第3話 沈黙の記憶



 翌日、健太は少女と再びあの公園に向かった。午後の日差しが木々の間から差し込む中、二人はブランコの前に立っていた。少女は白い花を摘み取りながら、健太を振り返った。


「ねえ、覚えてる? このブランコに座りながら、いろんなことを話したよね。将来の夢とか、好きなものとか、全部」


 健太は首を横に振る。何も覚えていない。それでも、少女の声にはどこか懐かしさがあり、ここに来たことがあるという感覚だけは確かにあった。


「でも、なんとなく……わかる気がするんだ。ここで、君と一緒にいたような気がする」


 そう言うと、少女は微笑んだ。しかし、その笑顔にはどこか寂しさが混じっているようだった。


「健太にとって、私はどんな存在だったのかな……」


 少女の言葉に健太は返答できなかった。ただ、胸の奥にある喪失感が再び膨らんでいくのを感じる。もしかしたら、彼女は自分にとってとても大切な存在だったのではないか――そんな思いが頭をよぎる。


「……私、健太に伝えたいことがあるの」


 少女は静かにベンチに腰を下ろし、健太に向かって話し始めた。


 ---


「事故の日、健太がどうして私を助けたのか、ちゃんと覚えてる。あの日、私はここで君に告白しようと思ってたんだ。」


「告白……?」


 健太は驚いて少女を見つめた。少女はうつむき、続ける。


「うん。健太がいつも私を守ってくれて、笑わせてくれて……すごく大切な人だったから。でも、私、怖かったんだ。もし拒絶されたらどうしようって。だから、結局言えなくて……そのまま帰ろうとしたの。」


 少女の声は震えていた。


「でも、帰ろうとした私を、健太が呼び止めてくれて……。そのとき、バスが来てて、私が車道に飛び出しそうになったんだ。健太はとっさに私を引き寄せて……それで、君が……」


 少女は言葉を詰まらせ、涙をこぼした。


「私のせいで……健太は大切な記憶を全部失ってしまったんだ。」


 少女の言葉に、健太は何か強い衝動を感じた。胸の奥で封じ込められていた何かが、一気に溢れ出すような感覚。


「……君の名前、教えてくれる?」


 健太の問いに、少女は目を見開いた。そして、少しだけ微笑みながら答えた。


「私の名前は……夏希。桜井夏希。」


 その瞬間、健太の頭の中で断片的な記憶が蘇り始めた。名前を呼ぶ声、笑顔、白い花、そして――事故の瞬間。彼は確かに、夏希を助けようと手を伸ばした。そしてそのとき感じた温もりを、今でも覚えている。


「……夏希……」


 健太は呟くように名前を口にした。その名前は、彼の中にしまい込まれていた何かを引き出す鍵だった。彼女がそこにいることが、まるで奇跡のように思えた。


「思い出してきた……君とのこと、全部じゃないけど……確かに、僕は君を守りたかったんだ。君が大切だったから」


 健太の言葉に、夏希は涙を拭いながら微笑んだ。


「ありがとう……健太。でも、全部を思い出すには、もう一つだけ行かないといけない場所があるの」


「どこ?」


 夏希は、健太の手をそっと握りしめた。


「病院だよ。健太がずっと入院してた場所。そこに、君の記憶を取り戻すヒントがあるはず」


 ---


 二人は病院に向かった。健太が以前入院していたという病室にたどり着くと、そこには古びたノートが置かれていた。それは事故の後、健太が記憶を失いながらも書き留めていたものだった。


 夏希がそのノートを開くと、そこには短い言葉がいくつも書かれていた。


「夏希の笑顔が好きだ」

「夏希を守らなきゃ」

「夏希、ごめん」

「夏希、ありがとう」


 それらの言葉を見た瞬間、健太の中に眠っていた記憶が一気に蘇った。夏希と一緒に過ごした日々、彼女を笑わせたこと、そして――事故の瞬間。


「……僕、思い出したよ。」


 健太は夏希を見つめた。その目には、確かな光が宿っていた。


「夏希、ありがとう。君のおかげで僕は戻ってこれた。」


 夏希は涙をこぼしながら笑った。


「健太、おかえり。」


 二人はしばらくの間、何も言わずにその場に立ち尽くしていた。ただ、同じ空間で同じ感情を共有していることが、何よりも大切に思えた。


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