ある者達の人生譚
@kyomu4245
第一部 ある死体の乖離譚
舞台裏、終と対なる紫椿、生きとし逝ける暁の夜編
第1話雲掴む喧騒
暗い──
意識は確かそこにあるのにも関わらず、何も解らなくて解れない。
ただ何も無い空間が無限に広がっているようにも覚えて──まるで、自分の全てが虚ろに取り残されてしまったかのようにも感じられて。
麻痺したような感触が体を包み込む。
最早どう形容するべきなのか……自身の身体の存在すらも知覚不能な程、強い孤独の中で、開放感に満ち溢れた狂った世界。
此処は何処なのだろうか……?
脳裏に浮かべた問いは時を待たずして返ってくる。
嗚呼──夜だ。
夜なんだ。
それは、全ての光から乖離した世界。とでも言う様に──またの名を夢。
何処まで空を見つめようとも先の見えることのない、黒い
星々の光は、人々の道標としての意義を無くし、ただ日の光を跳ね返すだけの大愚なる石塊と化す。
変革を謳う者は罪に堕ち、地に降り注ぐ光べきは、届くことなく鬱蒼とした色彩の無い日常を歩むことを強要する。
だが、これは……本当に夢なのだろうか、何も分からない。
ただ少し……肌寒いような。
今、自分は目を開いているのだろうか。
それとも閉じているのだろうか。感じられるようで感じ取ることの出来ない、不定形で不確定性を帯びた果のない無色の領域。
体は、在るのか……?
僕は……誰なんだ?
分かっている、分かっているのに。
自身たる何かを喪失しながらも、自分そのものが確固とした存在に成ろうとしている。僕はその真実を深く、深く感じ取る。
やがて、目を開けば体が宙を舞っている事に気付く。気付いてしまう──
体が、落ちる。
「は……?」
自分の声が耳元で聞こえる。体の内側から響いてくるような感覚とともに。
体が落ちる。
晴れ渡る黒い空を向いたまま、地で星のように瞬く街の光に吸い込まれるように。
意識が徐々に……消えていく。
────
「ああ……朝だ」
僕は……、
もしくは浮遊している事を知覚してさまったのと同時に、自ら本能的に地に這う事を望むのか。
広大な夜の世界から矮小でありふれた一室へと……眠りから堕ち、目を覚ます。
新築の一軒家、その一室、自室。
ドアに掛けられた高校の制服。
はじめは袖を通すことすらも嫌だったその服は、今や着慣れたものになってきてしまっている。嫌な事実を心の何処かで掴み取る。
寝間着のまま、階段を降りて顔を洗って歯を磨いて。どうしても喉を通らない朝食を冷蔵庫に戻し、制服を着る。
黒い鞄。濃い紺色のブレザー。
悶々としているのか、それとも何も感じていないのか。生活を作業的に繰り返している事を日々覚えて。
玄関の扉を開ける。
「あおっ、おはようございます!」
急ブレーキ……とは言ってもそこまでスピードを出していなかった自転車が、ちょうどのタイミングで止まり、それと同時に朝の挨拶が聞こえてくる。
「ど、どうも。おはよう」
「…………」
「…………」
彼女は、瞬きもせず静止する。自転車の車輪だけが空回り。
「行かないの?」
「いっいやあ、一緒に行こうかなと思いましてし」
……てし?
