ハシゴ

楽天アイヒマン

ハシゴ

「ハシゴやハシゴ、なぜ上る。そんなに天国が恐ろしいのか。ハシゴやハシゴ、なぜ下る。そんなに地獄が羨ましいのか。真っ白な壁は笑いながら遠い未来を指差した」


 真っ白な壁、天井についた窓から見える青い空。俺はだだっ広い体育館の中、ハシゴの上で必死にバランスを取っていた。足元はおぼつかない。気を紛らわせるため、窓の外の鳥を眺める。差し込む日光がジリジリと肌を焼く。高さが10mほどの梯子は、降りようとするとぎしぎしと音を立て、真ん中から折れそうになってしまう。バランスを取るのに必死で、とても降りられるとは思えない。

 顎先からこぼれた汗が、床に落ち微かな音を立てる。しまった、注意を引いてしまったか。だが奴らは俺に気づく様子もなくうめいている。

 以前あまりの恐怖に泣き出してしまった奴がいた。馬鹿な奴だった。すぐに奴らにたかられ、殺された。

 あ、また一人はしごが折れた。折れるのも時間の問題かと思っていたが、無理矢理ハシゴを降りようとしたのか。

 これで残りの梯子は四本か。どちゃりと音を立て、地面に叩きつけられた男は、呻き声をあげ、脳髄を垂らしながら地面を這い回り始めた。彼の薄ピンクの肌色はみるみるうちに灰色になり、あたりをひしめく亡者達と見分けがつかなくなってしまった。地獄そのものの光景から目を背け、自分のバランスを取ることに集中する。

 300×500メートルの体育館の床には下半身付随の亡者が蠢いている。ざっと数えて50人ほどだろうか。奴らは同じような顔で、馬鹿の一つ覚えのように呟いている。「助けて、助けて」

 俺はなぜここにいるのだろうと思い返してみるが、ハシゴの上でふらついている以外の記憶がない。気がついたらここにいたのだ。ならばここで頑張るしか道はないだろう。

 幸い亡者達は他のハシゴに気を取られている。俺の足元には2、3人の亡者しかいない。体を捩らせ、包囲網から脱出する。

 その勢いのまま、体育館の端まで避難する。そこは亡者のいない安全なスペースだった。ひょこひょことハシゴを右へ左へ捩りながらその場所へと辿り着く。

 亡者達との距離は50mほどだ。一息ついたので、辺りを見渡す。

 残ったハシゴは四本で、その上で汗を垂らす人達は皆個性もない中年男性だ。目を離したらすぐに記憶から消されそうなほど特徴がない。もっともそれは俺にも言えるだろう。

 仕事場と家との往復の繰り返し、そして気がついたらここにいた。もし俺が死ぬとしても、走馬灯は一瞬で過ぎ去るだろう。

 そんなことを考えていると、また一人ハシゴが折れた。小太りのおじさんが床に落ちて、耳障りな音を立てる。彼はいい人だった。ここに来るまではスーパーの店長をしていたそうだ。震えるハシゴの上で彼が語っていた。もしここから出ることが出来たら、娘に会いに行く、と。吶々と語る彼の目には確かに希望が宿っていた。

 しかし脳髄がはみ出た彼からはなんの感情も読み取れなかった。亡者となり、ただ欲望のままに、生者である俺たちに向かって群がるだけだ。なんの後悔も、信仰も感じられなかった。ただ生きる意思として俺たちに群がっているのだろう。彼らの目は恐ろしいほど澄んでいた。 

 息を殺すこと数十分、遂に年貢の納め時が来た。体育館の端っこで身を潜めていた俺に、亡者が目をつけた。

 彼らはゆっくり俺に近づいてくる。必死にハシゴを操りなんとか逃げ出そうとするが、多勢に無勢だ。たちまち囲まれてしまう。

 ああ、ここまでか。俺はこれまでの人生を思い返したが、あまりに薄っぺらい人生だったのだろう。亡者達がハシゴに辿り着く前に走馬灯を駆け抜けてしまった。

 怖い。亡者達の手がハシゴにかかる前から、すでに恐怖でガタガタとハシゴは揺れていた。その震えは収まらず、酷くなるばかりだった。

 俺は亡者達に囲まれ、恐怖の中死ぬのだけは嫌だと思った。せめて尊厳を守りたいと思った。それは俺のクソみたいな人生に対するせめてもの抵抗で、最後に残された希望だった。

 俺は梯子から手を離した。一瞬の浮遊感の後、床に向かって吸い込まれていく。体を打ちつける前に見たのは、皮肉なほど青い空だった。


 俺はゆっくりと目を覚ました。額から溢れ出すドス黒い血が俺の頬を濡らす。足は痺れて動かないが、腕を使って這うことはできる。どうやら俺は助かったらしい。あんな距離から落ちて頭を打ったのに。不思議なこともあるもんだ。まあいい、まずはここから出よう。俺はゆっくりと体を起こすと床を這った。

 その瞬間凄まじい快楽が俺の脳を貫いた。一瞬目の前が白むほどの快楽で、無常の幸福感と暖かさが全身を包み込んだ。

 快楽の元は麻痺した下半身からで、足が床に擦れるたびにその快楽は続く。辺りを見渡すと、先ほどまで恐れ疎んでいた亡者達の顔は一変していた。

 皆、慈愛と安らぎに満ちた表情で、ハシゴに向かって這っていく。彼らの意図はすぐにわかった。

 この快楽を、ハシゴの上で必死に生きている奴らに教えてあげるためだ。ハシゴの上の奴らは脂汗を垂らして必死でバランスを保っている。

 その姿はあまりにも哀れで、惨めだった。俺は最大限の慈悲を込めて、彼らを梯子から引き摺り下ろすことにした。痛くはしない。彼らを助けてあげたい。気づくと俺の口から自然と言葉が漏れ出ていた。

「助けて、助けてあげる」

 今更ここから出ようとなんて微塵も思わなかった。思えばここが天国というものなんじゃないだろうか。

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