第2話「くそったれバラード」

 次の日、俺は学校で篠山皐の席に向かった。皐は俺を見るなりびっくりして、「ひょ」と変な声を上げていた。


「昨日、俺の試合見に来てたろ」

「え」


 皐はあわあわと口をまごつかせながら、「そうです」と答える。何をしに来たんだ、とは聞かない。俺はそれだけを確認すると、「また見に来いよ」と言って自分の席に戻った。成長痛だろうか、膝がよく痛むのを感じる。

 その日、俺は皐を横目で観察することにした。気紛れというか、単純に興味を持っただけだ。観察するだけじゃ何となく収まらなくなって、俺は部活前のロッカーで同じ中学に通っていたという桃田に、皐の事を訊いてみた。


「篠山だろ?評判、すげえ悪いぜ」

「マジ?」

「ああ。篠山が入ってた樫中の女テニ女子テニス部で財布の盗難事件があってさ。最初は男子テニスのいたずらって言われてたんだけど、念のため女テニのロッカー漁ったら、篠山のとこから出てきたんだってよ。

 その時から泥棒篠山、なんて呼ばれてる」

「…………証拠が乏しくないか?ロッカーに誰かが仕込んだとか」


 俺の問いに対して、毒虫を噛んだみたいな渋い顔で、桃田は続ける。


「俺も、最初はそう思ったんだけどよ。その後から、色んな奴からモノを借りパクしてたことがわかってさ。最初はアイツを擁護する意見もあったんだけど、もう誰も信じなくなったんだよな」

「…………」


 あの皐が窃盗なんてするかよ、と俺は思った。でも、俺が知っている皐は小学校の時の「秋津皐」であって、今の「篠山皐」のことは、何も知らない。

 いっそ、別人であってくれよ。俺のヒーローだった皐は、どこに行ったんだよ。



 雨に降り込められた水曜日の事だった。梅雨の季節に入る頃だっていうのに、傘を忘れた俺は、部活終わりに雨が止むのを下駄箱で待っていた。

 ついていない日だ、と思った。1年生は部活後に倉庫掃除の当番がある。今日は俺が掃除当番の日で、せっせと掃除して終わってみればもう時刻は午後6時。そして桃田たちはもう帰ってしまって、傘に入れてもらうことも出来やしない。

 ずぶ濡れになって帰ろうか、と覚悟を決めようとした時だ。


「あ、あの」


 知っている声だった。知り過ぎている声であった。知らないというには無理のある声だった。


「皐」


 俺が振り返ると、そこには初めて人を見た、臆病な子猫のようにビクっと体を震わせた皐がいた。

 違うだろ、と口が滑りそうになる。お前は子猫じゃなくて、豹みたいに獰猛な奴だっただろ。


「昔のお前なら、あの、なんて言わねぇよ。もっとこう、飛びついて来るだろ」

「え?」

「なんでもない」


 心に仕舞ったはずの言葉が、不意に漏れていたみたいだ。よく聞き取れていないようで、助かった次第だった。


「で?何しに来たんだよ。てか、何で学校残ってんの?部活、入ってたっけ」

「えっと、ヤマダ、さ。傘持ってないんでしょ。良かったら、一緒に帰ろうよ」


 俺の質問には半分答えて、もう半分には答えなかった。

 でも、俺は少し嬉しい気持ちになった。傘に入れてくれることが、じゃない。昔の皐も、きっとそうしただろうからだ。皐は変わってしまったが、まだあの頃の皐は生きている。そんな気がした。

 雨はまだ止みそうになかった。


「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ」



 小学校が同じということもあって、俺と皐の家はそう離れてはいない。俺は最寄り駅前のマンションに、皐は駅前通りを真っ直ぐ200メートルくらいを直進して右側にある団地に住んでいる。普段はチャリ通学だが、この際、チャリは置いていくことにした。

