第七章 第二話
土曜日の朝。青葉市を出発したローカル列車は、海沿いの線路を走り出す。車窓にはやがて青い海が広がり、磯の香りが漂ってくるような気さえする。
奏太と水上は並んで座り、窓の外の景色を眺めながら会話を続けていた。列車は少し揺れ、夏の前兆を感じさせる陽光が車内に差し込む。
「へえ、海が見え始めた。思ったよりずっと広いんだな」
水上は少年のような瞳で遠くの水平線を見つめる。普段は厳格で落ち着いている彼だが、今日のような旅では表情もどこか解放的に見える。
「先輩、こういうローカル線に乗るのは珍しいんじゃないですか?」
「ああ、地方公演のときは新幹線や飛行機が多かったし、移動もスタッフに任せきりだった。こうして普通の電車に揺られて海を見に行くなんて、新鮮だな」
水上はやや興奮気味に風景を眺める。その姿に奏太は心が温かくなる。今まで音楽一筋で生きてきた水上に、こういう“普通の青春”のような体験を届けられることが嬉しかった。
しばらくして列車は小さな漁師町の駅に滑り込み、二人はホームに降り立った。ホームに漂う潮の香り、静かな雰囲気、背景に並ぶ漁港のクレーンや倉庫。駅前には古びた商店が数軒だけ開いており、都会とは全く違うのどかな風景が広がっている。
奏太が改札を抜け、駅前のロータリーに立つと小高い山を指し示す。
「向こうにある坂を登ったところが、うちです」
「へえ、歩ける範囲にあるんだな」
水上の顔はまるで少年のように嬉しそうだ。
「まあ、バスもあるけど、せっかくだから歩きましょう。海が見える路地を通るんで、案内しますよ」
そう言って二人は荷物を背負いながら坂道へ入る。地元の人々が漁具を積んだトラックを走らせたり、自転車で行き来したりしており、ゆったりした朝の空気感が漂う。道すがら、漁師町独特の海風が服の裾をはためかせた。
奏太の実家は木造の伝統的な造りで、白い壁と青い屋根が特徴だ。敷地の一角からは海を遠望できる場所があり、庭には漁具や漁網が保管されている。
玄関先まで来ると、中から奏太の母が笑顔で出迎える。
「奏太、おかえり。……この方が水上君ね? ようこそ、遠いところをよく来てくださいました」
柔和な笑顔を浮かべる母に、水上は少し緊張しながら丁寧にお辞儀した。
「水上響と申します。お世話になります」
「まあ、堅苦しいのはなしよ。ゆっくりしていってね」
水上のことを笑顔で迎え入れた。
家の奥から覗いているのは奏太の祖父だ。漁師として長年海に出てきた風貌があり、強面にも見えるが、目尻に優しいしわが刻まれている。
「おお、あんたが天才ピアニストか。奏太から話は聞いとるよ。遠かったろう?」
祖父の低くしゃがれた声に、水上はやや戸惑うが、丁寧に挨拶をした。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「いい、いい。ゆっくりしとりなさい。昼飯食うだろう?」
そう言って奏太の母に目をやった。
「今朝、水揚げされた魚がたくさんあるからね。すぐ支度するわ」
「お世話になります」
水上は再度頭を下げながら、心の中で「何だか温かい家族だな」と微笑ましく感じた。
食卓には水揚げされた新鮮な魚を使った煮物や刺身、酢の物などが並び、地方色豊かな料理が所狭しと並ぶ。水上は躊躇しながらも、一口食べて感動の声を漏らす。
「本当に美味しい……こんなに新鮮な魚を食べたのは初めてです」
「だろう? 都会で食うものと違うだろう」
祖父が得意げに笑う。
「たいしたもんじゃないわよ。でも、やっぱり新鮮さは大事ね」
母は照れくさそうに笑いながら、水上にお茶を勧めた。
奏太は隣でその様子を嬉しそうに眺めながら行った。
「先輩、どんどん食べてください!」
「ありがとう、遠慮なくいただくよ」
アンサンブル実習で並んで演奏する関係とはまた違う、家族の温もりの中でくつろぐ時間に、水上はどこかほっとしているように見える。
昼食後、奏太は水上を誘った。
「灯台に行ってみませんか?」
歩いて二十分ほどの丘の上に白い灯台があり、そこから見下ろす海の景観は格別なのだ。
二人は家を出て、町の裏手にある小道を登って行く。周囲には漁師町特有の狭い路地が入り組み、所々に古い石段がある。傾斜を登りきると、白い灯台と青い海のコントラストが目に飛び込んでくる。
「ここからは町全体が見えるんですよ。海も一望できます」
奏太が指し示す先に、広大な水平線が広がっている。波が太陽の光を反射してキラキラと輝き、漁船が小さく動くのが見える。陸側には家々が密集し、漁港のクレーンが小さく見える。
「……美しい」
水上は短く呟いた。こんなにも青い海を上から眺めるのは初めてで、まるで別世界に迷い込んだような感覚にとらわれる。海風が強く吹き付け、彼の髪を揺らす。
「俺、この景色を見ると、いつも胸がすく感じがするんです。何か悩んだとき、よくここに来たんですよ」
奏太は遠い目をして続ける。
「先輩の音楽を初めて聴いたときも、こういう感覚があったんです。心が洗われるような……。だから、この景色と先輩の演奏は、俺の中ではどこか似てるんです」
水上は微笑んだ。奏太の言葉には率直な感情がこもっていて、彼を救っている部分もあるのだろう。
「ありがとう。そう言われると照れるけど、嬉しいよ。俺の演奏が誰かにとっての“灯台から見る海”みたいに感じられるなら……それ以上の喜びはない」
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