赤いペンキの少女

花鳥あすか

第1話

 ねえ、君はさ、夜のカーテンの中って、体験したことある?


 階下から母のヒステリックな音が聞こえる。そんなとき私は必ず、カーテンの中へ逃げ込む。

 夜のカーテンの中は、ビルの屋上に独り立ちすくむような感傷のときめきをくれる。ヒステリーの音に塗られた脳の苦しみを風で吹き飛ばして、全てを闇で封殺してくれる。窓を開け切って、網戸をずらして身を乗り出せば、「違う世界」へ飛び立てるって希望すら与えてくれる。

 今では、布団とか、がらくただらけのクローゼットに入って耳を塞ぐなんて、最悪の手段だったってよく分かる。やかましい人間をやり過ごすには、夜のカーテンの中がいちばんだよ。


 あとさ、夜のカーテンの中に入る時にはもう一つ別のときめきがあってさ。それは、「幽霊」の気持ちを体験できることなんだよね。静かに窓辺に佇むことで、呑気に夜を散歩している幸福な人間をびっくりさせて、平穏だった胸をかき乱してやれる。この楽しさときたら、全く爽快極まりないよ。お前だけ、お前らだけ幸せそうにしやがって。私を見て怯えろ。嫌な気持ちになれ。そんな憎しみが、期待通りのリアクションで消化されていくんだよ。一回試してみてよ。ほんとにすっきりするからさ。


 世の中の人って、電気とかを発明した人によく感謝してるけど、私は窓とカーテンを考案した人にめっちゃ感謝してる。私みたいな、なんていうか、これはあんまり言いたくないけど、いわゆる「可哀想な子」の居場所を作ってくれたわけだから。考案した人はそんな使い方なんて一ミリも想像してなかっただろうけど、そんなの関係ない。ありがとう、窓とカーテンを考案した人。


 夜にも感謝しなくちゃいけない。雪みたいに汚いもの全部に蓋をしてくれて、晴れの日には銀の煌めき、雨の日には趣を演出してくれる。夏は夜、って清少納言は言ってるけど、人生は夜、だと私は思うよ。昼なんてさ、所詮幸せな奴らが健康的に活動してる不愉快な時間なんだし。人生は夜一択でしょ。ね、君もそう思わない?


 ああ、今夜もヒステリーの始まりが来たみたい。布団から出て、早速カーテンの中に入ろうっと。

 今日は、この空間をもっと面白くするための物を用意してきたよ。じゃじゃーん。イヤホン。これで適当な音楽を爆音で聴きながら、私はサイコって歌うんだ。もちろんダンスもつけてね。そう。今日は幽霊じゃなくて、サイコキラーになりきるの。知らない? 超有名なスリラー映画のあれね。

 ほら、丁度いいカモが来た。若いジャージ姿の女。仕事終わりのウォーキングかな? 精が出るねぇ。まったく模範的で理想的で健康的で、さぞ毎日が楽しいでしょうね。むかつく。ちょっとくらい、嫌な思いしたらいいよ。


 サイコ、私はサイコ!

 どうかそこで待っていて!

 恐ろしい結末はすぐに訪れる!


 今聴いてる音楽のリズムに合わせて窓を叩くパントマイムダンスをして、適当に思いついた歌詞をばかでかい声で歌ってみた。そしたら、ジャージの女はびくびくーって猫みたいに飛び上がって震えて、硬いアスファルトに尻もちをつきながら私を見上げた。


 やった! 大成功! 面白すぎて、クセになりそう。私、幽霊にもサイコにも、何にでもなれるじゃん。夜のカーテンの中にいる限り、無敵じゃん! 天下無双! イェ〜イ!

 とか考えてたら、ジャージの女、急いで起き上がって逃げるように駆け出してった。無様でいい気味。あんたが私より人生楽しんでるから悪いのよ。バイバイ。


 はー、楽しかった。もう今日は十分満足したから、これくらいでやめといてやろう。明日はどうしようかな。窓から赤いペンキでもたらしてやろうか。暗くて赤には見えないかもだけど、うち白い壁だし、なんか色のついた液体が窓からドバドバたれてたら気持ち悪いでしょ? めちゃくちゃいいこと思いついちゃったかも。ヤバい。明日が楽しみだなんて、初めてかもしれない。


……? あつっ。え? 痛い。

 え? 痛い痛い痛い痛い痛い! 燃える! 背中が燃えてる! 熱い! 何これなにこれなに……。


 気づいたら、赤いペンキの中に横たわってた。

 なにこれぇ、あったかい……。

 あ、目の前に、何か転がった。これ、イヤホン。高かったのに、ああ、赤いペンキに呑まれてく。壊れちゃう。ああ、ダメ、ダメ……。

 誰か助けて。あれ、ほんとに高かったの。てか、なんで、動けないの。

 何かが、覆い被さってきた。嗅ぎ慣れた匂い、と、聞き慣れた荒い鼻息……。

 ああ……そういうことかぁ。しくっちゃったみたい。


 パトカーのサイレンが遠くでゆっくりと鳴ってる。

 ジャージのお姉さんかな? 優しいね。意地悪して、ごめんね。でも、今ちゃんとばちが当たったっぽいから、許して。

 ぼやける視界で、鉛っぽい何かが動くのが見えた。それを最後に、私は死んだみたい。


「不気味な歌にびっくりしてたら、その家の一階からものすごい叫び声が聞こえて、ただ事じゃないと思ったんです。それで通報して……。あの女の子が、亡くなったんですね……。私てっきり、あの子が一階の人に何かするんじゃないかと思って……」


……そういうことだったのかあ。夜のカーテンの中は、無敵になれる場所じゃないみたい。誰にも救われない、私たちの居場所でもない。あそこは魔窟だよ。人をおかしくさせる場所。今わかった。お布団やクローゼットにいた方がよっぽど良かったんだ。舞い上がって喜んでた私、馬鹿みたいだね。

……ねえ、君はさ、私みたいに、あの魔窟に引っ張られないでね。

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赤いペンキの少女 花鳥あすか @unebelluna

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