エピローグ

第10話 融け合う二人……そして、

 一年後の春。桜が咲き誇り、街全体が淡いピンク色に包まれていた。


 彼女は新しいマンションに引っ越していた。前の場所には、あまりにも多くの記憶が詰まっていたからだ。始まりには、新しい場所が必要だったのだ。


 新しいマンションは以前よりも広く、明るかった。10階建ての新しいマンションの8階、角部屋。大きな窓からは朝日が差し込み、部屋全体を温かな光で満たした。


 窓の外には都会の景色が広がり、遠くには山々のシルエットが見える。


 壁には彼女が選んだ絵画がかけられ、棚には好きな本が並んでいた。青を基調とした部屋のインテリアは、彼女の美意識をよく表していた。ソファはモダンでありながらも座り心地が良く、テーブルは機能的で美しい。


 すべてが彼女自身の選択によるものだった。


 彼女の生活は落ち着きを取り戻していた。


 仕事では昇進し、新しい責任を担っていた。プロジェクトリーダーとして、彼女は小さなチームを率いるようになった。明るいオフィスの一角に自分のデスクを持ち、部下の指導や顧客との折衝を担当する。


 以前よりも冷静で、分析的な判断ができるようになり、周囲からの評価も高まっていた。彼女の提案は的確で、リーダーシップは温かく、しかし揺るぎない強さを持っていた。


 可奈とは親友となり、時々一緒に出かけることもあった。


 映画を見たり、新しいレストランを試したりした。二人の友情は深まり、可奈は彼女の変化を心から喜んでいた。


 兄の直人も彼女の変化を喜び、以前ほど心配することはなくなったように見えた。


 彼は彼女の新しいマンションを訪れると、明るく整った空間に満足そうにうなずいた。


 リビングを歩き回り、窓からの景色を眺め、新しい家具に手を触れる。


 ただ彼の目には、何かを探すような視線が時折混じることがあった。彼は時々、彼女が独り言を言っていないか、奇妙な仕草をしていないか、注意深く観察していた。


「すごく良い場所だね」


 直人は言った。彼はソファに座り、コーヒーを飲みながら微笑んだ。


「でも……少し変わったような気がする」


 彼の目には微かな心配があった。

 

「大丈夫よ」


 彼女はティーポットを持ちながら、微笑みながら返答した。


「私の好みが変わってきたのかもしれないわ」


 彼女の動きには、かつてない優雅さがあった。


 長野医師との定期的なセッションは、三ヶ月に一度になっていた。


 白い診療室での対話は、今や確認作業のようなものになっていた。


 状態は安定し、再発の兆候は見られなかった。


 時折、彼女はもう一人の自分のことを思い出すが、それはもはや痛みを伴うものではなく、懐かしい記憶のようになっていた。

 

「統合は完全に進んだようですね」


 最後のセッションで長野医師は言った。


 彼の穏やかな笑顔には、本当の満足感があった。彼はノートを閉じ、ペンをポケットにしまった。

 

