幕間Ⅰ(2)
ようやく深夜と呼べるようになった時刻、私は目的のバーへと辿り着いた。珍しく、他に客は居なかった。
「おや。こんばんは」
マスターが落ち着いた声で私に声をかけた。
「こんばんは」
私はマスターに挨拶をしながら、手近なカウンターへと腰を下ろした。
「何になさいますか」
「ジントニックを」
「はい」
私はテーブルの隅にあった灰皿を手元に引き寄せ、
思えば、長い夢をみた。そして今、私は自身の創作の原初である憎悪を、実感を伴って理解したつもりだった。
今ならば、ウツギと少しは対等に話ができそうな気がした。
「お待たせしました」
私の前に音もたてずに細長いグラスが置かれた。私はひとりで乾杯するような心持ちでグラスの底をテーブルに優しくぶつけてから、その飲み慣れたジュニパー・ベリーの香るビターな酒を喉へ流し込んだ。自宅で飲んだ水道水割りとは雲泥の差であると思うと同時に、そんなものと、この酒を比べてしまったことを、心の中でマスター詫びた。
「何か、良いことでもありましたか」
ジャケットを着て背筋を伸ばしたままの姿勢でマスターが尋ねた。
「ええ。まあ、そんなところで。顔に出ていましたか」
「いえ、そんなことは。なんとなく、そんな気がしただけですよ」
少しなら、私の心の内にあることを話してもよいのかもしれない、と思い始めていた。まさか、
私はジントニックを飲みながら、どう話を展開しようかと考え、
「実は、少し、いい夢をみましてね。夢の中で、私は作家だったんです。そして、とても面白い小説を書いていたような気がするんです。何かこう、人が夢をみることで別の世界と繋がる、といった夢を」
「なるほど。作家、ですか」
マスターは驚く素振りも見せず、
「不思議ですよね。私が作家なんて」
「いえ、そうでもありませんよ」
マスターは背筋を伸ばしたままの姿勢で穏やかに答えた。
「向いているかもしれませんよ、作家」
「そうですかね」
「ええ、度々思っていたんですよ。普段の言葉遣いというのでしょうか、言葉選びというのでしょうか、何かこう、お上手だと」
思いもしなかった評価に、私はこそばゆいような思いがした。
「そうだったんですか」
「ええ。だから、貴方の書いた小説なら、読んでみたいなと思いますよ。どうです、その夢で見た内容をもとにして、小説を書いてみては」
マスターの言葉が半ば冗談なのか、本気なのか、私には判別できなかった。もしかすると彼にであれば、ありのままを語ってもよいのではないかと思い始めていた。
「そうですね。書いてみても、面白いかもしれませんね。今でも少し、内容は覚えています。夢の中で書いた小説に出てくる都市には全ての創作された者たちが集うということになっていました」
「ほう。面白いですね」
マスターはわずか、前のめりになった。
「きっと、そこでは創作された者たちが幸せに暮らしていたんでしょう。しかし、そこに暗い影が落ちたのです」
私はグラスに残っていた酒を飲み干した。
「なるほど、お酒はいかがしましょうか」
「ジンライムをお願いします」
「はい」
マスターはロックグラスに大きな氷をひとつだけ入れ、そこにたっぷりとジンを注いだ。
「それで、その暗い影とはなんです」
「つまり、現実に住む人々が夢を消滅させているというのです。在りもしない間違った現実を宣言することによって」
串切りのライムを絞ろうとしていたマスターの手が止まった。
「間違った現実?」
「はい。望まない苦悩を求めることや、幸せを意図して遠ざけることです。そして、これが現実だと宣言することで、世界は本当にそうなってしまうのだそうです」
マスターは無言のまま、できあがった酒を私の前に置いた。
「それ、本当にただの夢の話ですか?」
核心をついた言葉に、グラスへ伸ばしかけた手が止まった。
「え?」
「ただの夢に過ぎてはでき過ぎていませんかね。私も夢をよくみますが、大半は脈絡のない、妙な夢ばかりです。それ程に面白い夢とは。いよいよ、そのままにしておけませんね。どうです、やっぱり、書いてみては」
ジンライムに口を付けると、ジンの鋭いアルコールが感じられた。もう少し酔いが回れば、
わずかな脚色が入っているとはいえ、作家としての私や睡中都市を肯定されて、私は言い知れぬ
「そして、夢で書いていた小説の都市には名前がありまして――」
突如、勢いよく店のドアが開いた。
「マスター!」
大声を張りあげて入ってきた人物があった。スキンヘッドの四十代、少し鼻にかかる声。Tさんである。へべれけである。まずい、と私は出かかった言葉をジンライムで
「ジントニックちょうだい。あと、マスターもなんか一杯飲んで」
「ありがとうございます」
Tさんは私の背後、四人掛けの席にどっかりと腰を下ろした。