 俺は肩をすぼめるように、皐の小さな傘に入る。高校近くの駅まで3キロメートル近く、こうして狭々しい傘で歩調を合わせながら帰らないといけない。

 ハッキリ言って、多分走った方がマシな気もした。


「どうかな」

「何が」


 校門を出て実に300メートルもの間、俺と皐は無言だった。肌が触れ合うような距離なのに、言葉を交わす気になれない。

 話題を探していた。3年の時間を経て、俺と皐には共通項と言えるモノが何一つなかった。俺は皐に聞きたいことが山ほどあるのに、皐の方は特に知りたいこともないようで、質問する気配すらない。


「ヤマダ、あのさ」


 チッ、と舌打ちしそうになる。どもるなよ。


「こ、今度久しぶりにゲームしない?まだ、で、DSとか持ってるよね」

「ん…………」


 どこに仕舞ったかな、と押入れの前に記憶をまさぐる。中学に入ってから、ゲームはめっきりやらなくなった。あれだけ好きだったモンハンも、もう操作方法すら思い出せない。モンスターの名前だってろくに覚えていない。適当に「おう、また今度な」とだけ返す。

 そう、覚えちゃいない。俺が覚えてるのは、一緒にゲームをして楽しんで笑っていた、皐の横顔だけだ。ヘタクソと言われても、そっちの方に価値を見出していた。

 でも、今の皐の横顔は見えない。俺の背が高くなったとか、皐の髪が伸びて髪型が変わったとか、そういう物理的なモノも当然ある。でも一番の理由は。


「えっ、何」

「いや」


 横顔を見ようとしても、常に皐がこっちを見てくる。まるで俺の視線を気にして、怯えているような、いや、怯えているとしか思えない反応を見せている。

 何を言おうか。何を話そうか。悩んでいると、季節には少し早めのキリギリスが鳴いて、軋んだビードロみたいな音が雨音に混じる。日も暮れてきて、空はまるでカラスが埋め尽くすように暗い暗雲が立ち込めている。

 傘からはみ出た肩が濡れたのもあって、12月の朝みたいに寒い思いをしながら、ふと、桃田から聞いた話を頭で反芻する。

 多分、今の雰囲気で聞くには最悪の話題に違いないが、今はそれしか思い浮かばない。この「違いないが」というのも、どこまで行っても「違いないが」でしかない。口にしない以上、ここに仮定形は付いて回る。これを確定させる勇気を、俺は持っていない。

 結局俺は何も言い出せないまま、駅が目に見えるところまで無言であった。


「ねえ、ヤマダ」


 駅から二番目に近いコンビニを過ぎた辺りで、皐が久しぶりに口を開いた。


「桃田から聞いたんでしょ、私が泥棒だって」


 時間が止まった。俺は思わず歩く足を止めて、俺の背中に皐が持った傘が引っ掛かって落ちる。

 皐の足元で腹の破れた芋虫が、身を捩らせていた。皐の言葉を聞きたくなくて、そっちに意識を向ける。液体みたいな内臓がどろりと飛び出て、雨水と混ざっていく。何もなければ蝶か蛾になっていたであろう芋虫が、無残に息絶えていく様を、ただ黙って俺は見ていた。


「あっ」


 踏んじゃった、と皐は気付いてスニーカーの裏を見る。芋虫の体液だろうか、シミが出来ている。

 わざと踏んだのか、それとも俺がいきなり立ち止まったから、足を滑らせたのだろうか。

 多分、後者だ。俺の知る皐は、生き物を殺そうとするはずがない。。でも今の皐は、俺の知らない皐だ。

 

『なあ山田ァ、篠山知らねぇ?アイツ、俺の消しゴム返してくんねぇんだけど』


 桃田がいつか、そんなことを言っていた。いつかと言っても、そう遠い日の話ではない。

 俺が知らないうちに、皐は泥棒と呼ばれるようになった。卑屈な性格になってしまっていた。俺と目を合わせようともしない、その癖俺の視線ばかり気にする、よくわからない女になった。


