第2話 取り上げられる居場所

村の朝は、かつてとまるで違っていた。パンの匂いは消え、かわりにどこかから咳き込む声が風に乗って届く。畑も荒れ、森に薬草を採りに行く人の姿もまばらだった。



「黒い咳」はリューシェ村を静かに、けれど確実に弱らせていた。




人が減り、物資が減り、住む場所すら足りなくなっていた。パン屋の大きな建物は、広場に面しており、かまども井戸も備えていた。病人の避難所にするには、これ以上ない立地だった。




だからこそ、村の大人たちは決断を迫られた。そして、その知らせをリゼットに伝えるため、村役場へ呼び出した。




役場の長いテーブルには、村長と役人ヴァルターが座っていた。彼は眼鏡をかけた痩せた男で、無表情のままリゼットを見つめていた。




「リゼット、今日は大事な話がある」




村長が切り出した。




「村の状況は、君も知っているだろう? 病人は増えている。倉庫も足りない。村には余裕がないんだ」




リゼットはこくりと頷いた。




「だから——あのパン屋を、村で使わせてほしい」






息が詰まったような静寂が、部屋に満ちた。




「お店は、私が守ります……」




小さな声で言うと、ヴァルターが冷静な口調で返した。




「子ども一人で何ができる? 君はもう、保護されるべき存在なんだ。建物を管理するのも、危ない仕事だってことくらい分かっているだろう?」




彼の言葉には、どこにも感情がなかった。ただ数字や合理性で世界を切り分けるような響きだった。




「このままでは、誰も入れない空き家がひとつ増えるだけだ。だったら、薬草と薪を置いて、必要な人たちに使った方がいい」




村長も苦しげな顔で続けた。




「親戚を頼るか、しばらくは村の誰かの家に預かってもらおう。そういう相談も、進めているんだ」






——相談? わたしのいないところで?




リゼットは、ただ呆然と話を聞いていた。自分の意志を問われることは一度もなかった。ただ、既に決められた未来を“教えられている”だけだった。






「ひとりでお店なんて、無理だろう」




誰かが呟いたその言葉が、とどめのように胸に刺さった。父と母が、あれほど大事にしてきた場所。リゼットにとって、思い出の詰まった場所だった。パンを焼く香り、笑い声、朝の光……全部、そこにあったのに。











その夜、パン屋に戻ったリゼットは、誰もいないかまどの前でひざを抱えて涙した。もう火は入らない。けれど、手をのせれば、まだほんのりとあたたかい気がした。




そして眠りに落ちたそのとき——どこか遠くから、麦の香りとやさしい声が風に乗って、リゼットの耳に届いた。



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