夏の空の下にエルフ

Riel

第1話

夏、火曜日、真昼。


「暑っ…」


襟元を引っ張りながら息を吐き、前腕で額の汗を拭う。


帰り道は線路沿い。


気まぐれな風が頬を撫でたかと思えば、すぐに灼熱の波が襲ってくる。まるで猛獣の口の中にいるみたいだ。


喉の奥からため息が漏れ、届かない空を見上げる。


太陽の光が目を刺す。


今日だけで十回目くらい、制服で出てきたことを後悔している。


夏休み真っ只中だってのに、俺は補習試験を受けに学校に行ってたわけだ。


試験期間中にやる気を出さなかったツケを払ってるってわけ。


怠惰は罪とはよく言ったもんだ。


「くそっ…」


歯を食いしばる。


ここで熱中症で死んだら、せめて墓石には「怠惰を極めし者ここに眠る」って彫ってほしい。


…そんなことを考えて、苦笑いする。


バカな妄想をやめて、頭の中はただ一つの言葉に支配される。


「み、水ぅぅ…!」


カラカラに乾いた唇を舐めながら、がらがらの声で呟いた。


そうだ、学校の休み時間に買った水があったはずだ。


慌てて鞄を開け、ゴソゴソと中を探ると、教科書に埋もれていたペットボトルが出てきた。


「よし、あった!」


日の光が透けるボトルを手に取った。


「…一滴も入ってねぇ…」


このままだとマジでここで死ぬ。


そんな最悪な未来を想像して、思わず寒気が走った。


しばらく歩いていると、古びた駅舎が見えてきた。

駅っていうか、ただの木のベンチに錆びた屋根がついてるだけだけど、それでも嬉しかった。


こんなにボロボロの木材と鉄くずがありがたく感じたのは初めてだ。


残った力を振り絞って石段をよじ登り、ベンチに崩れ落ちるように腰を下ろす。


はあ……


息を吐き出す。まだ暑さは残っているが、少なくとも直射日光からは逃れられた。


もちろんこれだけでも十分ありがたいが、俺の目に涙を浮かばせたのは、ベンチの横にあったそれだ。


自販機があった。


ぽつんと寂しそうに佇んでいて、古びた屋根の隙間から差し込む日差しに照らされている。


もしもこれを何かに例えるなら、まさに「石に刺さった剣」といったところか。


「ここに置いた奴、神かよ!」


冗談混じりにそう呟いた。


こんな場所に設置した奴は天才に違いない。


「ありがてぇ、マジで……」


誰とも知れぬその人物に祈りを捧げ、百円玉を取り出して炭酸飲料を買った。


ベンチに戻って缶をプシュッと開け、一気に流し込む。


飲んで、飲んで、飲み続ける。息もつかずに飲み干すと、いつの間にか渇きは消えていた。


「はあ、生き返ったぁ……!」


腕を伸ばし、大げさに息を吐く。全身が蘇ったような気分だ。


静けさが戻り、木々が風に揺れる音が耳に心地よく届く。


肩の力を抜き、目を閉じ、次の電車を待つ。

ふと気づくと、少し眠ってしまっていたようだ。


自販機から硬貨が落ちる音がして、反射的に目を覚ます。


気になってそちらを見ると、そこには誰かが立っていた。


強い日差しのせいで目が慣れるまで少し時間がかかったが、はっきり見えた瞬間、思わず目を見開いた。


そこにいたのは、一人の少女だった。


長くて艶やかな黒髪。


透き通るように白い肌。


純白のワンピースと同じ色の帽子。


淡い色のリボンがアクセントになり、その姿はまるで幻想のようだった。


一瞬、自分の正気を疑った。


ついに暑さで頭がおかしくなったのか?

いや、ありえねぇ。暑さで幻覚見てるってのか?でも消えねぇし、マジで何だこれ……


――美しい。


少女は自販機から取り出した水のペットボトルを手にし、空いているベンチに歩いていった。

腰掛けてからキャップを開け、中身を一口飲む。

彼女は俺と同い年くらいに見えたが、こんな子が学校にいたか?


