第20話 一息
週末の夕暮れ、茜色に染まる空が窓の外でゆっくりと沈んでいく。カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が部屋を包み、どこかホッとするような温もりを運んでいた。奏はベッドの上に腰を下ろし、深く一息ついた。胸の奥に溜まっていた緊張と疲れが、ゆっくりと溶けていくのを感じる。
学校でのざわめきも少しずつ落ち着きを取り戻してた。毎朝のように浴びせられていた視線も、今では通り過ぎる風のようなものになりつつある。けれど、心の奥にはまだ波紋のようなものが残っていて、完全な静けさには至らない。
"乗り越えた"という実感と、"これで本当に終わったのか"という曖昧な感情が入り混じって、どこか落ち着かない。それでも今は、ひとまず目の前の穏やかな時間をかみしめたくて、奏はそっと目を閉じた。
「ちょっと、息抜きでもしようか」
奏は静かに立ち上がると、慣れ親しんだ電子ピアノの前に歩み寄り、そっと椅子に腰を下ろした。指先が鍵盤に触れた瞬間、それを待っていたかのように心が落ち着いていく。
頭の中にふと浮かんだのは、柔らかな風に揺れる草原や、木漏れ日の差す静かな森――そんな、現実ではないけれど確かに心のどこかにある情景たち。それらを音に変えるように、静かに鍵盤を押し始めた。
この時間は、誰のためでもない。舞台のためで、評価のためでもなく、締め切りに追われるわけでもない。ただ、自分の奥底にある思いや世界を、音という形でそっと掬い上げていくための時間だった。
そんなふうに鍵盤に向かっていると、ふと、奏の心に遠い記憶がよみがえってきた。
***
――初めて、曲を創ったときのこと。
まだ小学生にもなっていなかった頃。音楽家の両親に囲まれて育ちながら、幼い奏はピアノの前に座ることに不思議な興味と、少しの恐れを感じていた。ある日、母や父がいつも弾いている曲を真似てみようと、小さな指で鍵盤を叩いた。
けれど、最初は何もわからなかった。音を並べても、メロディにはならない。リズムもバラバラで、ただの雑音のように感じられた。どうやったら"曲"になるのか、それすら知らなかった。
それでも、どこか心の奥に引っかかっていた何かを頼りに、少しずつ、少しずつ音を探していった。母が弾いていた優雅な旋律を、父が奏でていた情熱的なフレーズを、真似ては崩し、また真似て、気がつけば自分なりの形に変わっていった。
その旋律は稚拙で、構成も曖昧で、きっと誰かに聞かせるには到底及ばなかった。けれど、確かに"自分だけの音"だった。初めて最後まで通して一曲を創り上げたとき、胸に広がったのは言葉にならない達成感と充実感――そして、ほんの少しの虚しさだった。
誰にも聞かせるつもりのなかったその曲は、再生ボタンを押すこともなく、ただピアノの中に消えていった。誰の評価もなく、誰の言葉もなく、完成した曲が残された。
***
(あのとき感じた気持ち……今でも覚えてる)
自己表現の先にある喜びと、届くことのない寂しさ。その二つが同時に心に存在していた。
今、こうしてまた自分の音を創り出すたびに、あの頃の記憶が少しだけよみがえる。けれど同時に、今はもう違う。
自分の音は、誰かの心に届いている。
だからこそ――音を創るこの時間が、何よりも愛おしいと、奏は静かに思った。
不思議なことに、指は以前よりも滑らかに、そして迷いなく動いた。コンサートを経て、ひとつの大きな舞台を超えたという自信が、無意識のうちに音に現れていた。
(あの頃、いろんなことを考えて悩んでたけど......)
迷いながらも一つひとつの音を積み重ねてきた日々が、無駄ではなかったと奏は感じていた。むしろ、その葛藤こそが、今の自分の曲に深みを与えているのかもしれない。完成したばかりの一曲を再生すると、まるで小さな物語のように、情景が心の中に浮かび上がった。
ふと、ドアがノックもなく開いた。
「......いい音ね」
美琴がそっと入ってきて、少し驚いたような、それでいて嬉しそうな顔で奏の演奏を聴いていた。
「演奏、すごく上手になってるわ。前よりも......感情が音に乗ってる。多分、曲の中に自分の気持ちを込めようと必死になって創っていたからかな。自然と、音に気持ちが出るようになったのかもね」
奏は照れくさそうに笑った。
「今なら、演奏家としてもやっていけるかもしれないわね。あなたの音には、人の心を動かす力があるわ。それに、自分で作った曲を自分で奏でるのもいいんじゃないかしら」
その言葉に少しだけ心が揺れたが、奏は首を振って微笑んだ。
「ありがとう。でも今は、創るのが楽しい。音に思いを込めて、それが誰かの心に届く瞬間が......何より嬉しいんだ。小さい頃は、こんな風に感じることはないと思ってた。......趣味だけで創っていくんだと思った。だから、今はまだこの気持ちを大事にしていたいんだ」
「そう...。いつでも言いなさい。あなたのやりたいことなら、お母さんもお父さんだって力になるから」
そう言い残し、部屋を出る美琴。奏は本当に、人間としても演奏家としても誇れる両親を持ったんだと改めて思った。
静かな部屋に、余韻のようにピアノの音が響いた。夜が静かに深まっていく中で、奏はまた、次の物語を音に綴る準備を始めていた。
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