「ずぶ濡れだね、私たち」

「────」


 あはは、と少し遠慮がちに笑った皐は、濡れて海藻みたいになった髪を後ろに掻き流して、傘を拾おうと俺の後ろに回る。

 雑巾みたいに濡れた制服が、うっすらとその下の白い肌を透かして見せている。傘を取ろうと屈んだ皐のブラウスも、百年物の大理石みたいな透明度だった。


(あれ)


 皐って、こんなに胸でかかったっけ。尻も、こんなに大きかったっけ。

 皐はもっと細身で、男勝りな感じで、いや、もう殆ど男と見分けがつかない見た目だったはずだ。、そうだった。こんな風に、女だと意識できる容姿じゃなかった。

 そうだ。彼女は、ただの”女”だったのだ。何故、今まで気が付かなかったんだろう。

 気付きを得た瞬間、俺の中にいた秋津皐が、音を立てて崩れていった。元々崩れていたものが、今度は砂にまで砕けた。

 

「え?」


 皐が声を上げる。知らず知らずのうちに、俺は皐が傘を拾おうとする手を掴んでいた。細い手首だった。俺の親指と薬指が、皐の手首の向こうでくっつくくらい、細かった。


「ちょ、ヤマダ?痛いんだけど…………」


 ぐいぐいと俺の手を払おうとしても、皐のか細い腕では、男の俺の力に敵うはずもない。やがて皐は、俺の顔を見上げた。3年ぶりに目が合った皐は、猛犬を前にしたように硬直したつらをしていた。

 それが、どうしてだか許せなかった。そんな弱い顔をするなよ、お前はもっと強気な奴だろ、とか言葉を吐いてしまっていた。


「な、え、あ、どういうこと!?私、ヤマダになんか酷いことしちゃったかな!?ねぇ、もしそうなら謝るから、この手、離して、離してよ」


 ぞくっと、体の芯から電流が走ったような気がした。

 何かが頭の中ではち切れたような音がした。

 こいつが身に着けた”女”を引っぺがしてやれば、また昔みたいな皐に戻ってくれるんじゃないか────あるいは、を超えることが出来るんじゃないか。


 そんな馬鹿な考えが冷然と浮かんだ時点で、俺はもう人を辞めてしまったのかもしれない。



「~~ッひ…………ゥ、ひッ…………」


 路地裏に残響せる啜るような嗚咽の中で、俺は下半身の熱を欠伸の様な息の塊と共に吐き出した。

 4割の好奇心が6割の自制心を喰い殺し、目的と手段を履き違えた暴力的欲求が彼女の身を貫いて、きっと彼女が負ったであろう内心の傷を顕すように鮮血が滴る。

 その血が足元の水溜まりに混ざっていくのを見た時、俺はつい数分か、あるいは数時間か前に皐が踏んでしまった芋虫を思い出す。


(あ…………)


 俺の目の前にいる皐は、あの芋虫さながらだった。牛丼屋の室外機の天板でへそを見せてひっくり返って、ボタンの取れたブラウスから割れるような胸を晒しては、下着の破れた大股を開いていた。まるで、死んだカエルみたいでみっともなかった。

 でも、本当にみっともないのは俺の方だった。その、死んだカエルのようになった女をたった今犯しているのだから、この上なく醜悪な獣に違いなかった。

 腕の下から、真っ赤になった諦めにも似た皐の眼を浴びて、振れていた狂気が限りなく正気に近く戻る。


「え、あ、いや、違うんだ」


 何も違わないだろ、と自分を詰りながら、俺は自分の罪を直視した。皐の中で熱を失った剛直が、袋から出したこんにゃくみたいにぬるりと漏れ出る。

 俺は、皐を征服したのだ。だが、征服したという実感の中に。


「ごめん」


 7分の後悔と3分の罪悪感が、コンクリートの塊のように混ざり合っていた。

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