鏡門から浮雲山房(6)
「それでね、タケウチさんの息子さんが手伝ってくれることになりましてね。おかげで大助かりですよ」
「ほう。あの息子がよくもまあ。変わるもんだな」
二人の話に耳を傾けながら、私はカクの持ってきた酒に
「あ」
「おやおや」
会話の途切れた二人が
「つまみがなくなったか。まあ、心配するな。でかいスルメがあるさ。ちょっとコンロで
トキハシは駄菓子の袋を私に放ると空になった寿司桶とスルメを抱え、上機嫌で台所へと歩いていった。
それを見送った私とカクは互いに会話のきっかけを探っていた。
「ご主人様は――」
「あ!」
カクが何かを言い始めた途端、台所からトキハシの声がした。私とカクが立ちあがって台所に行くと、彼はザリガニの
「すっかり忘れてた、こいつらのこと」
日本酒の酔いが回り始めた頭には、そう言いながら困った表情を浮かべるトキハシの姿が、
「ザリガニなんて、何処でとってきたんですか」
カクが興味深そうにボウルの中を覗き込んだ。
「昼間、
「何処の田圃です?」
「タカハシのおっさんのとこ」
「ああ、あそこなら安心ですね。タカハシさん、農薬使いませんから。食べるんですか、それ」
カクの問いかけに、私とトキハシは
「だな。食うか」
トキハシの提案に、私は黙って
「では、私にお任せを」
カクがスーツの
「カクさん、料理できるの?」
そう問いかけた私は、自身が初めてカクの名を呼んだことに気づいた。
「ええ、お任せください。ザリガニくらい調理できないとあっては、任務に
胸を張る彼が続けて小さく
「まあ、顔向けといっても、私、顔無いんですけど」
そんな私をトキハシは驚いた顔で見ていた。表情の読めぬカクも、恐らくは同じであった。
「そんなに笑うか?」
「ごめんごめん。ちょっと、止まらなくて。カクさん、面白いね」
笑いの止まらない私の横で、トキハシは首を傾げ、カクは照れたようなそぶりを見せていた。
「さて、どうしましょうかね、これ」
ようやく私の笑いが収まった頃、カクは腕組みをしてボウルのザリガニたちと対峙していた。
「
酔いの回ってきた様子のトキハシは
「とはいいましてもね。今日とってきたんでしょう、この子たち。本当は泥抜きをして臭みを取った方がいいんですけどね」
「泥抜きってどれくらいよ」
「二、三日ってところですかね」
「二、三日? 駄目だ駄目だ。こいつらの臭みが取れる前にこの世界が終わるぞ」
「ですよねえ」
スケールが大きいのか小さいのかよく分からないやりとりの後、しばらく考えていたカクはやがて手を叩いた。
「よし。味噌汁にしましょう。臭みは味噌がなんとかしてくれるでしょう」
「お、味噌汁か。いいな。飲んだ後の味噌汁は格別だからな」
トキハシは酒飲みらしく賛同し、私も頷いた。
カクは早速、鍋に湯を沸かすと、そこに入念に水洗いしたザリガニたちを入れた。黒みがかっていた彼らは次第に真っ赤に色を変えた。
「おお、いよいよエビだな、こりゃ。美味そうだ」
「どうですかねえ。あ、ご主人様、その換気扇回してくれます?」
カクはてきぱきと動きだした。
「トキハシさん、お味噌、何処です?」
「そっちの戸棚にないか」
「ありませんけど」
「え、あ、じゃあこっちだ」
「そうだ、わかめとかお
「俺の住んでる家だぞ。味噌があっただけ幸いだ」
「ですよね」
「ほら、ネギもいれとけ」
「え、これ、本当にネギですか? 枯れてません?」
「大丈夫だよ。多分。臭み消しだ」
「いつのネギです?」
「さあ」
「じゃあ、あとはよそうだけですから、お二人は居間で待っていてください」
トキハシと居間で酒を飲みつつ待っていると、カクが
「はい、できました。ザリガニの味噌汁です」
真っ赤なザリガニが椀からはみ出して盛られている様は、いかにも豪勢な料理のようであった。
「おお、なかなか様になってるな。お先にいただき」
トキハシは先陣を切って味噌汁へ口を付けた。
「むへ」
私とカクが見守る中、彼は椀を口から離し、妙な声を出した。
「どうしたの?」
「不味かったですか」
トキハシはものも言わず、湯のみの酒を
恐る恐る、ひと口飲んでみると、別段、普通の味噌汁と変わらないように感じた。さてはトキハシに
「うへえ」
私も思わず、トキハシと同じように酒を呷ろうとしたが、湯のみに酒は
「やっぱり、泥抜き、大事ですね」
静まり返る室内で、皆が一様に疲弊していた。
数刻の後、焼きあがった巨大なスルメを
「それにしても、トキハシさん、ご主人様。私は嬉しゅうございます。この世界が消えてしまう前に、こうして楽しく、酒を
「いいってことよ」
「私が言うのもおかしなな話かもしれませんが、きっと、睡中都市は再興されるだろうと思います。私は睡中都市のほんの一部であるこの町しか知りませんが、
縁側から見える月を、カクは眺めていた。私は再興された睡中都市に覚醒党員が存在していないのではないかという残酷な考えを口にしなかった。
「ご主人様」
私の視界の中心部分がなくなった。カクと目が合ったのであった、
「今、新たな睡中都市に私たちが存在する余地があるのかと、お考えになったでしょう?」
見破られ、私は白状した。
「恐れ入ったよ。悪かったね、そんなことを思ってしまって」
「いいのですよ」
カクはゆっくりと酒を虚無に流し込んだ。
「私は次の世界にも、必ずや我らは存在していると確信していますよ」
「どうして?」
「私たちはそういう存在だからです。ご主人様。私の核が、お分かりになりますか」
トキハシが音をたてて湯のみを置いた。
「カクの核ってか」
ひとりで笑う彼は酔っているようであった。私たちはそれを愛想笑いで誤魔化した。
「ええと、私の核、というよりも、覚醒党員の核です。私たちは皆、同じ核を持って生まれたのです。お分かりになりますか」
「よし、当ててみせよう」
私は持っていたスルメを食べ、酒を飲んでから、脳内の覚醒党員の情報をかき集めた。
彼らはどんな存在だ? 夢を消し去り、私たちを現実へ帰す存在。
「現実?」
「違います」
「じゃあ、消去」
「残念」
「虚構?」
「それも違います」
「じゃあ、破壊だろう」
「そんな
早くも手詰まりであった。今、キミが隣に居るならば、二人でこのゲームに挑みたかった。
「では、ヒントです。もっと一般的な言葉です。誰しもが一度は口にしたことのある言葉ですよ」
ヒントを与えられている筈が、余計に分からなくなってきた。
一般的で、誰しもが口にしたことのある言葉。それでいて、覚醒党員の存在の核になり得る言葉……。夢を、書き
「
スルメを虚無で食べる彼はきっと、笑みを浮かべていた。
「きっと、ご主人様は覚醒党員の行動に注意を向けすぎているのではありませんか。それら皆、手段にすぎません、どうして覚醒党員はそんなことをするのでしょう」
そうだ。ひとつのことに捕らわれてはいけない。オールトの図書館で恋人たちに教えてもらったことだ。もっと、広く考えなければ。
「さて、大ヒントです。この睡中都市での出来事を、ご主人様の内面で起こっていることと
「不安?」
「大正解です」
カクは小さく拍手をした。
「私たち覚醒党員は人々の不安を核にしているのです。不安とは強力なもの。在りもしないゲンジツを生みだし、描いた理想を無で塗り替えることも
カクは湯のみに残っていた酒を飲み干した。
「きっと、ご主人様はこれからも、広義の創作を続けることでしょう。その時、いつでも私たちはそばに居ます。貴方様がしっかりと現実を見ることができるようにね。これからも、よろしくお願いします」
いつの間にか、トキハシはいびきを立てて眠っていた。
部屋を片付け、トキハシに布団を掛け、台所で洗い物を済ませると、カクは帰っていった。
布団に入り、横になっていると、果たして夢の中でも眠れるものだろうかと疑問が浮かんだ。私はトキハシのいびきから逃れるようにして寝返りを打ち、縁側の方を向いた。月明かりが音もなく降り、庭の木や草をかすかに照らしていた。今日の出来事を思い返しているうちに、私は自身があれだけ憎んでいた覚醒党員と酒を
「ウツギが今日の様子を見たら、なんと言うだろう。私のことを
そんな独り言から思考は広がり、私は今日の席に彼らが居たらどれ程
トアノならば、
虫の声を聞きながら、勝手な妄想を繰り広げているうちに、私は夢の中で、眠りに落ちていた。
夢の中で、焼け落ちたオールトの図書館が星月夜に照らされていた。
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