第6話 - 1 晩夏

日が沈んでから少し後。外を歩いていると目に見える景色すべてが薄っすらと青みがかったフィルターを通したように見えた。海岸沿いの道路は4車線あり、絶えず車が走っている。車の走行音に負けないように声を出さないと、隣に立っていても声がよく聞こえない。

「ねえ、今なんて?」

椿の隣で麗が訊き返した。椿は口に入れていたアイスを飲み込んで、1秒前に言ったことを大きめの声で言い直した。

「さっきコンビニで何買ったのって聞いたの」

「ああなんだ、そのこと? まだわかんない?」

麗はLサイズのビニール袋を提げていたが、中身は聞いていなかった。椿はだいたい想像はついているけれど、麗がこそこそと隠したがっていたので突きたくなっていた。

今日の椿の持ち物はバイト先に持っていく鞄とプラスチック製の小さなバケツの二つだった。麗に「椿、家にバケツある? シフトの後に使うから持ってきて」と言われて、言われた通りにビニール袋に入れて持ってきていた。

「言わなくても椿なら分かるでしょ」

「なんでそんなに言いたくないの」

「こんな時間にバケツ持ってきたらそーいうことじゃん」

「砂遊びかな? お城でも作りたくなったの? だから砂浜ってわけね」

「椿は私のこと子ども扱いしすぎ」

麗は食べ終わったアイスの棒を指で摘まんでくるりと回した。なんだか恥ずかしくて言えなかったのだ。でももう潮時だと思う。

「花火だよ」

ようやく言った声は小さかったけれど、椿の耳にはしっかりと届いていた。

「うん、知ってる」

ふふ、と椿が口を閉じたまま笑った。

「椿の笑いのツボ、たまにわかんないんだよなぁ」

突っ込んだ風に言いながら、椿がなにも断らずに来てくれたことに改めて安堵していた。

花火をしよう、と誘うのが微妙に恥ずかしかったのだ。二人だけで、というシチュエーションもそうだし、人を花火に誘ったこともなかったから。コンビニに行こう、とか、お祭りに行こう、と誘うよりも、二人で花火をしようと誘うのは何故かハードルが高かった。私が椿のことを好いているから、なおさら。

二人で歩いていた歩道の右側は道路、左側は一面に砂浜と海だった。うす暗い海の向こうには白い満月が見えた。


麗が買ったのはファミリー向けの花火パックで、カラフルなビニールパッケージの中には30本は優に超える花火が入っていた。それを見て椿は「買いすぎ」と笑ったけれど、馬鹿にはしなかった。椿はひとしきり笑ってから「いっぱい花火できるね」と言った。

「余ったら来年も花火したらいいんじゃない」とは言えなかった。頭に浮かんでも喉から出てこなかった。私は今年の夏の間の椿のことしか知らない。この夏が終わったら、椿とはもう会えなくなってしまう気がした。自分らしくもない弱気だとは思う。私は椿のことで未だに知らないことの方が多い。

「これ凄くない⁉ めっちゃ火花出る! 燃えそう!!」

はしゃぎながら椿を見たら、椿も私と同じように花火を両手に2本持っていた。

「振り回したらほんとに燃える!」と言いながら、椿も次々に花火を燃やした。

白煙に花火の色がまだらに映って赤や緑に色を変えた。同じような形の花火でも、ライターで火をつけたら火の出方がどれも違うから面白い。二人しかいない海岸はいくらはしゃいでも良くて、二人で夢中になって花火を燃やしてはバケツの水に捨てた。そうしているうちに、気づけば夜になっていた。


30本あった花火のほとんどを使い切って、最後には線香花火が残った。

消波ブロックに腰掛ける。コンクリートなのでお尻は硬いが、座ると脚が楽に感じるのはずっと立ちっぱなしで花火に興じていたからだろう。

洛陽して辺りが暗くなってからは波の音が大きく感じた。潮騒に耳を澄ませるでもなく、情緒を無視してビニールをぺりぺりと剥いで、中の花火を取り出していく。初めて実物を見たけど、線香花火って本当に紙でできているんだな。紙をこより細長くしただけに見える形状は頼りなく見えた。

私が開封しているのを見守りながら、椿は「線香花火って夏の終わりって感じがする」と呟いた。

「今日、8月31日じゃん。ぴったりすぎ」

絡まりかけていた線香花火の持ち手を解いて、一本ずつ持った。椿が手元のライターで火をつけてくれた。紙の先端がちりちりと燃えたかと思うと、橙色の火が丸まり、小さな火花を上げ始めた。これが線香花火……と、じっと見つめる。ときおり細い花びらが開花するように火花が散った。数秒したら調子がつかめてきた。

「明日から学校ダルいなぁ。椿も登校は明日からでしょ?」

そういえば、さっきから椿は黙っていた。ちらりと横目で見ると、椿は線香花火の先を見ていた。墨を溶かしたように黒い椿の瞳に火花の光が映っている。

「……言ってなかったんだけどね、私、高1の冬から学校を休んでて……行ってないんだ」

大きな秘密を打ち明けるように、椿の声は平静を装いながらも緊張を隠せていなかった。

「そう、なの?」

「色々、あって……」

線香花火がぱちぱちと燃え尽きて、二人ほぼ同時に炎が地面に落ちた。光源を失ったけれど、夏の低い満月が砂浜に反射して、少し先までは目視できるほどの明度に変わる。

「麗は私の学校のことを知らないから、話しやすかったんだ。ごめんね、話せなくて、騙してて」

「謝らないでよ。いいよ、そんなの……嘘でも何でもない」

椿は首を横に振った。違う、と全身が訴えているように見えた。暗くて涙までは見えないけれど、泣いていそうだった。燃え尽きた線香花火を持った右手が小刻みに震えている。

私は震えを殺すように椿の両腕を掴んで抱きしめた。ひゅ、と喉が鳴る音がした。ああほらやっぱり泣いている。人の体って中が空洞なんじゃないかと思うくらい、椿の内側で引きつった呼吸が響いていた。泣いている人の慰め方なんて知らないけれど、体が勝手に動いて、椿の背中まで腕を回して背中を撫でていた。ぎこちなく撫でる手に、椿がさらに泣いている気がした。さっきまでのとは違う泣き方だった。

