第2話「くそったれバラード」
次の日、俺は学校で篠山皐の席に向かった。皐は俺を見るなりびっくりして、「ひょ」と変な声を上げていた。
「昨日、俺の試合見に来てたろ」
「え」
皐はあわあわと口をまごつかせながら、「そうです」と答える。何をしに来たんだ、とは聞かない。俺はそれだけを確認すると、「また見に来いよ」と言って自分の席に戻った。成長痛だろうか、膝がよく痛むのを感じる。
その日、俺は皐を横目で観察することにした。気紛れというか、単純に興味を持っただけだ。観察するだけじゃ何となく収まらなくなって、俺は部活前のロッカーで同じ中学に通っていたという桃田に、皐の事を訊いてみた。
「篠山だろ?評判、すげえ悪いぜ」
「マジ?」
「ああ。篠山が入ってた樫中の
その時から泥棒篠山、なんて呼ばれてる」
「…………証拠が乏しくないか?ロッカーに誰かが仕込んだとか」
俺の問いに対して、毒虫を噛んだみたいな渋い顔で、桃田は続ける。
「俺も、最初はそう思ったんだけどよ。その後から、色んな奴からモノを借りパクしてたことがわかってさ。最初はアイツを擁護する意見もあったんだけど、もう誰も信じなくなったんだよな」
「…………」
あの皐が窃盗なんてするかよ、と俺は思った。でも、俺が知っている皐は小学校の時の「秋津皐」であって、今の「篠山皐」のことは、何も知らない。
いっそ、別人であってくれよ。俺のヒーローだった皐は、どこに行ったんだよ。
*
雨に降り込められた水曜日の事だった。梅雨の季節に入る頃だっていうのに、傘を忘れた俺は、部活終わりに雨が止むのを下駄箱で待っていた。
ついていない日だ、と思った。1年生は部活後に倉庫掃除の当番がある。今日は俺が掃除当番の日で、せっせと掃除して終わってみればもう時刻は午後6時。そして桃田たちはもう帰ってしまって、傘に入れてもらうことも出来やしない。
ずぶ濡れになって帰ろうか、と覚悟を決めようとした時だ。
「あ、あの」
知っている声だった。知り過ぎている声であった。知らないというには無理のある声だった。
「皐」
俺が振り返ると、そこには初めて人を見た、臆病な子猫のようにビクっと体を震わせた皐がいた。
違うだろ、と口が滑りそうになる。お前は子猫じゃなくて、豹みたいに獰猛な奴だっただろ。
「昔のお前なら、あの、なんて言わねぇよ。もっとこう、飛びついて来るだろ」
「え?」
「なんでもない」
心に仕舞ったはずの言葉が、不意に漏れていたみたいだ。よく聞き取れていないようで、助かった次第だった。
「で?何しに来たんだよ。てか、何で学校残ってんの?部活、入ってたっけ」
「えっと、ヤマダ、さ。傘持ってないんでしょ。良かったら、一緒に帰ろうよ」
俺の質問には半分答えて、もう半分には答えなかった。
でも、俺は少し嬉しい気持ちになった。傘に入れてくれることが、じゃない。昔の皐も、きっとそうしただろうからだ。皐は変わってしまったが、まだあの頃の皐は生きている。そんな気がした。
雨はまだ止みそうになかった。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ」
*
小学校が同じということもあって、俺と皐の家はそう離れてはいない。俺は最寄り駅前のマンションに、皐は駅前通りを真っ直ぐ200メートルくらいを直進して右側にある団地に住んでいる。普段はチャリ通学だが、この際、チャリは置いていくことにした。
俺は肩をすぼめるように、皐の小さな傘に入る。高校近くの駅まで3キロメートル近く、こうして狭々しい傘で歩調を合わせながら帰らないといけない。
ハッキリ言って、多分走った方がマシな気もした。
「どうかな」
「何が」
校門を出て実に300メートルもの間、俺と皐は無言だった。肌が触れ合うような距離なのに、言葉を交わす気になれない。
話題を探していた。3年の時間を経て、俺と皐には共通項と言えるモノが何一つなかった。俺は皐に聞きたいことが山ほどあるのに、皐の方は特に知りたいこともないようで、質問する気配すらない。
「ヤマダ、あのさ」
チッ、と舌打ちしそうになる。どもるなよ。
「こ、今度久しぶりにゲームしない?まだ、で、DSとか持ってるよね」
「ん…………」
どこに仕舞ったかな、と押入れの前に記憶をまさぐる。中学に入ってから、ゲームはめっきりやらなくなった。あれだけ好きだったモンハンも、もう操作方法すら思い出せない。モンスターの名前だってろくに覚えていない。適当に「おう、また今度な」とだけ返す。
そう、覚えちゃいない。俺が覚えてるのは、一緒にゲームをして楽しんで笑っていた、皐の横顔だけだ。ヘタクソと言われても、そっちの方に価値を見出していた。
でも、今の皐の横顔は見えない。俺の背が高くなったとか、皐の髪が伸びて髪型が変わったとか、そういう物理的なモノも当然ある。でも一番の理由は。
「えっ、何」
「いや」
横顔を見ようとしても、常に皐がこっちを見てくる。まるで俺の視線を気にして、怯えているような、いや、怯えているとしか思えない反応を見せている。
何を言おうか。何を話そうか。悩んでいると、季節には少し早めのキリギリスが鳴いて、軋んだビードロみたいな音が雨音に混じる。日も暮れてきて、空はまるでカラスが埋め尽くすように暗い暗雲が立ち込めている。
