契約

神殿の表層を支える壮麗な列柱の間を抜け、二人は下へと続く螺旋階段に足を踏み入れていた。

「あの子の好奇心は、時折、危険なほどでした」 階段を下っていくディウフレーシュ卿の背中に、ズロシナが静かに語りかける。

「もっと目を配ってやるべきだった。灰の子だからといって……」

「自分を責めてもしょうがないでしょう」 ディウフレーシュ卿は短く応じた。「けして自力では到達するはずがないのです。…この院の長い歴史の中でも」

カツ、カツ、と硬質なブーツの音だけが続く。

「あそこは近づきたくもありません」ズロシナは続けた。「ナギの教義の中心に、あのようなものがあるなど。たまに汚らわしく思えるのです」

「それが当然の反応でしょう」 ディウフレーシュ卿は、足を止めることなく答えた。 「あれは真理という名の猛毒です」

「猛毒?」

「ええ。我々がプリズムとなってその光を受け止めてやる必要があるのです」

巨大な地下の回廊にたどり着いていた。それはこの神殿のどこにでもあるような、何の変哲もないように思えたが、ズロシナは奇妙な悪寒を感じていた。早く通り過ぎてしまいたい、それかできるなら戻りたい。そういう思いで頭がいっぱいだった。

ディウフレーシュ卿の歩みは少しも速度を緩めない。ズロシナは、その涼しい横顔がだんだん憎らしく思えてきた。まるで、この世の全ての法則が彼女の足元に跪いているかのように、ただ迷いなく、正確に歩を進めていく。

その時だった。

前を歩くディウフレーシュ卿の輪郭が、奇妙に揺らめいたように見えた。ズロシナは目が眩んだのかと瞬きをしたが、その現象はより顕著になる。

石壁の模様が、ぐにゃりと歪む。遠くに見える次の柱が、まるで水面に映った影のように波打っている。そうだ、これは…まるで巨大で、目には見えないレンズが、ズロシナとディウフレーシュ卿の間に突如として生まれたかのようだった。そしてそのレンズは、周囲の空間全てを捻じ曲げ、吸い寄せているのだ。

彼女の姿がレンズの中心へと滑り込むように引き寄せられた。風などどこにも吹いていないのに、外套の裾が激しく前方へとなびき、彼女の身体に巻き付く。その黒に近い灰色の礼装が、一瞬、ありえないほど細く引き伸ばされ――

スッ…と、音もなく。

ディウフレーシュ卿の姿は、ただ、消えた。

**

ディウフレーシュ卿は、床から地図を拾い上げた。この地下回廊のあたりだけが抜粋してあって、メモが残っていた。

「目を閉じること!」

彼女は「虚ろの間」に立っていた。

それがなんであるか正確に知る人間はいなかったが、巨大な聖堂のようなものであることは確かだった。壁、床、天井の区別はなく、すべてが滑らかな乳白色の素材――磨き上げられたアラバスターのようでもあり、巨大な生物の骨格を、そのままくり抜いて作ったかのようであった。

ディウフレーシュ卿は、ただ一点、空間の最奥に聳えるものを見据えていた。

祭壇だった。 壁から直接せり出すようにして形成されたそれは、苦悶に歪む人の顔にも、未知の昆虫の頭蓋にも見える、おぞましい彫像となっていた。

そして、その祭壇の中心には、黒い球体が埋め込まれていた。

光を一切反射しない、完全な無を球体に固めたかのような黒。ディウフレーシュ卿は、その黒い球体に向かってゆっくりと歩を進めた。彼女の誇り、覚悟、そのすべてが、この絶対的な存在の前ではあまりにちっぽけに感じられた。だが、彼女は足を止めない。祭壇の前で立ち止まると、その唇を開いた。

「――我が名はディウフレーシュ。天導人に仕えし太陽柱が一人」

声は、この異常な静寂の中で、驚くほど明瞭に響いた。彼女は背筋を伸ばし、自らの誇りのすべてを盾にするかのように、宣言を続ける。

「混沌よ、あの子を返すときだ」

長い、長い沈黙が落ちる。時間の感覚さえ失われるほどの静寂の後、不意に、声がした。それは耳から聞こえる音ではなかった。頭蓋の内側に直接、冷たい金属を押し当てられたかのような、絶対的な思考の奔流だった。

『対価は?……贖罪、か』

その声は、性別も、年齢も、いかなる感情さえも超越していた。

『おまえたちにとっては、甘美であっても………なんの役にもたたぬ』

ディウフレーシュ卿は息を呑んだ。すべて見透かされていた。

『貴様の矮小な魂一つ、罪の一つ。それと釣り合うとでも思ったか? 貴様の生涯と罪など――無価値だ』

ディウフレーシュ卿の膝が、がくりと折れた。床についた手だけが、かろうじてその身体を支えている。だが、機関の声は続いた。まるで、弄ぶかのように。

『だが、その慈愛とやら。おもしろい。』

機関の思考が、初めて興味の合いを帯びた。それは、救いの手ではなく、悪魔の囁きだった。

『取引だ。お前の魂など、もはやどうでもいい。お前が、その執着のすべてを注ぎ、その娘を――器として完成させると誓うのなら、力を貸してやらぬこともない』

「……器、だと…?」

ディウフレーシュ卿は、絞り出すような声で問い返した。その言葉の意味を理解し、全身の血が凍りつくのを感じた。

『そうだ。最も優れた手駒。私の代理人。私の、一部だ』

ディウフレーシュ卿の心は、恐怖と絶望の間で引き裂かれた。 しかし、目の前には、命の光が消えかかった娘がいる。道は、ない。

彼女は、震える身体を叱咤し、ゆっくりと立ち上がった。その瞳から、先程までの誇りは消え、代わりに、あらゆるものを諦め、そして、あらゆる罪を背負う覚悟を決めた、静かで暗い光が宿っていた。

「……いいだろう」

その声は、乾ききっていた。

彼女は、虚光機関を、そして眠り続ける娘の顔を、まっすぐに見据えた。

「私は悪魔にでもなろう。…いや、ならせてみせよう。天をも喰らうほどの、な」


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深謀 + the Ash-Born Daughter + 科戸瀬マユミ @yukigakure223

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