春の彼岸と此岸

藤泉都理

春の彼岸と此岸




 春の彼岸。

 春分の日を中心とした前後三日間(合計七日間)。

 お墓参りやお供えを通してご先祖様を供養する期間でもあり、昼夜がほぼ同じ長さになる事から、彼岸(悟りの世界・あの世)と此岸(煩悩に満ちた世界・この世)が最も近くなる期間でもある。






 この国の多くを占める桜の品種、染井吉野はまだ花の色すら見えぬほどに蕾が硬く閉じられている中を、行商人の男性、星影ほしかげは一人で歩いていた。

 早咲きの桜はもう満開を迎えているそうだと客からは聞いたが、星影はまだ見た事はなかった。

 一度たりとも、

 その桜とは縁がないのだろう。


(まあ別にこれからも見る事がなくても構わないのだが)


 蝋燭、線香、火打石、紙、折り紙、墨、筆、針、糸、傷薬、包帯、漢方薬、干し魚、干し肉。

 これらの常備商品に春の彼岸に入って追加したのは、供える花となる菊と菜の花、祖母から作り方を教わったぼたもちだった。

 水仙も今時分の咲き匂っている花であったので商品に加えて売り歩いていたのだが、毒を含んでいるので供える花には適さないと言われてしまってからは、商品に加える事はなかったが、手折っては家に持ち帰るようにはしていた。




「お帰りなさい」

「ただいま」


 星影が茅葺屋根に壁と床は竹で作った小さな実家に帰ると、土間に居た年端もいかない一人の少年、はなが地続きの玄関まで少し歩いて出迎えてくれた。

 星影は商品が入っている木箱を乗せた背負子ごと板の間に置いてのち、竹筒に入れた水仙の花を卯の花に差し出した。

 すれば卯の花は目を爛々に輝かせては、小さく飛び跳ねながら竹筒に入れた水仙を受け取った。


「ありがとうございます」

「本当に水仙が好きだな。あなたは」

「はい」


 竹筒を両の手で持ったままじっと一輪の水仙を見つめる卯の花を、星影は僅かに影を纏わせて見つめた。

 卯の花を拾ったのは、ちょうど一年前の春の彼岸の期間の事であった。

 花畑とは言えぬほどの範囲ではあったものの、密に群集している水仙の中で倒れていた卯の花を見つけた星影は抱きかかえてのち、孤児の世話や寺子屋も担っている馴染みの寺に連れて行ったのである。


 ぼたぼたぼたぼたと。

 星影は寺の住職に空腹で倒れていたらしいと聞かされては、目を覚ました卯の花に手製のぼたもちを渡すと、卯の花は満面の笑みを浮かべながらも大粒の涙を流しながら、ゆっくりと小さく食べ続けていた。

 一気にかっ込まれて喉に詰まらせても困るが、こんなにも時間をかけて食べなくてもいいだろうにきっと一個しか食べられないので少しずつしか口に含んでいないのだろうと思い、まだあると言っても、卯の花の一口の量が変わる事はなかった。


 ありがとうございます、俺を弟子にしてください。

 そう、星影が卯の花に申し込まれたのは、一個のぼたもちを三十分もかけて食べ終えてからであった。

 星影としてはこのままこの寺に卯の花の世話を任せようと思っていたので、嫌だと断ろうとしたのだが、住職が勝手に了承してしまったのだ。

 色々と世話になっている上に育ての親でもある住職に、卯の花を世話しなさいと言われたら否も言えず。

 星影は卯の花を引き取ったのであった。


『卯の花は水仙城の跡取り息子です。戦に負けて一人逃がされたと聞いていました。ああいえ。追っ手は居ないので安心してください。とも、言えませんね。卯の花はもしかしたら、敵討ちを望んでいるのかもしれません。ただの勘です。言葉通り、君のぼたもち作りの弟子になって、いつかは和菓子屋になって平穏に暮らしてくれればいいのですが。星影。よくよく気にかけるのですよ。とは言っても、過干渉もいけません。ほどほどに一人の時間も作ってあげるように』


 星影が住職に言われては、引き取りたくないと心底思った。

 面倒事に巻き込まれたくなどない。

 平穏な日常を送りたいからこそ、行商人になったのである。

 敵討ちを望んでいるかもしれないなど。


「卯の花。少し休んだら、小豆と砂糖、糯米、塩を買いに行く。想像以上に売れ行きがよくて目算を見誤った」

「はい」


(敵討ちを望んでいるなんて。住職の勘が外れていたらいいんだが)


