第七章 第四話

 大学へ戻り、いつものように練習室で合わせをしようとしたが、水上は珍しく朝から姿を見せなかった。奏太は少し胸騒ぎを覚えながら、先に自分の基礎練習を始めた。


 昼頃、ドアの隙間から誰かが覗いている気配がする。目をやるとそこには佐伯が立っていた。トランペット専攻の二年生で、水上の高校時代からの友人でもある。だが、普段は明るい彼が、今日はなんだか表情が暗い。


「葉山くん……。ちょっと、話せる?」


「はい、どうしたんですか? 水上先輩のこと?」


 奏太が問いかけると、佐伯は苦い顔をして小声で言った。


「実は昨晩、響に想いを打ち明けたんだ。“好きだ”って」


 奏太はその言葉を聞いて一瞬言葉を失い頭の中が真っ白になった。まさか佐伯が水上に恋愛感情を抱いていたとは想像もしなかった。いや、そんな感じはしていたが見て見ぬふりをしていたのだ。


「え、でも、どうして今……?」


「分からない。でも、コンサートを間近にして、響がどんどん輝いていくのを見ていると、黙っていられなくて……高校時代から、ずっと好きだったんだ」


 佐伯の声が震えている。ながらく抑えていた想いを言葉にした代償なのだろう。


「それで……、水上先輩はどう反応したんですか?」


「驚いてたけど……やっぱり“ごめん”って。俺の気持ちには応えられないって、はっきり断られたよ」


 落ち着いた語り口だが、その裏には大きな失意があるはずだ。佐伯は複雑な笑みを浮かべる。


「それでもいいんだ。言えてよかった。でも、僕が告白したことで、響がすごく動揺してたみたいで。手首のこととかいろいろ重なったせいかもしれない。今朝から連絡がつかなくて……」


 佐伯は携帯を握り締めてうつむく。寮にもいないと誰かが言っていたと教えてくれた。コンサートまであと一週間。肝心の水上がいなくなるなんて、奏太は頭が真っ白になった。週末に奏太の実家に一緒に行ったときには前向きに見えていたのに――。奏太の心がざわついた。



 実際に水上の寮を訪ねてみても、ドアは固く閉ざされ、部屋には誰もいない。管理人に尋ねても、朝早くに出て行ったきり、帰ってきていないようだ、と言われるだけだ。


 大学内を探し回っても姿はなく、二人でよく使っていた練習室にもいない。図書館、食堂、どこにも水上の影は見当たらない。奏太と佐伯は夕方まで手分けして探すが、まったく手がかりが見つからない。


「どうしよう……。先輩の手首の具合も良くなかったのに……」


 奏太は焦りと心配に押しつぶされそうになる。佐伯は目を伏せ落ち込んだ表情をした。


「ごめん、僕のせいだ。余計なことを言ったから」


「いえ、佐伯先輩の気持ちも分かるし、悪いわけじゃない。問題は先輩がどこへ行ってしまったか……」


 笑顔で答えてみたが、複雑な思いに苛まれた。



 水上が失踪した次の日、奏太は思い切って村瀬教授を訪ねた。水上の状況を説明すると、教授は静かに話を聞き口を開いた。


「彼はよくそうやって一人になりたがるんだよ」


 腱鞘炎や過去のコンクール辞退、そして音楽家の家系というプレッシャーが重なったとき、水上は何度か姿を消した経験があるらしい。


「コンサートまで時間がありません……。このままじゃ」


 奏太は今にも泣き出しそうな声で言ったが、教授は落ち着いた口調で続けた。


「確かに、スケジュール的には厳しいな。だが、水上君が戻ってこないことには、どうしようもない。もし万が一、彼が戻らなかったら、ソロや代役でステージをこなすしかないね。ただ、君が最後まで彼を信じたいなら……いまは待つしかない」


 コンサートへの不安、そして水上を案じる気持ちがせめぎ合い、奏太は複雑な思いを抱えつつ研究室を後にした。



 その夜、奏太は練習室で一人サックスを吹いていた。


 いつもは水上のピアノと呼応し合う空間だが、いまはサックスの単独の音が虚しく響くだけだ。ラプソディ・イン・ブルーの冒頭をなぞってみても、伴奏がないと締まらない。My Funny Valentineを吹いてみても、ピアノの和音がないとやはり物足りない。


(先輩……どこにいるんだ。もう家族の問題も落ち着いたはずなのに、どうして……)


 頭には無数の疑問が渦巻き、手元のサックスを持つ指が震える。立て続けに起きた出来事──佐伯の想いの告白、それに対する水上の動揺、手首の痛み、コンサートへの焦り。どれもが水上を苦しめているのだろう。


 そして自分自身もまた、父からの手紙で将来の家業に関する期待を重荷に感じている。二人とも、大切な岐路に立たされているのかもしれない。だが、いまは彼と話をすることさえできない。揺れる和音が、演奏を始める前から乱れている気がする。



 三日が過ぎても、水上は戻らなかった。


 日々、大学ではコンサートのリハーサルが進行し、出演者の顔合わせやステージ準備が粛々と行われている。奏太はソロまたは佐伯とのデュオで対応できるように少しずつ練習をしているが、やはり水上との演奏をしたいという気持ちが強い。


 佐伯も暗い顔で「ごめん……」と繰り返すが、もう過ぎたことを責めても仕方ない。お互いにできることは限られている。


 そんなある日の夕方、奏太はふと外を見上げて思う。漁師町で見た灯台からの景色。あのときの水上の弾けるような笑顔。


 ――きっと彼は、戻ってくる。


 そう信じたい。何かを乗り越えて、腱鞘炎の痛みや家族の期待、そして佐伯からの想いを抱えながらも、水上は強い人間だと奏太は知っている。


(待ってるよ、先輩……。俺も父さんに将来どうするか答えるのを考えなきゃ。でも、まずはコンサートだ。あと一週間しかない。)


 心の中で強く決意を固めた。二人が出会って生まれた新しい音楽を、絶対にステージに載せたい。もし彼が戻ってきたら、どんな言葉をかけよう。自分には何ができるだろう。


 薄暗い練習室に一人立ち尽くしながら、奏太は改めてサックスを取り出す。ラプソディ・イン・ブルーの冒頭フレーズを吹き始めるが、伴奏のピアノがないことに寂しさを覚える。それでも音を止めない。いつか水上が隣でその音を受け止めてくれるように──そんな願いを込めて。

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