第5話 大切なもの

「え? 覚えていない魔法なの?」

 俺が不安そうな声をあげるとジョスリンは鼻をならす。

「おっぱいが出るようになる魔法なんぞ、そうしょっちゅう使うもんでもないだろうが。知っているだけで凄いと思え」

 そりゃそうだ。

 やっと見つかったようでジョスリンは寄せていた眉を開いた。

「それじゃ、始めるぞ」

 右手を俺の方に伸ばす。

 ちょ、ちょっと、心の準備が。

 そう言う間もなくハイランドの魔女は呪文を唱え始め、俺は体の変調を感じていた。 


 はあ、死ぬかと思ったぜ。

 通常は数か月かけて行われる体の変化が一瞬で起こるんだから当然のことながら負荷は物凄いものだった。

 吐き気、だるさ、微熱、それらがいっぺんに押し寄せてきたと思うと俺は胸が痛いほど張っていることに気が付く。

 見ればジョスリンがドヤ顔をきめていた。

「母さん、さすがね」

「高難易度に分類されておるとはいえ、この程度私が使いこなせないわけないだろう」


 確かに考えてみれば肉体の一部を作り変えてしまうのだから簡単な魔法ではない。

「ほれ、うまくいったのだから、はよ授乳してやらんか」

 俺はソファに座らされる。

 それから、ジョスリンとタイラーの2人がかりで色々と指導いただいた。

 俺が座る仰角をクッションで調整し、今着ている服では胸が出せないのでタイラーが生地を切り裂き、ブラを外す。

 ちなみにこの世界にはもともとブラは無かった。

 栄美の説明に基づきジョスリンが試行錯誤し俺の胸に合わせて作ったフルオーダーメイドの1点ものである。


「つけたまま授乳できるものも用意した方がいいな」

 将来自分のものとなると思うと指示が多い。

 切り裂いた間から片胸を露出すると赤ちゃんを渡された。

 赤ちゃんとの向き、距離などを指導されていよいよ実際に授乳する。

 まだ目も開いていない赤ん坊が口に添えられた乳首を一生懸命に吸う様を見て俺は生命の神秘に感動した。

 今までお預けをくらっていたせいか真剣そのものの姿で一心不乱におっぱいを飲んでいる。


「はい。終了」

 タイラーが宣言して赤ん坊を引きはがした。

 とたんに火が付いたように泣き出す。

「何をするんだ?」

「片側ばっかり吸われると反対側が張って大変なことになるぞ。腐ることもあるんだからな」

 やれやれというようにタイラーが首を横に振った。

「ほら、反対側を出せ」


 先ほどから傍目には女を襲う男のような言動をしているように見えるタイラーが俺に命じる。

「そうじゃなくても、赤ちゃんのクセや好みで片側ばかりということになりやすいんだから、最初から慣れさせておいた方がいいんだ」

 反対側の胸を出して授乳を始めながら俺は感心した声を出した。

「やっぱり詳しいね。助産師というのは本当だったんだ」

「なんだ、信じていなかったのか?」

「だって、今までそういう機会なかったから」


 そうこうするうちに満足したのか赤ん坊はおっぱいを吸わなくなる。

 よくわからない多幸感に俺がぼうっとしているとジョスリンとタイラーから叱られた。

「おっぱいあげて終わりじゃないんだぞ」

「ほら、早くげっぷさせてあげないと」

「どうすりゃいいの?」

 言われたとおり、乳臭い赤ちゃんを抱え上げて背中をとんとんと優しく叩いたり下から上にさすってやる。


 けぽ。

 げっぷと一緒に少し母乳を吐き戻した。

 肩から背中が濡れて乳の臭いが濃くなる。

「まあ、こんなところね」

 合格を頂いたので赤ちゃんをクッションで落ちないようにしてあるソファの上に置いた。

 タイラーを見ると難しい顔をしている。


「どうしたの? 今のやり方で何かまずかった?」

「出しっぱなしだ。まず、それをしまえ」

 慌てて前をかきあわせた。

 その様子を確認するとタイラーは口を開く。

「K2シロップ」

「なに、それ?」

「新生児はビタミンKが不足しがちなんだよ。ビタミンKは血液凝固に作用する。足りないと脳内出血で死亡するリスクが上がる」


 淡々と告げられる事実が重かった。

「とはいっても、そんなものここにはないわよ。なくてもこの世界はなんとかなっているんだから……」

 俺の希望的観測にタイラーが言葉を被せる。

「だから、乳幼児の死亡率が高い」

「だけど、どうしようもないだろ。ビタミンKって何に含まれているんだ?」

「納豆」

「やっぱり無いじゃないの!」

 俺の口から悲鳴に近い声が漏れた。


 助けを求めて見ればジョスリンが興味深そうに耳を傾けている。

「おや、異世界の知識というやつかい? なかなかに興味深いが私じゃ役に立てそうにないね」

 そりゃそうか。

 俺は落ち着いて寝ている赤ん坊に目をやった。

 授乳したせいか、我が子という気持ちが強くなっている。

 この子を失いたくない。


 気が付けば2人の目が俺に注がれていた。

 ああ、そうか。

 俺の魔法の書は特殊である。

 チェンジという固有魔法を習得できるだけでなく、赤いロッドマークを消費して元居た世界のものを取り寄せることができた。

 ただ、無制限というわけではなく、対象の重量が増えるのに応じて消費されるマークは等比級数的に増える。

 ただ、この場合はK2シロップはそんなに量の多いものではないので、その点はそれほど問題ではない。


 また、俺がどれほど知っているかによっても消費される量は変化した。

 名前と効果を聞くことができたが外形の視覚イメージがわかないので消費量が多くなるはずである。

「どんな形状をしている?」

 俺の問いにタイラーが指で大きさを示した。

「これぐらいの大きさで、細長いメタリックな色のものに入っている。あれだ、猫の大好きなチューブをイメージすればいい」

「数はいくついる?」

「3つだ」


 それなら取り寄せ自体は問題はなさそうだが、赤いロッドマークが減るのは間違いない。

 それはつまりチェンジの魔法を手に入れるのが遠のくことになる。

 実はロッドマークが貯まる仕組みは分かっていない。

 なんとなく、いわゆる善行を積んだときに増える気もするが正確なところは不明だった。


 悩んだのはほんの少しの間だけである。

 以前からぼんやりとだが、この世界に転生したことには何かの意味があるんじゃないかと考えていた。

 すやすやと眠る赤ん坊を見て、この赤ん坊をきちんと育て上げることが使命なんじゃないかという気がする。

 この直感は間違いないという確信があった。


 だとするとK2シロップを取り寄せないという選択肢はありえない。

 使命を疎かにするととんでもないペナルティを食らいそうな予感がある。

 俺と栄美の身体を取り違えるというミスをしているが、俺たちを転生させた高位存在に逆らえばどうなるか分からなかった。

 もしかすると、この赤ん坊はK2シロップなしでも健康に育つかもしれない。

 だが、リスクは回避すべしというのが俺のモットーである。

 俺は左手の先に魔法の書を出現させて、K2シロップを取り寄せるべく呪文を唱え始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る