いたとしたら間違いなくアイドル級だろう。

だが、このさびれた町にはそんな子はいないはずだ。


「はぁ……」


満足そうに一息ついて、水のボトルを横に置いた。

その後、可愛らしいカバンから小さな本を取り出し、読み始めた。


それからしばらく、何も言わず、俺も黙って眺めていた。


話しかける勇気なんてなかった。見知らぬ美少女に気軽に声をかけるほど社交的でもないし、ましてや


こんなに可愛い子相手じゃなおさらだ。


時間が過ぎ、焦燥感が込み上げてきた。


この沈黙が、まるで鉄格子のように重く圧し掛かってくる。


何か言わなきゃ、このままじゃやばい。


焦って声を出そうとした、その瞬間――


少女が先に口を開いた。


「暑い…これじゃ溶けちゃうよ…」


本を閉じ、帽子を片手で仰ぎながらそう言った。


その瞬間、風が吹いて彼女の髪をさらう。


自然と目が引き寄せられ、その時初めて気づいた。


長くて尖った耳。


長くて尖っている、まるであの子が…


「エルフ…?」


気づいたときには、もうその言葉が口をついて出ていた。


はっとして口を押さえ、視線を足元に落とす。彼女がどう反応したのかは分からない。だが、それどころじゃなかった。


エルフ?本当にエルフなのか?えっ?いやいやいや。


首を振って否定する。


コスプレか?こんな暑い中で?そもそもなんで耳だけ?えっ?いや、本当に何なんだ?


今思えば、ちょっと大げさだったかもしれない。でもその時は、そんな疑問で頭がいっぱいだった。


少しして姿勢を正し、なんとか平静を装おうとする。だが、その瞬間、彼女は予想外の行動に出た。


「さっき…」


「えっ?」


間抜けな声を出して顔を上げると、いつの間にか彼女の顔がすぐそこにあり、正直叫びそうになったが、どうにかこらえた。


「見たでしょ!」


彼女は眉をひそめて言った。


意味が分からなかった。耳のことだろうか?彼女は怒っているようだ。


唇をへの字に曲げ、眉を寄せた顔が妙に怖くて、思わず謝ってしまった。


「ご、ごめんなさい!別に見ようと思ったわけじゃなくて…」


心臓がバクバクしている。見知らぬ美少女に謝っている自分が、どうにも情けなかった。


「あーあ、見られちゃったか」


「す、すみません、本当にすみません!じっと見つめたわけじゃないんです。あなたがあまりに可愛いからって、その…いや、忘れて!本当にごめんなさい!」


自分でも何を言っているのか分からないまま謝り続ける。


「怒ってないよ」


彼女は笑みを浮かべた。


「でもそっか、バレちゃったか…」


そう言って立ち上がり、腰に手を当てた。


何かが胸の奥でチリチリと疼く。


もしかして、本当にエルフなのか?そんな考えが浮かび、少し興奮してしまった。


「今回は絶対にバレないと思ったのになぁ。どう責任取ってくれるの、天野くん?」


そう言われて、慌てて立ち上がった。


天野くん?混乱しながら問いかけた。


「えっと、俺たち…知り合いだっけ?」


「んん?もしかして……?」


彼女は首をかしげた後、何かに気づいたように手を合わせ、くすくすと小さく笑った


「ふふん、どうだと思う?純情な天野くん」


そう言いながら、さくらんぼ色の唇に指を当てた。


風が吹き、彼女のワンピースがふわりと揺れる。その言葉に、ますます困惑した。


また名前を呼ばれた。


どうしてこんな美少女が僕の名前を知っているんだ?


知り合いか?エルフが知り合いにいるはずがない。


クラスメイト?近所の子?


もしかして親戚?


そんなの全くない!


記憶をかき集めて答えを探した。


学校以外ではあまり人と関わらないから、学生生活の中での出来事に集中して思い出してみる。


クラスでこんな子と話したことがあったか?


――ない、絶対にない!


女子たちは俺を避けていたし、俺も彼女たちに関心がなかった。


それが気になったこともない。


クラス委員(特に目立たない子)とは時々くだらない会話を交わすくらいで、友好的な女子なんて皆無だ。ましてやエルフなんてなおさら!


そもそも、クラスや学校にこんな可愛い子がいたら絶対に見逃すはずがない!