「学校に行けなくても、思うようにできないことがあっても、傘屋で働いてる椿は格好良かったよ」

「……軽蔑しないの?」

椿は私の首筋から額を離して、そんなことを聞いた。

「しないよ。できるわけがない」


落ち着いてから椿は持っていたタオルで顔を拭いて、残りの線香花火にも炎を灯した。二人の間で火花が散る中、椿はぽつりぽつりと自分の話をした。女の先輩に告白されて、断ったら嫌がらせを受けたこと。それから弓道で思うように結果を出せなくなり、学校に行こうとすると身体に不調が出て学校に行けなくなったこと。そして、休んでいる間に最愛の祖母が病気で亡くなったこと。

すべて知らなかったことだった。知りたいと思っていたけれど、こんな方向の話だとは思っていなかったから驚きもあった。けれど懸命に言葉を探しながら離す椿を見ていたら、衝撃はすぐに過ぎ去っていた。椿は去年の今頃から麗に出会うまで、ずっとこんなに辛いことに立て続けに遭ってきたということが苦しくて、自分の事よりも悔しく思えた。

ぱちり、ぱちりと星屑が瞬くように燃える火花を見つめながら、思わずにはいられない。

どうして椿がそんな目に遭わないといけなかった?

椿は話しながら、笑おうとしていた。そんな悲しい話をしながら無理に笑わなくていいのに。違うか、辛いから笑わないと話せないんだ。

優しくて真面目な椿のような人が虐げられていいわけがなかった。

椿にそんなことを強いる世界が憎い。

いっそ私が。

胃の底が燃えるように熱かった。感じたことのない熱さだ。火花の塊を丸呑みしたように、煮えたぎるような熱さが身体の内側でじわじわと広がり、額からよくわからない汗が流れていた。


花火を片づけた後、帰り道で椿はすこし晴れやかな顔をしていた。目尻や鼻の頭は赤く、泣いた痕が残っている。砂浜から階段を上って歩道に出る手前で、改まったように椿は麗の方を振り返った。

「こんな話、人にちゃんと話したことなかったから話せてすっきりしたかも。聞いてくれてありがとう」

うん、と曖昧な返事をしながら、麗の目は座っていた。

海岸沿いの歩道を歩きながら、椿は考え事をしている様子だった。街路灯の灯りの下で、麗は立ち止まった。

「麗?」

「椿は、その人たちがいたら学校に行っても今みたいに笑えない?」

「どういうこと……?」

「椿は優しすぎるんだよ。お人好しで、真面目で。だから……」

麗の眼差しは暗かった。街路灯の赤い照明を受けて、肌も髪も血を被ったように染まっている。

「やっぱり、そいつら殺す?」

温度のない声が椿の胸を凍らせた。殺すと言いながら、麗は目を細めて微笑んでいた。

「そいつらって」

「椿に嫌がらせした奴ら全員」

「何、言ってんの」

「私にならできる」

満ちた潮が消波ブロックに打ちつけて砕ける音がした。麗の暗い瞳は夜の海よりも暗く、底が見えない。椿は戸惑いを隠せなかった。

「麗…………?」

「椿は何もしなくていいよ」

麗の頭の中は驚くほど静かだった。椿の話を聞いてから考えていた。何事も適材適所だと思う。椿は優しいから、きっと自分ではひどいことはできない。そんなところも好きだと思う。でも私は違う。きっと、椿よりは何も思わない。少なくとも相手のことを可哀想だと同情するなんてことはあり得ない。得意な方が得意なことをすればいい。

「復讐とか、いらない」

椿は首を振り、怯えている様子だった。そんなに怖がらないでほしい。

怯えさせたくないから言わないだけで、もっと醜悪なことも頭の中にはよぎっていた。もし私がそいつらを殺したら、椿の恋人になれなくても共犯者にはなれるだろう。そうしたらいつか椿に彼女ができても、私よりも大事な友達ができたとしても、私は椿の特別でいつづけられる。悪魔めいた閃きが蠢いていたが、そんなことをしたら椿は喜ばないのだろう。

「絶対やめてね」と、椿は念を押した。

「わたしみたいに学校に行けなくなる人が減ったらいいなとは思うけど……本当に先輩たちを同じ目に遭わせたいと思ったことはないから」

そいつらのせいで大事な椿が傷を負っているというのに?と思う。でも椿の言葉を信じているから、頷いてあげることにした。

「殺したくなったらいつでも言ってね? 私は椿のためなら全てを賭けられる。世界を焼き尽くすこともきっとできるよ」

「さっきから怖いよ。なんか冗談に聞こえないって言うか……」

「怖い私は嫌い?」

「嫌い……なわけないの、分かってて聞いてるでしょ」

「うん。どんな麗でも好きって言ってくれるかな〜って」

「自信過剰……」

また二人で歩き始めたら、いつも通りの取り留めのない話に戻っていった。椿はさっきよりも肩の力が抜けた様子で、よっぽど緊張していたのだと思った。

椿が嫌がるから復讐はしないことにした。これは決定だ。でも、何も行動を起こさないのは違う。椿の特別になりたいけど、それ以前に私たちは友達だった。

友達のために何ができるだろう。

友達の想いを無駄にしないために、自分には何ができる?

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