「そんなことしてるといつか遅刻になるぞ」
別に僕が言えたことじゃないが。
「そのときはその時ですよ」
僕は、そうしていつも家を最後に出て、遅刻指導を喰らわぬ程度にゆっくりと学校へと歩む。つまり、僕と一緒に学校に行っても良い事はない。遅刻のリスクが高くなるだけ──
それは、彼女も分かっている筈だというのに、僕が朝こうして玄関の扉を開けると同時に小さなブレーキ音を響かせてはまたもこんな会話をする。
何処までめくれど変わらない漫画の一コマが此処にはあった。
そうだと言うのに彼女は、目を細めては楽しそうな表情を浮かべて僕を待つ。
玄関の扉を閉じて自転車を取り出し、彼女と一緒に歩く。
現在時刻は八時二十分。これでも今日は早い方だ……。三十五分のチャイムの鳴り終わりまでに到着できればいい。
早く行っても楽しいことは起きやしないんだから。
「あの、今日って小テスト何もありませんよね?」
顔覗き込むように、竜胆色の髪を揺らす少女。
「……あ?」
「寝不足?」
彼女の声が反響するように聞こえてくる。
眠い……のか。
「そうかも知れない」
最近は、高所から落ちるような夢を見てばかりだ。
「ゆっくり寝て……ふわ……」
彼女は彼女で眠そうに、欠伸をする。
「そっちもか」
「……あ、あはは」
物語だったら描写をするまでもないようないつもの一場面。
──そうして昼時。
無事に学校に着いては、何かあるわけでもなく。別段、遅く寝ているわけではないのにも関わらずしても途切れない、鬱陶しい眠気を感じ続けるだけ。
強いていうなら近くの席の生徒に絡まれるくらいだろうか。
「なあなあ、りょうらー」
スポーツ刈りの……生徒。まだ、名前は覚えていない。初対面の日に聞き損ねてしまったのが今も悔やまれる。
「……はい」
「今日こそは一緒に学食行こうぜ!」
クラスの目立った生徒が明るく声を掛けてくる。別に悪いやつじゃないのは分かりきっているのだけれど。
自己紹介で引っ越してきたから友達一人しかいませんとか言うんじゃなかった。
僕は、その時の事を後悔してはいつものように昼休みを過ごす。
教室の端の席で何も食べずに寝ているだけで……。親は忙しくて弁当を作る暇も無い。夜には朝食を食べて終わり。
時間だけが身勝手に去っていく。
「あ……。お金持ってきてないので……すみません」
そんな僕は、誘いを丁重に断る。
「そうかぁ、残念だ! まあいつでも待ってるから誘えよな!」
僕なんかを誘って──何だろうか、彼は何をしたいのだろうか。いざ知らず、そんなことを思うわけもなく机にうつ伏せになって……。
昼休み終了の鐘の音を待つ。遠くから視線を感じながらも静かに。
だが、時の経過と共に鐘ではない別の何かの音が、何かが近付いて来ているのが分かる。何だろうか……この異様な感覚は。
今、顔を上げたら不味い気がしてならない。
なんだ……?
周囲の雑音に乗じて紛れ込むように、僕の前の席に何かが座り込む。少なくとも確かに前の生徒は休みだったはずなのだが……一体。
「おはようございます」
微かに顔を上げると竜胆色の髪が、僅かに見える。
桃花……か。
「まだ寝てるから」
顔を上げずに答える。
「まだっていつまでですか」
彼女は、少し上の方を向きながらそう言った。
「昼休みが終るまでだ」
「寝る子は育ちますからそれでいいかも知れませんね」
「それは僕の身長が低いことを言いたいだけか」
「あ、顔上げた。おはようございます」
再び、彼女は朝の挨拶をする。髪を耳に掛けて僕の顔を見て……。
「……あ、はい」
昼間の陽光を受けて微かに微笑み、去っていく。
紺色の瞳を横に流して……。
早くも午後の授業がやって来る。
今日は、いつにもましてに短く感じる日だ。
暫くすると、夢に呼ばれるように。
……眠気が急に襲ってくる。体の意識が抜け落ちるように。
そうだと言うのに、周りの音は変わらずに聞こえている。また、だ、また……嫌に寒い。悪寒が体を包み込む。
皮膚の下に氷水が流されてくるように。
周りを見ても普通に授業を受けているみたいで、無論寒がっている生徒も居ない。
夜の……近頃の夢のことを思い出す。
「えー、これにより証明完了……。つか、これ分かったやついるかー」
教師が黒板に図形と数式を書き連ねて振り返る。
調子のいいスポーツ刈りの生徒が答える。
「はい! 分かりません!」
「はい! 黙らっしゃい!」
ノリの良い先生が、笑いながらスルーする。
皆笑っている中、教室の外。
教室のドアの前に黒い大きな影が、周囲に響き渡る金属の音が。思わずその場から逃げ出してしまいたいと思うほどの恐怖心が響いてくる。
皆は笑っている。
僕は震えている。
何も見えていないかのように。僕も何もしていないかのように、つまらない話に笑顔で──教室を覗き込む何かが見えていないという事実を指し示すように。
笑い声が反響する。それが普通なのかも知れないというのに、それは普通の声に聞こえない……。
影は、扉をすり抜けるようにした入り込む。授業中の教室。皆が座っているところをすり抜けるように、亡霊みたいに。
