2 本には載っていない
分かりにくい場所だった。そのせいで約束の時間を少し過ぎてしまったが、
両手を広げて中世ヨーロッパの貴族のようにおおげさな挨拶をしながら向かい側のソファーに座ると、津田は僕のスマホを覗き込んだ。
「確かに、私が企画したキャンペーンの割引きクーポンですね」
津田は抜群のルックスをしていた。だが、それとはうらはらに、背中を丸めて、卑屈に芝居じみたしゃべり方をした。そのギャップが僕を苛立たせた。
年齢はまったく分からない。それもまた不気味だった。
「まずは我が探偵社の紹介をいたしましょう」
そう言って津田は勢いよく立ち上がった。斜に構え、僕を指さして、つつくような仕草をした。
「数々の難事件を解決してまいりました。以上、紹介終わり」
ソファーに体を戻して、津田は満足そうに頷いた。
あっけにとられて言葉が出なかった。が、無理に絞り出した。
「あの、難事件って、例えばどんな?」
津田は髭のない顎をなでて眉をひそめ、深刻そうな表情を作ってから語り始めた。
「そうですねえ、それではバット女を調査した時の話でもいたしましょうか」
古典劇を演じるかのように身振り手振りを交えて津田が語ったところによると、グラスハープのようなウィーンという透明な響きと、ガリガリガリっと地面を引っ掻く耳障りな雑音と共に、その女は現れるという。強化ガラス製の中空のバットを、アスファルトの上で引きずりながら歩いているらしい。
「彼女は少女であり、老婆で、妙齢のご婦人でした。華やかで地味で、荒々しく穏やかで、優しく冷酷でありながら慈悲深く無感動、しかも朗らかで泣き虫なのに有頂天で内気な社交家でありつつ自信過剰で夢見がちなのです」
わけが分からない。
「で、そのバット女って、結局なんだったんですか」
胸の前でパン、と一つ手をたたき、唇をペロリと舐めてから、津田は秘密めかして囁いた。
「冷たい雨の中、どこからでも現れてどこへでも消える。そして、どこにでもいるのです」
にやり、と音が聞こえそうなぐらいに顔を歪めて、津田は意味ありげな目で僕を見つめた。
「さて、お電話でのお話によりますと、奥様の素行を調査したいとのことでしたが。理由をお伺いしても?」
僕は居住まいを正して、一つ静かに深呼吸をした。
「端的に言うならば、別れたいのです。他に一緒にいたいと思う人ができましてね。でも、そう簡単に離婚などできるものではないでしょう? なので、何か弱みをつかめないかと。例えば不倫をしている証拠とか」
「自分のことを棚に上げてよく言えますね」津田は僕の一番痛い所を無遠慮に突いてきた。「ところで、奥さんとはどのような経緯で結婚したのですか。調査の参考にしたいのですが」
今から八年前のことだ。大学院の二年生だった僕は、論文を書くために市立図書館にでかけた。
本の樹海で迷子になりかけた僕は、救いを求めて周囲を見回した。すると、数冊の本を抱えて書架の間を闊歩する一人の司書と目が合った。丸い銀縁メガネの奥の涼やかな瞳で僕を見つめると、彼女は
「何かお探しですか」
長い黒髪を後ろで無造作に束ねた、すっきりと整った細身の顔をにこりともさせずに、彼女はそう話しかけてきた。
肌がとても白い、というのが最初に受けた印象だった。いくつかある小さなホクロが、尚更に白さを浮き彫りにしていた。首筋や肩は華奢なほどに細いが、重そうな本を危なげなく抱えているので、ひ弱ではないのだろうと思えた。あまり抑揚のないスリムな体つきをしており、グレーのタイトなスカートスーツがよく似合っていた。しっかりと磨かれた黒いパンプスの踵はあまり高くないが、僕を見上げてはいなかった。
僕がいくつかの専門書の名を口にすると、彼女はすぐに探し出した。続いて、知りたい内容だけを伝えてリクエストした。その答が書いてある本を、なにほどの苦労もなしに取り出してみせた。その聡明さを、好ましく思った。
「こう言っては失礼ですが、本当に本に詳しいのですね」
「ええ。蔵書の全ての内容を記憶しておりますので」
絶句して彼女の顔を見つめた。
ふふ、冗談ですよ、と眼鏡の奥で目を細めた彼女を見た時、僕の胸の奥に
鈴木玲子さんは三歳年上だったが、僕を子供扱いしなかった。知性的で誇り高く自信に溢れてはいたが、他人を見下すような態度を取ることはない。
玲子さんはあまり笑わない。僕と手を繋いでいる時も。でもそれは、楽しくないからではなくて、感情を表に出すことに馴れていないだけだということが、すぐに分かった。
シャワーのあと、下着を着けるべきかどうかで悩んだ、とのちに彼女は打ち明けた。いきなり素っ裸だと下品に思われるかもしれないが、汚れた下着を着けるのもはばかられた、と言うのだ。かくして玲子さんが出した結論は、着替えの下着を用意する、というものだった。
二人の初めての日に、彼女はそのプランを実行した。僕は、洗い立てのようにきれい過ぎる下着に若干の違和感を覚えたものの、真っ白な清潔感に好感を新たにしたのを覚えている。作戦は成功、というわけだ。
白いシーツの上に広がった黒髪は、思っていたよりもずっと長くて、まだ湿っていた。
銀縁メガネを外した玲子さんが、少し目を細めて僕を見上げた。
「誠治くん。笑ってもいいんだけど」
「なに」
「私、初めてだから」
「だから」
「自分でしたことしかないの」
「で」
玲子さんは、ふう、っと息を吐いた。
「どうやったらいいか分からない。教えてくれる?」
本にはなんて書いてあったの、と僕が言うと、拗ねたように笑った。
その時の、少女のように頬を染めた玲子さんの姿は、今でも鮮明に目に浮かぶ。
二回目のシャワーを終えて珈琲を飲んでいる時、玲子さんが呟いた。結婚て、した方がいいのかな。
「僕はまだ院生だから。来年からは助手になることが決まっているけど、収入はあまり見込めない。だから、待っていてくれるかな、玲子さん」
彼女はコクン、と小さく頷いた。黒い瞳が揺れていた。
「なるほどねえ、なかなか素敵な出会いではございませんか」津田は夢見るような顔をした。「それなのに、新しい女ができたらポイですか」
言い返せなかった。腹の底に黒くて重い痛みが落ちていくのを感じた。
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