つまり、彼女の勘違いに違いないと結論づけた。

だが、彼女は俺の名前を知っている。


「ところで…」


彼女は気楽そうに髪をかき上げた。


「触ってみる?」


急に身を乗り出してきて、汗で少し透けたワンピースの胸元がちらりと見えた。


「さ、触る!?」


驚きすぎて転んでしまった。


「はははっ、その声、ウケる!」


彼女は大笑いして言った。


「耳だよ。さっきからずっと見てるでしょ?気になるんじゃない?」


「あ、ああ…耳のことか…」


少しホッとしつつ、正直ちょっとがっかりした。


「他に何を想像してたの?ねえ?」


「な、何もない!本当に!」


慌てて目を逸らすと、彼女は手を差し出してきた。


「ほら。」


その手を取って立ち上がると、彼女は駅の端に歩み寄り、両腕を伸ばして背伸びをした。


俺は無言で見つめていた。


「もう知ってると思うけど…」


彼女はくるりと踵を返し、手を背中に回しながら小

悪魔のような笑顔を浮かべて言った。


「私はエルフよ」


心臓が一気に高鳴った。本当なのか!?叫び出しそうな気持ちを抑えたが、代わりに冷静なオタク心が顔を出した。


「エルフって…?いやいや、エルフって金髪だろ、普通」


自分でも驚くほど速いツッコミだった。


「さっき自分で言ったじゃない、『エルフ?』って」


彼女はさっきの俺の顔真似をして、バカにしたように笑った。


――確かにそうだ!!


「待て、それは緊張のせいで早まった反応だ。気にしないでくれ。」そう言ってごまかそうとした。


「私は本物だよ!ただ髪が黒いだけ。」彼女は楽し

そうに自分の髪をいじり始めた。


「黒髪のエルフなんているわけないだろ。映画とか本とか見たことないのか?文学から大スクリーン、アニメ、ゲーム、ビジュアルノベルまで、エルフはみんな金髪だ!それが魅力であり、常識ってもんだろ!」


「黒髪のエルフがいてもおかしくないでしょ?その常識が歪んでるんじゃない?それに、ほら。」彼女は耳を見せながら言った。


「尖ってるでしょ?」


「耳が尖ってるだけでエルフって決めつけるのはおかしいだろ。ファンタジーには尖った耳の種族がどれだけいると思ってるんだ?」


「ふーん、なかなか頑固なやつだね、天野くん。」自信たっぷりな口調で彼女が言う。


また「天野くん」ときた。何度考えても彼女が誰なのか思い出せない。


「うーん、わかった。負けたよ。」彼女はそう言って続けた。


「ごめんね、嘘ついてた...」


「は...?」


「本当は金髪なんだ。」


そう言いながら彼女は目を逸らした。


「ちゃんと目を見て言えよ!」


「でも...!」


突然、彼女は胸に手を当て、まるで演劇のようにくるくる回り始めた。


「愛する人に会うために村を逃げ出して、目立たないように髪を黒く染めたの...」


またファンタジーかよ。


彼女はさらに何回か回った後、続けた。


「でも捕まって引き離されてしまったの。それでここに来たの。愛を探し求めて...ああ、運命はなんて残酷なの!なんでこんなに意地悪なの!」


「はいはい、もう十分だ!」俺はバッサリと止めた。


「ちょっと!いいところだったのに、なんで止めるの?」


俺はこめかみを押さえて、ため息をついた。

まったく、なんなんだこの女...?


ベンチに倒れ込み、腕時計を確認すると、電車が来るまであと少しだった。


「ったく、あんな話しても信じないなんて、ひどいやつだね。」彼女が笑いながら言った。


いや、むしろ恥ずかしげもなくあんな劇を披露できるその度胸に驚くわ。心の中でそう思ったが、口には出さなかった。


「そうだ!」彼女が急に思いついたように言って、俺に向かって身を乗り出してきた。


「今度はなんだよ?」


「ふふっ...それなら、私の魔法を見せて信じさせてあげる。」自信満々に言ってきた。


遠くから電車の音が聞こえてくる。


彼女は帽子をかぶり直し、くるっと回って、まぶしい太陽の下に出た。


そして、青い夏空の下で微笑んで言った。


「じゃあ...精霊たちの力を借りて...こんなことができるんだよ!ザザーッ!」


腕を掲げたその瞬間、冷たい風が吹き抜け、俺のシャツを揺らし、髪を乱した。


まるで春風みたいな心地よさだった。


信じたいという気持ちが込み上げてくる。


風に揺れる黒髪、ひらひらと舞うワンピース、その下が見えそうで見えない絶妙さ...