誰も気付かずに自身のノートを見て問題を解いている。
桃花の後ろに差す大きな影へと向かって、体を動かそうとするも動かない。隣のクラスメイトの横でどれだけ、体が動かない現状を抗おうとしても一切機にする様子はない。
先生は次の例題の解説に入る。
なんでだ……何であんなに恐ろしい金属音が響いているというのに。
動かずに居られるんだ。笑顔で居られるんだ……。
駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ目だ駄目だ駄目だ駄目だ。
頭の中でうねるように言葉がぐるぐると回り、溢れ出しそうになる。吐き出してしまいたいと思うほどに、深くまで流れ込む戦慄。
唇すらも動かすことが出来ない。
体は此処までも震えているのに思うように動かない。
なんだよ……あの怪物。
誰も気付かない。
桃花の姿が影に隠れて見えなくなる。
やっと口が開けた……。
今が授業中だとか知ったことじゃない。
だから、死んでしまうほどに息を吸い込んで、
「桃花!!!!」
生涯で一番の大きい声を出す。
でも────────
「えー、じゃあ次この問題分かるやついるかー」
先生が振り返っても何も気にせずに、教室を見渡して普段通りの笑みを見せる。
なんでだ……なんでだ……なんでだ。
無精髭に後ろで言った髪、丸メガネの奥……。あの教師には本当に何も見えていないのか。隣の生徒、長い前髪を掻き分けてノートと黒板を見返している。絶対に目に映っているはずなのに。斜め前の席の生徒、未だにさっきの会話がツボに入っているのかまだ悶えている。あの化け物が目に入っているはずなのに……。
ギギギギギギギキキキギギギ……錆びた刃物を擦り合わせた響く音。耳の奥に、捩じ込むように入っていく。流れてくる。
どうなってるんだ……。
影は何かを探すように周囲を動き回る。
桃花と同じように他の生徒の背後に立ち、動いてを繰り返す。
誰も……気にしない。
誰にも……見えていない。
「満タ……ス……
低いところから這い上がってくるような声が鳴り響き、授業の終わりの鐘が鳴る。
消え去る──
「もしかして授業中また寝てたんですか?」
また、前の空いた席に女子生徒が座る。
桃花だ。
「…………寝て、た?」
「またずっと机の方向いていましたよね?」
幼い弟を叱る姉のような表情で、柔らかい笑みを浮かべる。
「まあ私も寝不足で途中で寝てしまっていたのですが。あ! "途中まで"です。ここ重要。テストに出ます。嘘です」
寝て、いたのか?
「…………」
聞こえているのに言葉が入ってこない。
「聞いてた?」
「う、うん」
その後、六限目も終わり本当に何も無かったかのような帰り道。まだ明かりが残っている。自転車を押しながら一人ゆっくりと歩く。
学校が嫌いなわけではないのだけれど、家が嫌いなわけではないのだけれど。
何かが無い、欠けている存在を強く感じる空間にいるだけで心が失われていくような。
「まだ、心臓の鼓動が止まらない」
「ど、どうかされたんですか!?」
桃花が、控えめな紫色の椿の髪飾りを光らせ、現れる。
「何を驚いている……。というかいつから居た」
「い、いや……。心臓がどうたらこうたらから居ましたが」
「要するに丁度今ね……」
独り言を聞かれて僕は微かに苦笑いする。
「要されるとそう言う事です。それで心臓の調子は大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫」
というか顔が近い。
むしろ近すぎる。
「顔が、近い」
「っ……失礼しました」
彼女もそのことに気付いたのか、風に押される木の葉の如くささっと後ろに下がる。頭を下げる……深々とお辞儀する。周囲の視線を感じる。
「だっ大丈夫大丈夫!! ……だから」
そう言うと笑顔ではい、と言って再び隣を歩き出す──
赫の空に堕とされる影は、笑うこともなく微かに黒の地に揺れ動く……地を這う空は亡霊の香りを漂わせて繰り返される時間を砕く。
静寂とも取れない空から、心の臓から溢れ出す。生き物めいた温かみと、異様なまでもの錆鉄色の匂いが纏わりつくようにして
喉の奥を内側から引っ掻く笑い声。
背筋に生えた金属を金属で崩壊に導く冷たい音。
自転車をカタカタと音を立てて前へと進みながら感じる。感じ続ける。
何も無いいつもの帰り道で。
今もまた日常と離れ切らない世界で──
影を追うようにまた、黒い人影がひとつ。あの恐怖の幻影とは違う。確かな人の姿をした影。黒いコート……仮面の表情は黄昏時に紛れて見えずに、それでも視線は確かに二人の高校生を追っていた。
クリスタルで出来た首飾りが、紺と混ざり合う紅に照らされて。溶け合いながら街中の影に拡散されて反射して……。動かずに、ただ遠方を見て、笑うことも泣くことも怒ることも。ただ罪に溺れる者を見据えて。
未来を──見定めて。
常なるものが一つ、解放の時へと歩みを始める。
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