第10話 氷河期世代⑥

 四月、五月、六月。

 ノルマ達成率は低空飛行だった。月にして約千六百万のノルマを何とか超えられたのは四月だけ。五月、六月はイベントがあまりない月だから下回るのは仕方ないのだが、その分のツケは後ろにどんどん積み重なっていく。年末になればお歳暮、クリスマスのお買い物などである程度の挽回は見込めるが、できればそこまで引っ張ることはしたくない。

「あー、一発逆転できるような商品はないかなあ」

 梅雨明けの平日休みの日、お昼過ぎに起きた私は井村屋のゴールド肉まん(冷凍肉まんの中では断トツのおいしさだ)に辛子を付けて食べ、中国茶を飲みながらベッドの上で外商用のカタログを眺めて過ごしていた。

 宝石、時計、ワイン、ワイングラス、呉服、絵画など、並んでいるのは一流品ばかり。

(まだ二宮様からのご紹介はないけれど、弁護士にお薦めするなら、腕時計、スーツ、鞄、靴あたりだろうな。腕時計は、パテックフィリップの最高級ラインを買ってくれたら、月ノルマ達成どころか五月と六月分の不足も補えるなあ……)

 などと妄想を巡らせているとインターホンが鳴り、夏ちゃんが帰って来た。

「ただいま……あら、悦ちゃん、まだパジャマ?」

「うん、今日は疲れてるから、一日パジャマ。それより、早いね。まだ二時だよ」

「展覧会に行きたくて半休取った。平日だとゆっくり見られるでしょ。荷物を置いて、身軽で出かけようと思って」

「どの美術館?」

「G美術館」

 効いたことのない美術館だ。

「どんな展示をしているの?」

「現代日本画」

 へえ、と思った。

 さっきまで見ていたカタログには、日本画は一枚も掲載されていなかった。日本画というと、ふわっとした色合いの着物美人とか三毛猫、松竹梅、金の屏風に描かれた花くらいのイメージしかないが、そこに「現代」が付くと、どういう感じになるのだろう。

「私もついていっていい?」

「――いいけど。悦ちゃん、絵って興味ないでしょ」

「うん、そうだけど――仕事のためなら興味ある」

「そう?」

「ちょっと待ってて」

 私は自室に戻ると急いで身支度を整え、夏ちゃんと一緒に部屋を出た。


「わあ」

 G美術館で何の先入観もなしに一枚の現代日本画の前に立った私は、圧倒された。

 鮮やかな色で鳥や植物を描いたその絵は、美しく、激しい。

「すごい」

「うん、すごいよね。岩絵具と日本画の手法による鮮やかさもあるんだろうけど、それを超えて、絵画として素晴らしいと思う」

「――そうなんだ――この絵、売りたい」

 思わず口に出した私を、

「ええっ! 無理だよ悦っちゃん、美術館の収蔵品なんだから!」

 と夏ちゃんはたしなめた。

 館内に飾られている絵を一枚一枚見て歩くと、一口に「現代」日本画といっても、古いスタイルのものや、抽象画、まるで油絵のように海外の風景や花などを描いたものなど、色々なスタイルがあることがわかった。

 展覧会を観たあと、私は都立中央図書館に立ち寄り、夏ちゃんと私の両方が「いい」と思った日本画家数名のプロフィールや、彼・彼女たちについて書かれた文献を調べ(図書館が午後九時まで開館していて助かった)、帰宅してからほぼ徹夜して資料をまとめ、翌朝、鼻息荒く財前部長のデスクに向かった。

「部長、おはようございます。ご相談なのですが。これらの現代日本画家の絵を売ってみたいです。バイヤー部門との交渉、お願いします」

 そうして資料の束を差し出し、頭を下げた。

 ざっと調べた範囲では、彼らの作品は一枚数十~数百万円ほどで取引されているらしい。しかも、リストアップしたどの画家も作家も海外での注目が高まりつつあり、今後、価格の高騰が見込まれるという。ということは、鑑賞用としてだけでなく、投機用としての購入も見込めるということだ。

 たまたま私のお客様に日本画どころか絵画に興味のある方がいらっしゃらなかったから、絵は売ったことがなかったが、これは逆にチャンスだ。

 こうして私は新たな鉱脈を発掘し、バイヤーがさらに調査・精査して(私の調査は素人の手によるものなのだから、当然だ)一通りの商品を揃え終わった秋以降、現代日本画は太客のみならず通常の外商顧客にも好評で、私は着実にノルマをこなし、年明けの一月、年度末まで二ヵ月を残し、二億円のノルマを達成した。


