第4話
自分の顔を何かが這うような違和感で目が覚める。遅れてそれが涙だと気付いた時には枕に大きな染みができていた。明らかに眠る前より重くなった体をなんとか起こし、さらに動かなくなった頭を抱える。妻と娘に会いたい。その思いで頭が埋め尽くされ、気付けばあれの部屋に私はいた。肌寒さも息の白さも気にならない。ただ娘に似たそれを視界に収めていたかった。余計なものなど見なくて済むように、それで視界を埋めたかった。眠っていれば本当に優に似ているのに。私は目の前の存在が嫌いだ。心底嫌いだ。それは私の愚かさの象徴だからだ。なのに私はそれを捨てないでいる。何故だ。何故私はこれを処分しない。ああ、もう何もわからない。それに私は…私は何を忘れてしまったのだ。……それでも、これだけは、あの子と共に暮らしていた日々は、どれだけ月日が経とうと忘れることはないだろう。
十年前、優は人間である私と雪女である六花の間に産まれた。そしてその日は、私が妻を失った日にもなったのだ。
体に自分以外の魂を宿したことで六花は体調を崩しており、雪女にとって快適な環境でお産をするために吾味の山脈に戻っていた。お産自体は問題なく終えることができたが、その後が問題だった。産まれて来た娘は雪山の寒さに耐えられる体をしていなかったのだ。きっと私の血が原因なのだろう。雪女にとって快適な寒さは、娘にとっては命を脅かすものだった。そのことに気付いた六花は急いで私のもとに娘を届けようとし、真夏の太陽に晒され溶けてしまった。六花が麓に近づいた合図、季節外れの雪が降り始めたので私も吾味の山脈へと向かっていたが間に合わなかった。あと一息で六花のもとへ辿り着くというところで、六花は死んでしまったのだ。透明な結晶となったその腕からこぼれ落ちた娘を抱き止めることは出来たが、最期まで娘のことを想い続けた六花を抱きしめることは出来なかった。残酷な時の流れは、ただ呆然と六花だった地面のシミを見つめることしか出来ない私を置いて進んでいくのだ。
私の腕の中で泣き続ける娘から水滴が滴り出した時、ようやく私の意識はこの世に戻って来た。六花の血を引く娘は、六花と同じように溶けかけていたのだ。そこからどうにかして家に帰ったのだろう。三人で暮らすはずだった家には、娘の小さな泣き声だけが響いていた。
何もしたくない、このまま六花と同じところに行きたい。そう思うたびに娘の声が私を現実に引き戻した。そうだ、この子がいる。私と六花の子供。六花が命を懸けて生かそうとした娘。私はこの子に救われた。もうどうでいいと思ってしまったこの命、この子のために使い尽くそう。そうして私は前を向くことができた。
娘には六花が考えていた「優」という名前をつけた。暖かく、優しい子に育って欲しかったらしい。きっとその願いは叶うだろう。私が叶えてみせる。一人で子供を育てるのは今まで行ってきたどの研究より大変で、体力も精神力もどんどんすり減っていった。それでも娘の成長を実感する日々は私にとって、かけがえのないものであった。
優は人間より熱に弱く、雪女より寒さに弱いというなんとも生きづらい体をしていた。それでも妻と娘のために環境を整えたこの家でなら、なんの心配もせずに暮らすことができた。でもそれではダメだろう。いつかこの子は外に興味を持つ。ずっとこの家にいるわけにはいかないのだから。そのために私は自分が持ち得る全ての知識技能を駆使して、どうにか優の体質を改善しようとした。しかしいくら前を向けたからと言って、私の未熟さがどうにかなる訳もなく。あの日と同じ真夏に、その研究は意味を失ってしまった。
優が五歳になった誕生日。私に構ってもらいたくて仕方がない優から少し、ほんの少しの間だけ目を離してしまった。その少しの間で優は外に出てしまい、六花と同じように太陽に晒され死んでしまった。どうして外に出てしまったのかは未だにわからない。ただ優が死んでしまったという事実だけが残り続けている。玄関前にできていた水溜りを眺める。六花も優も、一欠片も残さずこの世から消えてしまった。先程まで確かにあった水溜りも、すぐに蒸発して無くなってしまった。今度こそ私は、生きる理由を見失った。
人を生かす術は限られているが、殺す術などいくらでもある。早く最愛達のもとに行こうと台所で包丁を探していると、見知らぬ男が勝手に家に入って来た。一目で分かった。それは人間ではない。姿は人間そのものだがなんというのか、気配が違った。恐らく六花と同じ、妖怪の類だろう。その男は包丁を手にする私を見るなり、楽しそうに一人でに話し出した
「面白いものを見させてもらったよ、多賀山楽。人と妖の新たな可能性を切り開く者が現れるとは。心ばかりだが君への謝礼だ。先程亡くなった君の娘の魂を捕まえておいた。君なら上手く使えるだろう?また面白いものを見せてくれ、期待しているぞ」
そんなことを一方的に告げて鳥籠のような物を私に押し付けた男は、なんの痕跡も残さず何処かへと消え去った。
手元に残る鳥籠を見つめ、あの男の言葉を反芻する。娘の魂を捕まえた?上手く使え?一体何を言っているんだ。娘を蘇らせろとでも言うのか?そんな事できるわけが……そうだ、そうか。私はクローンの研究をしていたのだ。クローン技術と娘の魂を使えば娘を取り戻すことができる。きっとそうだろう。
前を向くことはもうできなかった。けれども希望が見つかった。すぐに思考を巡らせている私の視界の隅で、粉々になった包丁の刃が輝いた。なんだか先程の男に「死ぬことは許さない」と言われているように感じて、どうしてもその輝きから目を逸らすことができなかった。
そこから五年が経ち、ようやく娘の体を作り上げることができた。今度こそ完璧な体だ。きっと外に出ても生きていけるだろう。そう思い込み、私は大した耐久実験もせずにその体に娘の魂を吹き込んだ。私は疲れ果てていた。もう心のどこかでは終わらせたいと思っていたのだろう。結果その体は魂との融合で欠陥ばかりの失敗作となり、今に至る。馬鹿なことをした。あの時受け入れていたら、こうして優という存在を汚すこともなかったのに。
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