 一年間、ひょろひょろの小さな身体を鍛える事こそすれど、誰かの命を奪う為に鍛錬を行っている姿は一度たりとも見た事はなかった。


(いやまあ。私が居ない間に人殺しの技を磨いている可能性もあるんだが。ん~~~)


 ぼたもち作りの弟子を申し込むだけあって、よほどぼたもちを気に入ったのだろう。

 朝昼晩の食事にぼたもちが出ないと知った時の卯の花の顔は見ものであった。


(ぼたもちを作りたいって気持ちは本物だ、と思う。熱心に私の話も聞くし、材料を無駄にしないように細心の注意を払って、小豆も糯米も、私が作っている時の、音、香り、色、質感、味を全身で聞いているし。まあ、私も祖母も感覚で作っているから、聞いて覚えろって教え方だし。卯の花は理屈派っぽいからなあ。色々紙に書いて、呑み込んで、納得して、覚えようとして。一年。漸く免許皆伝を渡してもいいって感じだし。そうだな。あと、三年もしたらこの家から出して自分の店を出せるようにしてもいい。その前に他の和菓子屋に修行に出してもいいかもな。他の和菓子に興味は示さないけど、長くその身を置き続ければ興味を示すかもしれないし)


 思ったが吉日。

 星影は早速卯の花に和菓子屋に修行に行ってみないかと尋ねてみれば、嫌ですと即断された。


「俺が作りたいのは、星影師匠のぼたもちだけです」

「私のぼたもちだけがすべてではない。他にも美味しい和菓子がある。今は気に入らないかもしれないが、長い時間その身を置き続ければ気に入るかもしれない。選択肢は多い方がいいと思うが」

「多くなくていいです」

「卯の花」

「選択肢なんて、多くなくていいです。俺はあなただけ居ればいいです。あなたのぼたもちだけでいいです。他にはいらない。多くを求めては。俺は。余計な事を考えてしまう」

「卯の花」

「あなた以外要りません。お願いします。ずっと俺をここに置いてください。あなたの傍に。あなたのぼたもちを食べさせ続けてください。あなたのぼたもちだけが。あなただけが。俺を。鎮めてくれる」

「それは、」


 これも或る種の刷り込みというやつではないのだろうか。

 星影は困惑した。

 卯の花は星影を唯一と決めつけている。強く。

 そんな事はない。

 卯の花を鎮めてくれる存在はきっと他にもある。

 星影しか掴んでいないから気付けない。


(けど私は、あなたの手を振り払う事ができない。私はあなたの世話を住職に頼まれた。その期待に応えたい………住職は私を大勢居る息子としてしか見ていないだろうし。私もそのつもりで居る。その他大勢居る息子でいい。この想いを生涯伝えるつもりはないが。少しでも期待に応えたい。褒められたい。そんな邪な考えであなたの世話をしている。あなたの手を振り払わないでいる。だから、そんなに熱い目で見ないでほしい。熱い手で掴み続けないでほしい。私はあなたの想いに応える事はできない。今は振り払わなくても、いつかは必ず。近い将来必ずや、この家から追い出すのだから。あなたにどれだけ恨まれようとも。それがあなたにとって、実になる事だから。このまま居ても実にならない。それどころか………いや。これは考え過ぎだ。まさか。私を)


「怖いのです。俺は。怖い。俺が怖い存在になる事が怖い。俺も、父も母も兄姉も。望んでいない。本当は、水仙の中で死のうと考えていたのです。大切な水仙の中で。父も母も兄姉も望んでいなくても、望まない俺にならない為に、俺は死のうとした。でも。あなたに出会って、あなたのぼたもちを食べて、望まない俺にならなくて済む存在を知りました。俺にはあなたが必要なんです。あなただけ。他には要らない。俺を捨てないでください。俺を拾ったのはあなたです。拾ったならば、最後まで世話をしてください」

「………あ・ま・え・る・な」


 くりくりくりくり。

 星影は卯の花の額を人差し指と中指で左右に振り続けながら押しつけた。


(これぐらいは、いい。はず。うん。手は振り払わないし。うん)


「最後まで面倒は見ない。自分でもう面倒が見られると分かったら、即追い出す。あとは知らない。事はないが。困り事があったら力になるが。それ以外は知らん。分かったな」

「………分かりました」


 おやおやと、星影はやおら片眉を上げた。

 嫌ですとすすり泣くかと思ったが、拍子抜けするほどに素直に受け入れている。


(初めて心の中を伝えてくれたのに厳しい事を言ったって私が反省するばかりだけど。何だろう? なんか。怖い。少し怒ってる、か? 無表情でよく分からんが)


