務め

穏季が訪れても、ヤ=ムゥの空を覆う分厚い雲が晴れることはない。街と神殿を隔てる崖下からは、今日も海が吐き出した濃い霧が這い上がり、世界を乳白色に染めていた。変わらない灰色の風景の中で、変わっていくものもあった。

最初の嵐季を越えた少女たちの、あどけなく頼りなかった背筋は、日々の祈りと共に、この寒々しい空気の中ですこしずつ、しかし確かに伸びてきていた。

朝の務めを終え、眠たげな午後の鐘の音が霧に吸い込まれた頃。少女たちが「星詠み」の基礎を学ぶ部屋へと移動すると、そこにはインクと古い紙の匂いが満ちていた。壁にはエシールの帳を図した巨大なタペストリーが飾られ、机の上には、これから学ぶべき詩が記された写本が開かれている。

ミズハは、導母の語る「二つの月の詩」に耳を傾けていた。揺れ動く青と赤の月。ミズハはその声に耳を澄ませながら、紫の雲の上を舞う二つの月に思いを馳せた。もの静かな蒼い月と、気まぐれな朱い月。二人は恋人のように追いかけっこをして、時々触れあい、また遠く離れる。ヤ=ムゥの海が荒立つのも気にせずに。

「ねえ」

ソナが、小さな声で囁きかける。彼女は心底退屈そうな顔をしていた。

「まだ終わらないのかしら。お腹すいちゃった」

この、たった一人の友達。ミズハが「灰から生まれた子」だと揶揄されて、誰もが遠巻きにしていた時も、彼女だけは全く気にせずに隣に座ってくれた。ミズハはソナとばかり過ごすようになった。

だからこそ、心配だった。ソナはけっして覚えが良くなかった。

講義を続けていた導母の声が、ふつりと途切れた。

「ソナ」

静かだが、誰もが聞き逃すことのない声。ソナは、まるで夢から覚めたようにびくりと肩を震わせたが、すぐにその表情から怯えを消し顔を背けた。

「あなたに問います。これからいただく食事を前に、我らはいかなる感謝を捧げるのでしょうか。光典第一章に従い、諳んじなさい」

全員の視線がソナに突き刺さる。だが彼女はうつむきながらも唇をきつく結び、悪びれるどころか、抵抗の意志さえ感じられた。

「…答えられませんか」 導母は、長い溜息を一つ吐いた。 「あなたの心は霧の中を、目的もなく彷徨っている。……そのような精神が、どうして他者の道を照らす光となれましょうか」

導母は、今度は星の紋様の少女に視線を向けた。 「ではこの迷える友に教えてあげなさい」

「はい、導母さま」 星の紋様の少女は、待っていましたとばかりに優雅に一礼した。 「食事の前には、『大地の熱と天の光がもたらせし恵みに感謝を』と唱え、雨が全ての生命を育むことを想います」

「よろしい」 導母は満足げに頷くと、再びソナに視線を戻した。 「ここは漫然と日々を過ごすための場所ではありません」

導母は決して声を荒げたりはしなかった。しかしその言葉は、体の髄まで染み込む冷気のようだった。ミズハは隣にいるだけでも、その寒気を感じた。

「このままでは、お家に帰っていただきます」

午前の終わりを告げる鐘が鳴り響いた。

大聖堂での午後の祈りが終わった。少女たちは、一斉に、教え込まれた作法にのっとって、静かに立ち上がった。

宿舎までの道のりで、ミズハの耳にはまたあの言葉が届いた。

「早くいなくなればいいのに」――淑女のヴェールなど被っていないその言葉は、いたるところから忍び寄った。廊下の角の先や、柱の影。足音に紛れて、ミズハの耳元に。

それなのに、ソナといったら全く悪びれる様子もない。 ミズハはとうとう堪えきれなくなり、食事の後にソナの手を引いて、人気のない倉庫へと連れ込んだ。ひんやりとした石の床と、積まれた麻袋のかび臭い匂い。

二人は向かい合うようにして、固く積まれた荷箱に腰を下ろした。

「もう嫌、どうせ私たち、最後はおつとめに行くだけなのに」

「おつとめ?」 その言葉は、ミズハにとってあまりに新鮮な響きを持っていた。

「ミズハは知らないの?お母様がいつも言ってたわ。いいおうちの子は、相応の立派な相手と結ばれるの。こんな退屈な勉強も、お作法も、少しでも良いお家に嫁げるようにするためのものよ」

ミズハは頭の中で繰り返した。結婚して、赤ちゃんを産む。それはミズハには考えたこともないことだった。

「でも、私はそんなの絶対に嫌」

ソナは決意を込めた目で、まっすぐミズハを見つめた。

「私の夢は、自由都市にいくこと。ここみたいに霧にまみれてなくて、自分の好きに生きていける場所」

その瞳は真剣で、冗談で言っているのではないとミズハにも分かった。自由都市。この神殿の外の、さらにウェノ・マトルの城郭の外、そして荒海を超えた先にある街。

「私には、おつとめなんてきっと関係ないわ」 ミズハは、静かに言った。 「だって、私はここの子だもの。ずっとここに住んで、星や雲や、風の囁きについて学んでいくの」


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