飛ばされた白い帽子が空に舞い上がっていく。


その光景が頭に焼き付いた。


本当にエルフなのか?また疑問が湧いたが、俺の胸は高鳴っていた。


電車が駅に到着した。


近くに落ちた帽子を拾い上げ、俺も立ち上がった。

彼女は電車に乗り込むと、入り口で振り返りながら言った。


「すごいでしょ?もう信じた?」


俺は言葉を失い、彼女は楽しそうに笑った。

そして、電車に乗り込みながら最後に振り返って言った。


「じゃあ、学校でまたね。」


そして何か思い出したように、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。


「そうだ、そうだ。私の名前は...」


「遠野...静香。遠野静香よ。」


電車のドアが閉まり、走り去っていった。


「遠野...静香...」


俺はその名前を何度も口にしながら、真夏の暑さの中で白い帽子を両手に持って立ち尽くしていた。


「一体...何だったんだ...?」


腕時計を見て、顔を上げた。


「電車...いつ来るんだ?」


冷や汗が背中を伝う。


俺は...電車を逃したのか。


「くっそぉ!!!」


その夜、家に帰ってからも何度も思い返した。

あの古びた駅での出来事、エルフの少女、自分の名前を知っていたこと、そして彼女の名前。


「遠野...静香...遠野...静香...静香。」


名前を何度も反芻しながら、ベッドに横たわり、白い帽子を見つめた。


そして、頭の中で何かが繋がった。


「あ...」


思わず声が漏れた。


ようやく名前と人物が一致したのだ。


「えええええっ?!」


気づいた瞬間、俺は大声で叫んだ。


夏が終わるまで、彼女と会うことはなかった。

しかし、新学期の初日。朝、教室に入ると、中央の

一番後ろの席に...


彼女が座って、本を静かに読んでいた。


俺はじっと彼女を見つめた。耳は普通だった。


「...なるほど。」俺はぼそっと呟いた。「ただのエルフごっこか...くそっ、コスプレ狂かよ。」


バッグから白い帽子を取り出し、机の上に置いた。


「忘れ物だぞ、委員長。」できるだけ冷静を装って言った。


彼女は、胸元にかかる黒髪を二つに編み込み、丸くて大きな眼鏡の奥に隠れた瞳で本を閉じ、こちらを見た。


「淑女に対してその言い方はちょっと失礼じゃないかしら?純情な天野くん。」


「失礼なのは俺の純情を弄んだお前だろ!」そう言うと、彼女はからかうように笑った。


「驚いたでしょ?」


「誰があんなのに騙されるかよ!まさかお前がコスプレ好きとはな。もう“イカれエルフごっこ”は終わりか?禁断の恋の物語はどうしたんだよ?」


「エルフ?私が?ふふっ、天野くん、もしかして蜃

気楼でも見たんじゃないの?」と彼女はわざとらしく驚いた表情を見せた。


「しらばっくれてんじゃねえよ。そもそも黒髪エルフなんてありえねぇ。そんなの存在してはいけないんだ!」


「ふふっ...」


彼女は机に置いた本をそっと閉じ、立ち上がると俺の耳元に顔を近づけた。


「じゃあさ、次は金髪のウィッグをつけて、デートしてあげようか?どう?」


冗談めかして囁くその声に、俺はため息をついて体の力を抜いた。


それから皮肉たっぷりの笑みを浮かべて、冷静に言った。


「バカか、お前?」


彼女はクスクスと笑った。


本物のエルフじゃない。ただのコスプレ好きの変な女だ。


でも、あの日のことを思い出すと、あの瞬間の魔法が今でも体を震わせる。


もしかすると、本当にエルフがどこかにいるのかもしれない。


あるいは、ただコスプレして同級生をからかっているだけの少女か。


委員長を見つめて、俺は一つ確信した。


結局のところ、見た目ってやつは案外当てにならない。


***


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