「追い出してもいいです」

「………本当か?」

「ええ。迎えに来ますから」

「………迎えに? どこに?」

「一人前になったら、俺の伴侶にあなたを、星影師匠を迎えに来ますから」

「うん? 伴侶? うん?」

「えへへ。楽しみだなあ。早く追い出されないかなあ。そうしたら、俺は師匠に一人前だって認められたって事でしょ? 一人前って事は、星影師匠を伴侶に迎えられるって事でしょ? 俺、今まで以上にがんばります。星影師匠を伴侶に迎える為なら、他の店に修行に赴くのも吝かではありません」

「へ? あ。そう? 修行に行ってくれる?」

「はい」

「ああ。そっか」


(そう。か。うん。まあ。伴侶云々は他の店に修行に行けば。ね。ほら。世界が広がって。私の事もいい人だった。ぐらいの認識にね。ぼたもち作りの師匠ってぐらいの認識にね。なるはずだよね。うん。望まない卯の花になる為の存在を見つける事ができるよね)


「うん。それなら、ぼちぼち、修行に行く店を探そうかなあ」

「はい。お願いします。あ。買い物に行くのでしょう。早く行きましょう」

「え? あ。うん」


 若干混乱しつつも卯の花に手をひかれるままに、星影は家から出て買い物へと出かけたのであった。


「星影師匠。恐怖に打ち勝ちます。必ず。恐怖に打ち勝って、縋るだけじゃなくて、あなたに心から好きだって言えるようになります。あなたに頼られる存在になります」

「………」


(楽しみにしているって大人風を吹かせばいいのか? いや。それだと何か本当にその時を楽しみにしているみたいじゃないか? 楽しみにしてないよな? うん。いやだって住職に想いを伝えるつもりはないとはいえ、生涯この想いを抱えて生きていくつもりだったし。他の誰かに。なあ。恋をするなんて。それもこんな一回りも若い少年に。ない。ないよ。うん。ないない。ないから。いいんじゃないか。うん)


「タノシミニシテルヨ」

「はい」


(いいよね。発破かけるぐらいいいよね。このやる気を挫く事こそが問題だよね。うん。よそへ向けようとしているこのやる気をね嘘で消さないようにしてもいいよね)

(今はいいですよ。全然。まったく。俺を見てくれなくても。成長して、絶対に視界に入れ続けますから。もう。子ども扱いされないように。あなたに頼られたい。甘えるなとあなたに言われた瞬間。胸と頭が焼け焦げて。強くそう思った。だから、)


 早くはやくハヤク、

 成長してほしい。

 成長したい。












 十年後。


「ええ~~~っと」

「俺。言いましたよね? 迎えに来ますって。迎えに来ました。俺。店を持ったんです。五年になります。商売繁盛です。好きです。愛しています。日に日にこの熱は強くなるばかりです。俺の伴侶になってください。一生一緒に居てください」

「いやそんな矢継ぎ早に言われても。私、あなたのぼたもち作りの師匠なだけだし。ねえ?」

「もちろん、ぼたもち作りの師匠ですが。それだけではありません。分かっているでしょう? 誤魔化さないでください。駄目なら振ってください。また日を改めて申し込みに来ます。何度も何度も何度だって。諦めません。俺にはあなただけですから。言いましたよね? ね?」

「うっ。あなたそんなに押が強。かったですね。ええ。そうですね」

「はい」

「………じゃ。じゃあ。とりあえず。ぼたもちを食べさせてもらう」

「………え? 振らないんですか?」

「食べてから考える。一時間くらいかけて食べて。考える」

「はい」


 星影は入れないように玄関で通せんぼしていた身体を横にずらしては卯の花を家の中に招き入れ、嬉々として火を入れようとする姿を見続けながら、やおら片手で両の目を覆ったのであった。


(成長しすぎだ)




 奇しくも今日も春の彼岸。

 春分の日を中心とした前後三日間(合計七日間)。

 お墓参りやお供えを通してご先祖様を供養する期間でもあり、昼夜がほぼ同じ長さになる事から、彼岸(悟りの世界・あの世)と此岸(煩悩に満ちた世界・この世)が最も近くなる期間でもあった。











(2025.3.21)



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春の彼岸と此岸 藤泉都理 @fujitori

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