最悪のタイミングであった。
一体、この
「どう! マスター! 最近は!」
声が大きい。
「まあまあです」
「あーそう」
Tさんは
マスターは私に失礼、と声をかけるとTさんと自分の酒を作り、彼の席へとそれを運んだ。
「お待たせしました。いただきます」
「うん。どうぞ! そこ座って」
「失礼します」
マスターとの会話を中断せられた私はため息をつき、
二本目の煙草に火を点けた。なんだかわけの分からないことをがなっているTさんの声を聞いているうちに、私は自らがいかにくだらない世界に住んでいるかということを思い知らされてしまったような気がした。酒は少しずつ、酔いをもたらしてきたものの、Tさんによって展開されるくだらぬ世界を目の当たりにした私からは睡中都市への熱が冷め始めてすらいた。同時に、へべれけのTさんごときにこんな感情を
わずか悪酔いの気配すら忍び寄る脳内で今日一日のことを思い返すと、幾らか馬鹿馬鹿しいようにすら思えた。
「だからあ! 俺はね。言ってやったの。彼女にはしてあげてもいいよって。でも結婚はヤダよって。それでもいいんだったら彼女にしてあげるよってさ」
へべれけで色恋の話とは恐れ入った。もはや天晴れである。この男、自分をなんだと思っているのだ。大体、この男もこの男だが、コレに恋心を抱く女も女だ。気は確かか? もしこの話がこのスキンヘッドによる壮大な勘違いであったとしても、そのきっかけを生みだした女性に、私は一言、お
そもそも色恋ってツラじゃねえぞ。池の
氷が融け、わずか薄くなった
二転三転する話題を誇らしげに垂れ流す池の鯉は今や滝を登らん勢いである。マスターの居なくなったバーカウンターの奥ではウイスキーやリキュールの瓶が大層握り心地の良さそうな鈍器として私を誘惑していた。それでもなんとか正気を保ち、鯉の発する声を聞くまいと私が聴覚と
「だからね、マスター。俺は言ってやったのよ。残酷な現実を教えてあげようかってね。現実は甘くないよって。それが現実なんだよってね」
どんな
私は残っていたジンライムを
帰路、一度発火した憎悪の炎はなかなか鎮火する様子を見せなかった。残酷な現実、現実は甘くない、これが現実。その宣言で本当に世界が書き換えられてしまうかもしれないというのに、よくも。
たった数十年の、それも自身の足跡しか知らぬ存在が世界としての現実を定義するな。そんなに残酷で苦しい現実がよいのならひとりでそこに閉じこもっていろ。
しかし、と、私は一日中頭の片隅にこびりついていた疑問に意識を向けた。
実感を伴った宣言が実現するというのなら、夢こそ現実ではないか。そして宣言によって望まぬ世界を消し、住む世界を決定できるとすれば、私たちが現実と呼んでいるものこそ、夢ではないか。
この極めて本質的な自問のきっかけが池の鯉であったことは
現実とは。
私が憎んでいる在りもしないゲンジツとは、なんだ。苦悩を美徳とする世間。己自身を生きようとする者の意思を夢と冷笑し、未成熟と断ずる社会。
しかし、しかしそれは本当か? 本当に世間には、社会にはその様な構造があるのか。私が勝手に想定しているだけではないだろうか。己の信じたくない事実を勝手に拡大し、
もしそうだとすれば、私の姿とさっき見た池の鯉、Tさんの姿は何も変わらない。わけの分からないことをまき散らしているだけだ。
その場合、私の為そうとしている創作とはなんだ。相手無き闘争、悲劇のひとり芝居、勇者ごっこ、空回り。それらこそ、私の最も恐れる結論であった。
仮にそうでなかったとして。私が悪だと目の敵にするゲンジツなるものが存在していたとして、そんな世界こそ、本来の世界、現実なのではないだろうか。やはり、苦悩を乗り越えることこそ美徳であり、夢に生きるなどという
「睡中都市」
トアノやウツギは目の前の現実を受け入れられない私の弁明。水晶塔は夢を漂白し、現実へ私を回帰させようとする指針。もしそうならば、なんともみっともない。
世間の人々がとっくに了解していた当たり前の事実に周回遅れで気がつき始めたような感覚が肌寒さを伴って生じた。
世界の姿がそうなのであれば、それに準ずるしかない。巨大な機構に立ち向かったとて、それに勝てる筈がない。やはり、誰かが言うようにいい年をした者は夢ではなく、現実をみるように生きなければならないのかもしれない。
嗚呼。しかし、それでも!
まだ私を睡中都市に繋ぎ留めている細い細い蜘蛛の糸。ゲンジツへの憎悪を私はどうしても断ち切れないでいた。
つまり、私には覚悟が無かった。夢に自分自身を生かす覚悟も、現実を断定する覚悟も、どちらも無かった。この
今、私は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます