マリアージュ

オレンジ11

マリアージュ

 春眠暁を覚えずというけれど、この季節の布団は天国だ。ぬくぬくといつまでもくるまっていたくなる。


 だけど。


 私は目覚ましが鳴る前に布団をはねのけるようにして、がばりと起き上がった。

 今日は記念すべき日だ。


 鮭おにぎりとほうじ茶の簡単な朝食を済ませると、まるでダンスをするようにうきうきと身支度を整える。真っ白なTシャツにデニムが今日から私の制服で、まだ肌寒い今朝はその上に厚手のパーカーを羽織り、アパートの部屋を出て自転車に乗った。

 川沿いの道をしばらく走り、緑道に入る。立ち並ぶ桜の木は枝の先がピンク色を帯び、開花が間近であることを知らせている。

 そのまま五分ほど自転車を走らせ、緑道の出口にある小さな戸建ての前で止まり、建物の脇に自転車を停めた。いわゆる狭小三階建て、都内でよく見られる幅の狭い戸建ての一階が今日から私の職場――というか城――になる。


 この物件を見つけてきたのは新藤で、新藤と私は先月まで都内の有名フレンチでソムリエとパティシエールとして働いていた。

 ソムリエというとワインの専門家のイメージが強く、実際フレンチレストランでは料理に合わせるワインを選ぶのが大きな役割であるが、実は飲み物全般も守備範囲で、新藤は私が作るデザートに合わせる飲み物を、私の想像が及ばない範囲で選んでくれていた。

 新藤に出会うまで、私は恥ずかしながら自分の作るデザートに合わせる飲み物について、「これは紅茶が合うな」「こっちはコーヒー」と二種類しか考えていなかったのだが、新藤は違ったのだ。


 彼は、デザートに合わせる飲み物を「紅茶・コーヒー・ハーブティー」の三種類に限定するのみならず、日本茶を加えて四種類にし、その下をさらに細かく――日本茶は緑茶とほうじ茶の二種類だが、コーヒーならアメリカン、エスプレッソ、コロンビア、グアテマラ、コスタリカ、etc.、ハーブティーならミント、カモミール、タイム、ローズ、レモングラス 、ラベンダー、レモンバーム、ローリエ、etc.、紅茶ならダージリン、ウバ、キームン、アッサム、ラプサンスーチョン、ニルギリ、ディンブラ、キャンディ、ルフナ、ヌワラエリア、アールグレイ、レディ・グレイ、etc.――というように分類し、もちろんお客様の好みを尊重しつつではあるが、私の作るデセールに合わせて必要であれば新しいコーヒーや茶葉の仕入れをし、お客様に勧めてくれたのだ。


 最初は「コース料理の〆に相応しいデセールを」とだけ考えて作っていた私だったが、ゴーダチーズを使った濃厚なチーズケーキにラプサンスーチョンを合わせたとか、胡麻のブランマンジェにブルーマウンテンを合わせたとか聞いたり、まかないで実際に新藤お薦めの飲み物との組み合わせで余ったデセールを食べたりしているうちに、新藤の創り出すマリアージュの虜になってしまった。

 そして、「ねえ、来月のコースの〆に飲んで欲しい飲み物って何?」と新藤に聞くようになり、「レディ・グレイ」とか「ミントティー」とかの答えに合わせ、厨房が暇な時間に新藤が淹れてくれたおいしいそれらの味をしっかり確認してから、デセールを考えるようになった。


 そうするうちにいつしか、私が作るデセールと新藤が選ぶ飲み物のマリアージュが評判を呼び、それら目当てで来店されるお客様が増えた。そして調子に乗った私はある日、言った。


「独立なんて夢のまた夢って思っていたけど、新藤とならできる気がする」


と。本当にそう思った。何の疑いもなく。新藤と二人きりになった瞬間、その言葉はこぼれ落ちるようにして口から出た。


 そうして、私たちは独立を決めた。小さなカフェで、おいしいケーキとそれに合わせた飲み物を提供するのだ。


 私の作るケーキと新藤の選ぶ飲み物があれば国士無双、いや違った、天下無双だ。


 私は弾む気持ちを押さえながら、新藤と二人でペンキを塗ったまっ白なドアを開けた。


(了)



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