「はい」


 彼女は微笑んだ。その笑顔には、どこか影のような深みがあった。


「私たちはひとつになれました」


 彼女の声は静かだったが、確信に満ちていた。


 彼女がクリニックを出ると、春の風が彼女の長い髪を揺らした。


 彼女はしばらく空を見上げ、深呼吸をした。


 桜の花びらが風に乗って舞う様子を見つめながら、彼女は新しい自分を感じていた。


 ある夜、彼女はバルコニーで夜空を見つめていた。


 真夜中の静けさの中、都会の音は遠く、星だけが彼女を見守っていた。


 満月が空を照らし、影が床に長く伸びていた。彼女は自分の冷たい手を見つめ、それから空へと視線を戻した。


 風が彼女の長い黒髪を揺らし、薄いブルーのワンピースが月明かりに照らされて幽玄に見える。


 「一年経ったのね」


 彼女は静かに呟いた。彼女の茶色い瞳が月の光を反射して輝いていた。


 心の中で、かすかな反応があった。


 それはもう別の声ではなく、ただ彼女自身の内なる声だった。その声は優しく、強さに満ちていた。


「私たちは強くなった」


 彼女は香水を一吹きし、その香りが空気中に広がるのを感じた。


 ラベンダーとジャスミンの混ざった香り。


 いつの間にか身に着けていた習慣。どこで覚えたものだったか、もう思い出せなかった。あるいは、最初から知っていたのかもしれない。


 手帳を取り出し、新しいページを開いた。


 革装丁の手帳は手触りが良く、ページはクリーム色で上質だった。


 そこには「私への手紙」というタイトルが付けられていた。

 

『親愛なる私へ』


 彼女は書き始めた。ペンが紙の上を滑るたび、優雅な文字が浮かび上がる。


『今日で、私たちがひとつになってから一年が経ちました。もはや別々ではなく、完全に統合されています。あなたの視点は私の中で生き続けていて、時々、鏡を見ると、他の誰かが私を見返しているような感覚になります。でもそれは恐れることではありません。私たちはもうひとつなのですから』


 彼女は手紙を読み返し、茶色の瞳に満足の色が浮かんだ。


 薄く微笑み、手帳を閉じた。


 バルコニーから部屋に戻る際、彼女の動きは流れるようで、足音はほとんど聞こえなかった。


 鏡の前に立ち、髪を整えた。長い黒髪が肩に流れ落ちる。細い指が髪をとかし、一筋一筋を丁寧に整える。


 鏡には一人の女性しか映っていなかったが、彼女の目には、かつてない複雑さと深みがあった。


「灯里……」


 彼女は小さく呟いた。


 鏡に近づき、彼女はそこに映る自分の姿を見つめた――茶色の瞳、長い黒髪、青いワンピース。


「来花……」


 私の唇が動いたわけではないのに、その名が聞こえる。


(誰の声だろう?)


 鏡の中の私は微笑み、私はその表情に見覚えがあることに気づいた。


 彼女は水を一杯飲み、ベッドルームに向かった。


 クローゼット~古いアルバムを取り出してめくると、そこには様々な写真があった。


 彼女の姿もあれば、友人たちとの写真もある。


 新しく加わった写真は、可奈との旅行や、オフィスのパーティー、直人との食事の風景など――人々に囲まれた彼女の笑顔は、以前よりも明るく、自然に見えた。


 ある写真に目が止まった。かつて短かった髪、幾分冷たい印象の表情。今の自分とはどこか違う。入院前の彼女の姿だ。


 若く、傷つきやすく、そして孤独な少女の姿。彼女は写真の少女に対して、奇妙な愛情と保護欲を感じた。


「あなたはいつも私の中にいるわ」


 彼女は写真に向かって囁いた。彼女の指先が優しく写真の上を撫でる。


 青いパジャマ姿になった彼女はベッドに横になり、明日への期待と共に目を閉じた。


 明かりを消すと、部屋は闇に包まれた。


 部屋の隅に、彼女の影が二つに分かれて見えたが、それはただの光の悪戯――窓から漏れる月明かりと街灯の光が作り出した幻想だった。


 その夜、夢の中で、彼女は誰かの声を聞いた。


「来花……」


 灯里の声だった。


 だが、それは自分自身の内側から聞こえてくる声でもあった。


「灯里……」


 来花の声で返事をする。


 しかし、それも自分自身の声だった。


 鏡のような世界で二人が向かい合い、少しずつ近づいていく。


「私たちはひとつになるの」


 二つの声が完全に重なり、一つになる瞬間。光が弾け、そして――。


 ふと目を覚ますと、彼女は一人だった。だが、もう孤独ではなかった。


 「灯里、これからもずっと一緒だね」


 そう呟いた彼女の声は優しさに満ち溢れていた。


 <終>

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嘘のある恋人 ゆうきちひろ @chihero3

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