第八章 失われた音色
第八章 第一話
激しい雨が、容赦なく青葉市の大地を叩きつけていた。音楽棟の窓ガラスを滝のように流れ落ちる雨粒が、目には見えない不安を奏でるかのように、リズムを持って打ち付けている。奏太はその音をBGMに、じっと窓の外を見つめていた。
――もう三日間も、水上先輩の姿が大学で見当たらない。
彼が突然姿を消してから、キャンパス中を探し回っても、どこにもいない。いつも使っていた練習室、図書館、カフェ、学生寮……。どの場所を探しても空振りだった。サックスを抱えたまま奔走する奏太の心には、焦燥と不安が入り混じった黒い霧が広がっている。
コンサート本番まで一週間を切ったこの時期に、肝心のピアノ奏者がいない。それは実務的な問題だけでなく、奏太の心を深く切り裂いていた。
水上がなぜいなくなったのか。
理由は思い当たる節がある。少し前、アンサンブルの練習中に水上の左手首が激しく痛みを訴えた。それは本番まで一週間となったことによる緊張から来た痛みだったのだろうか。さらに、佐伯の突然の告白も大きな負担になった可能性がある。水上は何度もコンクールや家族の期待に追い詰められ、一度折れた過去を持つ。再びその限界が来たのだろうか。
奏太は窓際で息を詰めるように雨を見つめる。普段は静穏な青葉市が、今日はまるで土砂降りの中に沈んでいる。遠くの校舎は霞んで見え、行き交う学生たちの傘が色とりどりの斑点のように映る。
ふと我に返り、奏太はポケットからスマートフォンを取り出す。もう何度もかけた水上の番号。着信履歴が“発信”で埋まっている。今回も着信音のあとに留守番電話へ切り替わる。
「……水上先輩、葉山です。今どこにいるんですか? みんな心配してます。村瀬教授や佐伯先輩も……どうか連絡ください」
必死で言葉を紡ぐが、返事は得られないことが分かっている。声が震えそうになる。どうしてこんなにも不安なのか、自分でも分からない。ただ、水上がいないだけで心がちぎれるような思いだ。
「先輩の演奏が……聴きたいんです」
最後にそう付け加えて電話を切る。思わず唇を噛みしめる。まさか自分がここまで彼を必要としているとは思わなかった。
雨音が一層強くなった気がして、奏太は廊下の窓をもう一度見やる。すると背後から声がかかった。
「葉山くん……」
振り返ると、佐伯が傘を持って立っていた。いつも柔らかい笑顔の彼だが、今日は顔が険しい。
「佐伯先輩……水上先輩、見つかりましたか?」
尋ねるまでもなく、答えは分かっている。佐伯は小さく首を振った。
「いや……まだ。さっきまた寮を見に行ったけど、部屋にいないし、管理人も姿を見てないらしい」
予想通りの返答に、奏太の胸が更に重くなる。三日が過ぎても行方が分からない。いったいどこへ行ってしまったのか。
「ところで、葉山くんに聞きたいんだけど……」
佐伯は一瞬口ごもりながらも、表情を引き締め、思わぬ問いを発する。
「響にとって、君は何なんだろう?」
「え?」
奏太は言葉を失う。何だろう――。アンサンブルのパートナー? 友人? それとも……。
「さあ……分からないです」
正直な思いを吐露すると、佐伯は溜め息をついて視線を落とす。
「そう……。ごめんね、こんなこと聞いて。僕、響に告白して振られたばかりでさ。頭がぐちゃぐちゃなんだ。多分、彼も自分の気持ちを整理できてないんだと思う」
その告白には奏太も気を遣う。三人の間にある奇妙な関係の気配を感じてはいたが、実際に佐伯が水上を好きだと知ると、胸がざわつく。
「きっと、響はいろいろな感情を抱えすぎて、逃げ出したんだと思う。でも君になら、もしかしたら彼を連れ戻せるかもしれない」
佐伯の目は複雑な色を帯びていた。もしかすると、彼は自分自身で水上を探しに行きたい気持ちを抑え、代わりに奏太に頼っているのかもしれない。
佐伯はスマートフォンを取り出し、画面を見せながら眉をひそめる。GPSか何かの情報だろうか。水上は灯台公園にいると言っていたらしい。
「灯台公園……? まさか、俺の実家のある町の外れにあるあの公園ですか?」
奏太は息を呑む。そこは断崖に面した高台に立つ灯台が象徴的な場所で、まるで海や街を一望するように建てられている。観光客もときどき訪れるが、基本的には人が少なく静かな海辺の公園だ。
「なぜあそこにいるんでしょう?」
「さあ、分からない。ただ、『来ないでくれ』と僕には言われた。でも、葉山くんなら、もしかしたら受け入れてくれるんじゃないかと……」
佐伯は声を落とす。名指しで奏太を拒絶していないなら、それは奏太へ助けを求めているサインなのかもしれない。
「分かりました。行ってみます。ありがとうございます」
奏太は一瞬の躊躇もなく走り出そうとした。
「気をつけてね。大雨だから」
佐伯からそう言われ、傘を手渡された。まるでバトンのようにその傘を握って、奏太は外へ飛び出した。
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