妻と愛人とバット女
宙灯花
1 彷徨う指先
雨よりも繊細な熱い水滴が二十二歳の瑞々しい素肌で弾けて、女らしい柔らかな曲面をなぞりながら滑り落ちていく。
「
桜花は僕が作曲の講師として勤めている音楽大学の四年生で、ヴァイオリンを専攻している。
専門科目以外の単位数が既に卒業要件を満たしている桜花には、数合わせのための受講をする必要はない。それなのに、閑散とした教室の片隅で、専門外であるはずの僕の講義に出席し続けていた。
教卓の前に立つ僕の傍に歩み寄ってきた桜花の声は少し震えていた。僕も学生の頃はこんなに初々しかったのだろうか。たった十年の違いが、とてつもなく遠く感じてしまう。
「どうしたの」
僕は講義に使った資料を片付ける手を止めて顔を上げた。
「先生に教えていただいた作曲理論をもとに、自分で曲を作ってみたんですけど」
桜花はそこで言葉を切って、逡巡するような上目遣いで僕を見つめた。
彼女のヴァイオリンの腕前は抜きん出て優れていた。入学の時点で既に学内でトップクラスだった。そればかりか、国内外のいくつものオーケストラから共演のオファーが来るほどに音楽性の面でも成熟していたし、実際にいくつもの大きな舞台を経験して喝采を浴びてきた。
繊細に。時に大胆に。桜花の演奏は、ダイナミックで豊かな表情の変化に特徴がある。そして、表面的な美しさだけを追求するのではなくて、心の深い所へ、場合によっては醜いとさえ言える領域にまで恐れずに踏み込んでいく。常に貪欲で、自分の求めるものに対して迷わずに手を伸ばし、妥協しない。
音楽に限らず、おおよそ芸術は人柄を写し出す。
桜花の振る舞いは、時に周囲の誤解を生むこともあるけれど、音楽に対する真っ直ぐで真摯な姿勢は、誰もが認めていた。
「嬉しいねえ。みんな講義は受けるけど、その知識を作品にしようとはしない。だから、正直に言って寂しいと思ってたんだ。是非、見せてもらえないかな」
そう言うと、桜花は顔色を明るくして頷いた。
二人の出会いには、一人の学生が大きな役割を果たした。
二年前のある日、僕と師匠を同じくする直系の後輩から相談された。羽村桜花をイメージして曲を書いたものの、畏れ多くて演奏の依頼ができないと言う。
作曲の学生には年に二回、学内で作品を発表する機会が与えられる。その時に演奏してほしいらしい。
取り敢えず作品を見せてもらった。もしもそれがつまらない曲だったなら、そうだねえ、無理だねえ、あの、羽村桜花だもんねえ、で済ますつもりだった。だが、彼女の作品は桜花の特徴を見事に生かしているばかりか、単純に音楽としてみても極めて魅力的だった。
よし任せろ。僕は興奮のあまり、まったく面識のない桜花に突撃した。桜花は驚いて、身を引き気味になりながら瞬きを繰り返していた。だが、熱意は通じた。後輩を交えた三者で何度も本番の打ち合わせやリハーサルをした。
廊下ですれ違えばにこやかに挨拶を交わすし、時には二人でお茶に行ったりもするぐらいに、僕は桜花と親しくなった。そんな機会によく利用したのが、今来ている店だ。
剥き出しの自然木の香りと風合いが
しかし、メインストリートから数本外れた路地に面しているという立地や、珈琲と軽食以外にメニューがないことから、他の教職員や学生にはあまり知られていない。そのことが
屋根裏部屋のように秘密めいた二階席は特にお気に入りで、気の置けない相手しか連れてきたことはない。
一方の壁には、田の字型に木の桟が嵌った小さな窓が三つ並んでいる。今は、斜めに差す陽が室内を柔らかく照らし出していた。その手前に
桜花がレッスンバッグから恥ずかしそうに取り出した楽譜は、A4のルーズリーフに鉛筆で音符が書き込まれたものだった。僕もかつては作曲のためのスケッチによく使っていた組み合わせだ。最近はタブレット端末にメモをとるようになったので、紙の手触りがなんだか懐かしかった。
