第3話 競争
四月も下旬に入ったが、朝の六時はまだ冷える。制服の上に薄手のブラックパーカーを羽織った岩崎が校舎に着くと、校庭で白線を引いている羽山と目があった。
「おはよう! こっちこっち!」
「おはようございます。早いっスね」
おいでおいでと片手を上げて呼ぶ羽山の元へ歩み寄りながら、朝の挨拶を交わす。真っ直ぐに白線を引き、ラインカーを置いた彼と向き合う。
「ここからスタートね。まずは鬼を決めようか。ジャンケンでいい?」
「あ、はい」
そのジャンケンで勝ち負けを決めたら早いのに、と岩崎は思うが、もはや愚問だろう。「ジャンケン、ほい」という羽山の掛け声で、同時に手を出す。岩崎がパー、羽山がチョキ。
「俺の勝ちー! じゃあ、俺が鬼ね!」
「え、勝ったのにいいんスか?」
「いいのいいの! 追いかける方が楽しいし!」
逃げる方が隠れたりできるし勝率は上がりそうだが、鬼を選んだ彼を不思議に思う。だがニコニコと楽しそうに準備運動を始めたので、それ以上問い掛ける事はできずに、岩崎も着ていたパーカーとブレザーを脱いだ。ネクタイを外して通学鞄の上に置き、走る準備を整える。羽山もカッターシャツ一枚になり、腕まくりをした。
「さて、準備はいいかな? 十秒経ったら追いかけるからね」
「了解っス。こっちはいつでもOKです」
軽く手首と足首を回し、膝を伸ばしながら合図を待つ。校舎までおよそ百メートル。十秒で校舎の近くまで行くことができれば、彼の視界には入らない死角もある。
「よーい、スタート!」
羽山の掛け声に合わせて、全力でグラウンドを駆け出した。砂埃を舞い上がらせ、腕を大きく振り、長い足を前に出して校舎を目指す。「九、八、……四、三、二……」と、羽山のカウントダウンが徐々に遠くなっていく。校舎は目前だ。あとは追いつかれる前に隠れて、十分間やり過ごす。そう考えて岩崎はスタート前の羽山を一目見ようと振り返った。
——嘘だろ……
片足を前に出して足を広げ、背中を軽く曲げて綺麗なフォームで佇む姿に息を飲む。遠目でも分かる真剣な眼差しは、岩崎を捉えて離さない。その獲物を狩るような栗色の瞳に足が止まりそうになったが「ぜろ!」の掛け声と共に走り出した羽山を見て、そんな余裕はない事に気付く。岩崎は校舎内に入って、一階の廊下を真っ直ぐに走り抜ける。隠れようとしたが全力で走っている為、隠れても息を吸い込む音で気付かれてしまうだろう。
「はぁ、はぁ……ッ!」
乱れた呼吸を整える暇はない。壁に片手をつき勢い良く角を曲がると、校舎から一度出て体育倉庫の裏に向かう。その間も、後ろから走る音は徐々に近くなっている。時間が過ぎるたび隠れる事が困難になり、空いていた距離が詰まりつつあった。
「——はぁ…はっ…ッ、マジかよ!」
体育倉庫の裏に回り逃げられる場所がないか頭を回転させるが、校舎の中もそれほど詳しいわけではない。いつも決まった場所を通るだけで、部活動をする生徒達が使う部室も覗いたことはなかった。羽山から逃げ切れるほどの死角が思いつかないまま、足を止める事なく走り続けて、外階段を無我夢中で登っていく。足の長さを利用し階段を二段飛ばしすれば追いつけないと考えたが、そもそも速さが違うため些細な抵抗に過ぎなかった。
「まてまてええええ……っ!!」
「はッ、待てと言われて待てるわけっ——!」
階段の下から聞こえる羽山の声に息を乱しながら応じかけたが、四階の踊り場に辿り着くと、屋上への階段は鍵がかかった大きな鉄の柵が邪魔していた。校舎に入る為のドアも鍵がかかってる。万事休す。
岩崎の足音が止むと、羽山はゆっくりと階段を上り始める。
——どうする、どうする……?
スタートから五分は経過したと思うが、十分はさすがに経っていないだろう。
額から顎へと伝う汗を手の甲で拭い、近付いてくる足音を聞きながら、校舎に続くドアに背をつけた。何とか捕まる瞬間に逃げられないか策を練る。姿の見えた羽山は既に勝ち誇った顔をしながら、一歩ずつ岩崎に近付いてきた。
「俺の勝ちだね、浩司」
降参と言わんばかりに両手を上げた岩崎を見て、ニヤリと口端を上げた羽山の手が伸びてきた——その時。岩崎は身体を右に傾け間一髪で手が触れるのを避け、そのまま地面に手をつき勢いよく
「——ッ?!」
予想外の行動に目を大きく開いた羽山の横顔が、岩崎の目には逆さまに映る。側転から綺麗に着地した岩崎だったが、手すりとの距離が思っていたよりも近く前のめりになった。手すりが腹部に食いこみ、地面が視界に映る。
「うぉわっ……!!」
「——浩司ッ!!」
危うく手すりから落ちそうになるが、背後から抱きついた羽山が思いっきり引っ張った為、落ちる事は何とか避けられた。危ない危ないと冷や汗をかきながら、助けてくれた礼を言おうと振り返るが、しがみついたまま両目を潤ませ眉を吊り上げる羽山の顔が目に入る。
「壱せんぱい……?」
「こんなトコで何でそんな無茶すんだよッ! お前が落ちたらって、どんだけビビったか……っ!」
怒って声を荒げているが、目尻には涙が溜まっている。その泣き顔と掠れた声音に、岩崎の鼓動が跳ね上がる。背中にしがみついていた腕を離して自らの目元をゴシゴシと乱暴に拭う羽山を見下ろし、岩崎は栗色の頭に手を置き撫でた。
「心配かけちまってすいません。あと、ありがとうございます」
「……勝負は俺の勝ちだからな」
「そうっスね。何でも言うこと聞きますよ」
「よしっ」
時間を確認していないが、十分は経っていないはずだ。負けを認めて、頭をわしゃわしゃ撫でる。汗ばんで湿り気を帯びた羽山の髪は、何故か触り心地が良かった。
もっと触れていたい……
他人に対し初めて抱いた思いをとても口にすることはできず、岩崎はそっと手を離した。
「で、お願いって何スか?」
「六月の学年混同クラス対抗リレーに代表者として出てほしいんだよね」
「え……?」
予想外の要求に岩崎は固まった。六月にリレーと言えば一つしかない。運動会だ。
まだ岩崎のクラスで具体的な話は出ていないが、リレーは運動会の目玉となる種目の一つだ。そこに代表として出るなど考えてもいなかった話で、岩崎は大きく手を振り無理無理と訴えた。
「いやいや、無理っスよ! 壱先輩速いし、俺負けたじゃないスか」
「浩司も十分速いから大丈夫。それに俺……」
言葉を止めて珍しく言い淀む羽山に対し、首を傾げる。
「黙っててごめん。俺、陸上部なんだ」
「えっ?! マジすか?!」
「こう見えて去年の全国高校陸上大会八百メートル走で二位でした」
頭を下げて謝った後、羽山は頬を掻きながら照れたように話す。事前に下調べをしなかった岩崎が悪いのだが、そんな情報を出されては負けても仕方なかったように思う。
「だから遊びでも勝てないと格好悪いじゃん」
「……それで、何でリレー?」
「負けたくないから。C組はたぶん大丈夫だと思うんだけど、B組に陸上部の先輩が二人いて、その二人がすげー速くてさ。A組も同じクラスに一人速い子いるんだけど、もう一人速い人がいればと思って浩司に目を付けてたんだよね」
学年混同クラス対抗リレーはその名の通り、一年生~三年生の中から代表者を男女一名ずつ決めてクラス毎に対抗するリレーだ。クラスはA、B、Cとある。岩崎は一年A組、二年A組の羽山とは同じ組になる。
「何で俺に?」
「弟が浩司と同じ中学でさ。去年運動会見に行ったらリレーで速い奴いるなって思ったんだけど、それがお前だったってわけ」
「あー……」
初めて会った時から既に知っていたような話しぶりはそういうことか、と岩崎は納得したような釈然としないような間延びした相槌を打った。
「まさか同じ高校になると思わなかったけど嬉しかったよ。話してみたかったし」
「リレーで速かったからですか?」
思い掛けない言葉に、岩崎の心臓がどくりと音を立てた。
羽山は手すりに腕を乗せ、何か思いを馳せているのか遠くを見ている。
「それもあるけど……というか、話逸れちゃったけどリレー出てくれるよね?」
「…………まぁ、約束ですから」
「よしよし、ちなみにノートと教科書は良かったら貸すよ。付き合ってくれたお礼」
「マジすか! ありがとうございます」
何か言いかけたのを誤魔化すような羽山の態度が気になったが、ノートと教科書を貸すという有難い申し出に意識を奪われ岩崎は頭を下げた。リレーの代表者は気が重いが、自分以外に名乗りを上げる者がいるかもしれない。むしろ、いてほしい。
「そろそろ部活の時間だから、俺行くね」
「あ、はい。そういや俺はリレーの練習とかしなくていいんスか?」
「クラス毎にバトンの受け渡し練習があるから、それくらいでいいと思うよ」
勝つ為に練習もお願いされるかと思いきや、特に必要ないとの口ぶりに岩崎は内心安堵した。さすがにバイトは休めないし、練習する時間は捻出できそうにない。
「またね。今日はありがとう!」
軽快な足音を立てて階段を降りていく羽山を見送り、岩崎も外階段を降りていく。
汗をかいていたので肌に当たる風が冷たく感じたが、不思議と気持ちは温かい。羽山の一挙一動に振り回されているが、何事にも一生懸命で素直で明るい人柄がそう思わせてくれるのだろう。
……可愛かった、な。
落ちそうになった時、必死で怒って心配してくれた顔を思い出して口許を綻ばせたが、はたと我に返り首をぶんぶん振った。
——可愛いって何だ! 自分は男。羽山も男!
燻り始めた感情に蓋をするよう深呼吸して、岩崎は鞄と着ていたものを取りに校庭へ向かった。
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