「おめでとう!」

「ありがとう! 夏ちゃんが展覧会に連れて行ってくれたおかげで、ノルマが達成できました!」

「いやいや、連れてってないよ。悦ちゃんが自分でついてきたんでしょう」

 ノルマ達成が確実になった週末の夜、私たちはオープンキッチンのカウンターに並び、福永百貨店で買ってきたとっておきのシャンパンで祝杯をあげた。

 強すぎず軽やかな炭酸が、豊かな風味と共に喉を通っていく。

「すごくおいしい、このシャンパン。いい物なんでしょう?」

「うん、まあね」

 お祝いだから奮発した。

「おつまみもきれい。用意してくれてありがとう」

「洗って盛っただけだけどね……」

「いや、すごいよ。全部赤で揃えるなんて、私、考えたこともなかった」

 まっ白な大皿に載せてあるのは、イチゴ、ラディッシュ、トマト、生ハムだ。手を加えない分、色にこだわってみた。

 けれどメインまでは手が回らなくて、夏ちゃんにルクルーゼでパエリヤを作ってもらった。こちらは赤黄のパプリカにエビにアサリが入ってパセリも飾られて、実に色鮮やかだ。

「おいしいねえ、このパエリヤ。夏ちゃん、ほんとお料理上手」

「そう? 褒めてくれてうれしい。レモンを絞ってもおいしいよ」

 私たちは食べて飲み、たくさんしゃべった。

 そしてすっかり満腹になり、大きなタッパーで作ったデザートのティラミスと紅茶の準備をして人をだめにするクッションに座った時、ふと、財前部長の言葉が蘇ってきた。

「『五十代は大沢が思っているより長くて色々あって、楽しいぞ。気弱になるな。攻めていけ』か」

 思わず呟く。

「なあに? どうしたの急に」

 ローテーブル越しに夏ちゃんがきく。

「二億円の指令を出した部長の言葉。私、五十歳になった時、離婚したのもあって、急に年を取ったというか、あとは枯れていくのみ、みたいな心境になったんだよね。それが五十一になってさらに強まって、ノルマの件では弱気になった」

「ああ、わかる。なんたってネオシニアだからね。私も、三十とか四十になったときとは明らかに感じ方が違ったよ。もう若くないどころかお婆さんになるんだ、人生のまとめに入らないと、って」

「でも、まだ大丈夫なのかもね」

「そう?」

「だって、今回、夏ちゃんと私の力でノルマをこなせたし」

「いやいや、悦ちゃんの力だって」

「ノルマだけじゃなくて、お互い、夫がいなくなってもこうして何とか楽しくやれてるし、更年期とは言ってもまだまだ元気だし、寝不足はホルモン補充用パッチで解消されたし」

「そういわれれば、食欲もあるし、頭もしっかりしてる――かな? それに六十五歳まで働かないとだしね。就職した時は六十歳で定年・引退、が常識だったのに」

 夏ちゃんの言う通りだ。まさか六十歳で定年した後に再雇用で六十五歳まで働くのが当たり前の世の中が来るなんて、あの頃は夢にも思わなかった。

 二十三歳から六十五歳まで働くとしたら、四十二年。五十一歳の私たちは、残りが十四年だから、なんと労働人生のまだ三分の一が残っている。

「うん、そうだね。ねえ夏ちゃん」

「ん?」

「攻めていこうよ」

 部長が「攻めていけ」といった意味が分かった気がした。もちろん、ノルマでも攻めろってことだろうけど。

「?」

 夏ちゃんはあいまいな笑顔を浮かべた。

「節約して老後には備えるけど、でもそれだけじゃなくて、たまにはお金を使って贅沢しよう。旅行とかレストランとか。あと、話題の本を読むとか、筋トレとかウォーキングとか、今できることは、できるだけやってみよう」

「いいね」

 夏ちゃんが笑う。

「大変な分、楽しみもないとね」

「うん、楽しもう。ほんとはダイエットもしなきゃだけどね――それは明日から」

「あはは」

 夏ちゃんは笑うと、大きなスプーンでティラミスをすくって取り皿に入れ、フォークでぱくりと食べた。

「おいしい」

「ね」

 私も夏ちゃんに続く。

 前日の夜に二人で仕込んだティラミスは、ほろ苦く、甘く、ラム酒が芳醇な香りを漂わせていた。


(了)

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