傘からはみ出た肩が濡れたのもあって、12月の朝みたいに寒い思いをしながら、ふと、桃田から聞いた話を頭で反芻する。
多分、今の雰囲気で聞くには最悪の話題に違いないが、今はそれしか思い浮かばない。この「違いないが」というのも、どこまで行っても「違いないが」でしかない。口にしない以上、ここに仮定形は付いて回る。これを確定させる勇気を、俺は持っていない。
結局俺は何も言い出せないまま、駅が目に見えるところまで無言であった。
「ねえ、ヤマダ」
駅から二番目に近いコンビニを過ぎた辺りで、皐が久しぶりに口を開いた。
「桃田から聞いたんでしょ、私が泥棒だって」
時間が止まった。俺は思わず歩く足を止めて、俺の背中に皐が持った傘が引っ掛かって落ちる。
皐の足元で腹の破れた芋虫が、身を捩らせていた。皐の言葉を聞きたくなくて、そっちに意識を向ける。液体みたいな内臓がどろりと飛び出て、雨水と混ざっていく。何もなければ蝶か蛾になっていたであろう芋虫が、無残に息絶えていく様を、ただ黙って俺は見ていた。
「あっ」
踏んじゃった、と皐は気付いてスニーカーの裏を見る。芋虫の体液だろうか、シミが出来ている。
わざと踏んだのか、それとも俺がいきなり立ち止まったから、足を滑らせたのだろうか。
多分、後者だ。俺の知る皐は、生き物を殺そうとするはずがない。俺の知る皐なら。でも今の皐は、俺の知らない皐だ。
『なあ山田ァ、篠山知らねぇ?アイツ、俺の消しゴム返してくんねぇんだけど』
桃田がいつか、そんなことを言っていた。いつかと言っても、そう遠い日の話ではない。
俺が知らないうちに、皐は泥棒と呼ばれるようになった。卑屈な性格になってしまっていた。俺と目を合わせようともしない、その癖俺の視線ばかり気にする、よくわからない女になった。
「ずぶ濡れだね、私たち」
「────」
あはは、と少し遠慮がちに笑った皐は、濡れて海藻みたいになった髪を後ろに掻き流して、傘を拾おうと俺の後ろに回る。
雑巾みたいに濡れた制服が、うっすらとその下の白い肌を透かして見せている。傘を取ろうと屈んだ皐のブラウスも、百年物の大理石みたいな透明度だった。
(あれ)
皐って、こんなに胸でかかったっけ。尻も、こんなに大きかったっけ。
皐はもっと細身で、男勝りな感じで、いや、もう殆ど男と見分けがつかない見た目だったはずだ。昔は、そうだった。こんな風に、女だと意識できる容姿じゃなかった。
そうだ。彼女は、ただの”女”だったのだ。何故、今まで気が付かなかったんだろう。
気付きを得た瞬間、俺の中にいた秋津皐が、音を立てて崩れていった。元々崩れていたものが、今度は砂にまで砕けた。
「え?」
皐が声を上げる。知らず知らずのうちに、俺は皐が傘を拾おうとする手を掴んでいた。細い手首だった。俺の親指と薬指が、皐の手首の向こうでくっつくくらい、細かった。
「ちょ、ヤマダ?痛いんだけど…………」
ぐいぐいと俺の手を払おうとしても、皐のか細い腕では、男の俺の力に敵うはずもない。やがて皐は、俺の顔を見上げた。3年ぶりに目が合った皐は、猛犬を前にしたように硬直した
それが、どうしてだか許せなかった。そんな弱い顔をするなよ、お前はもっと強気な奴だろ、とか言葉を吐いてしまっていた。
「な、え、あ、どういうこと!?私、ヤマダになんか酷いことしちゃったかな!?ねぇ、もしそうなら謝るから、この手、離して、離してよ」
ぞくっと、体の芯から電流が走ったような気がした。
何かが頭の中ではち切れたような音がした。
こいつが身に着けた”女”を引っぺがしてやれば、また昔みたいな皐に戻ってくれるんじゃないか────あるいは、今ならばあの皐を超えることが出来るんじゃないか。
そんな馬鹿な考えが冷然と浮かんだ時点で、俺はもう人を辞めてしまったのかもしれない。
*
「~~ッひ…………ゥ、ひッ…………」
路地裏に残響せる啜るような嗚咽の中で、俺は下半身の熱を欠伸の様な息の塊と共に吐き出した。
4割の好奇心が6割の自制心を喰い殺し、目的と手段を履き違えた暴力的欲求が彼女の身を貫いて、きっと彼女が負ったであろう内心の傷を顕すように鮮血が滴る。
その血が足元の水溜まりに混ざっていくのを見た時、俺はつい数分か、あるいは数時間か前に皐が踏んでしまった芋虫を思い出す。
(あ…………)
俺の目の前にいる皐は、あの芋虫さながらだった。牛丼屋の室外機の天板でへそを見せてひっくり返って、ボタンの取れたブラウスから割れるような胸を晒しては、下着の破れた大股を開いていた。まるで、死んだカエルみたいでみっともなかった。
でも、本当にみっともないのは俺の方だった。その、死んだカエルのようになった女をたった今犯しているのだから、この上なく醜悪な獣に違いなかった。
腕の下から、真っ赤になった諦めにも似た皐の眼を浴びて、振れていた狂気が限りなく正気に近く戻る。
「え、あ、いや、違うんだ」
何も違わないだろ、と自分を詰りながら、俺は自分の罪を直視した。皐の中で熱を失った剛直が、袋から出したこんにゃくみたいにぬるりと漏れ出る。
俺は、皐を征服したのだ。だが、征服したという実感の中に。
「ごめん」
7分の後悔と3分の罪悪感が、コンクリートの塊のように混ざり合っていた。
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