ないので」

 最終的に医者が言わんとする事は、この眼病は痛くもなければ痒くもない、心掛け次第で日常生活に特段の支障は出ないらしい、だった。実に詰まらない難病だ。全く難病の風上にも置けない難病だ。お前みたいな難病は苛められっ子に違いないから俺が唯一の友達になってやる。

 聞きたくもない難病の名前を訊ねると、医者は言った。

「諦眼です」


 帰り道は、先に死ぬのは宇宙か俺か、その事しか頭になかった。処方箋を千切り、風に舞わせた。処方箋の文字が小さ過ぎるのが悪い。

 道一杯に広がった女子学生が闊歩して来る。ざまに全員をガン見してやったが、制服の下に存在する筈の下着すら透けなかった。下着が透けない以上、その下の隠し所も一方的不可侵条約だった。

 まぁ良い、どうせ揃いも揃ってだらしない体をしているに決まっている。市井に埋もれたその他大勢の人間なんぞ、そんなもんだ。


『あんたも、もう若くないんだからね』

 百も承知している。

『あんたも、もう若くないんだからね』

 見たいものも見たくないものも見えなくなる。

『あんたも、もう若くないんだからね』

 見なくてはならない行為から解放されて行くお年頃の恍惚と幻に過ぎない世界にさようなら。

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