敢えて個別の音符に焦点を絞らずに全体を眺めた。悪くない、というのが第一印象だった。
続いて僕は、詳細に音を吟味していった。大きなミスは見当たらない。推敲をじっくりと重ねたことが明確に見て取れる。しかし、問題点がないわけではなかった。
「初めてにしてはよくできていると思うよ。ただ、唐突に響きが重過ぎる部分がいくつかあるね。例えば、こことか」
「どこですか」
楽譜の上をすべらせた二人の指先が、一つの音符の上で触れ合った。
僕らは呼吸を忘れたように静止した。
桜花がどのような感情を僕に対して抱き続けてきたのか、気づいていなかったわけではない。だが、妻のある身でその想いに応えることはできなかった。そしてもちろん、僕も自分自身の気持ちに素直になることは許されない。僕は、楽譜の上からそっと手を引いた。
「この曲には続きがあるようだけど、まだ書いてないの?」
場をとりつくろうように、僕は尋ねた。
「いいえ、あります。――私の部屋に」
決意を込めて挑むように僕を見つめる桜花の瞳は、深く潤んで切なげに揺れていた。
窓の外を渡る風の音がやんだ気がした。
そこから二人の針が動き始めた。
二枚の大きなタオルが、はらりとカーペットに落ちた。
ありのままの姿をすべて曝け出した桜花の若々しい肉体から、仄かな湯の匂いが立ち上ってくる。しっとりと潤った肌の温もりを確かめるようにそっと触れた僕の指先が、戸惑いながらも隅々まで余す所なく、滑るように桜花をなぞっていく。
白く柔らかな桜花の肌に触れる度、自分はこのために生まれてきたのではないだろうかと思ってしまう。それほどまでに、桜花と接した時の心地よさは僕の心の深い所を魅惑して痺れさせる。
妻とはここ数年、夫婦としての営みがない。
家事を分担し、収入をシェアし、休日を共に過ごしている。傍目には夫婦仲がうまくいっているように見えるだろう。実際、家庭としての機能は問題なく果たしている。全く会話がないわけでもないし、険悪な雰囲気が漂ってもいない。
しかし、彼女は家では本を読んでいることが多くて、話しかけても上の空だし、僕は僕で音楽を聴きだすと口を閉ざす。
それぞれが、それぞれの時間を優先して、それぞれで過ごす。同じ家で暮らしながら、そんな状況がいつの間にか普通になっていた。心地よくはあるけれど、その代償なのだろうか、傍にいることに、かつてのようなときめきを感じない。まるで、図書室でたまたま近くに座っただけの人。そんな感覚だ。
一旦、心にできてしまった柔らかで透明な壁は、たたいても砕けないし、かといって突き抜けられるわけでもない。
すぐ近くに見えていているのに、僕らは時空の断層に阻まれて、けっして触れ合うことができないのだ。
僕と桜花は一つになって高みへと上り詰めた。やむにやまれぬ浮遊感の中で息を詰めて同時に身を震わせる。じっと見つめ合いながら、やがて脱力して白いシーツの上に崩れ落ちた。
「あと二週間ほどで君は卒業だな」
天井を見つめながら、考えたくないことを敢えて口に出してみた。
「卒業したら地元に帰る、というのが親との約束だから、あんまり会えなくなりますね」
ずっと一緒にいられたらいいのに。そんな桜花の呟きに、僕は明確に答えることができない。その代わりに、冗談めかした提案をしてみた。
「このキャンペーン、利用してみようか」
テーブルの上に僕のスマホが無造作に置かれている。
「何に使うんですか」
僕は答えずに、もう一度唇を重ねた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます