汽車から終の町(2)
やがて私たちの行く手に大きな交差点が見えてきた。一台の車も通らない車道はアスファルトのひび割れから植物を
交差点の中央に差しかかると、トアノが立ち止まった。彼が見上げる先には
「ねえ、主人、キミ。僕たちによって定められた時間というのは、
「ああ、そうだね」
トアノの言葉の意味が、実感を
キミはどう? この、静止したかのような景色には本来の時間の流れがあるような気がしないかい。
「僕はね、この町を訪れる度にそんなことを思うんだ」
「うん。普段の私たちにとって、時間とはあまりに
トアノは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「僕もそう思うよ。時間とは、全ての生命、物質、現象に内包されているものじゃないかな。主人の一秒と、キミの一秒、そして僕の一秒は異なっているんだ。この町を訪れて時間の概念があやふやになるのは、辺りの建物が内包する途方もない一秒を僕たちが感じ取っているからなのかもしれないね。
私たちは交差点の中央で
全ての者は役割も、目的も、意味さえ無く、ただ、そこに在った。私たち三人の内包する時間は、町全体の巨大な時間に溶け出し、一体化していた。そしてその自覚が膨大な安心感となって私たちを包んでいた。
「さあ、ここだ」
しばらく歩いた後、トアノは大きな建物の前で足を止めた。門には
「ここで主人を待っている人物が、誰だか分かるかい」
突然、トアノから投げかけられた質問に、私は答えられなかった。
「ここで主人を待っているのは、ウツギだ」
「ウツギ?」
その名は、私の心の底にあった何かしらに、確かに反応した。しかし、まだ、思いだせなかった。
「ゆっくり思いだせばいいさ。僕はね、ウツギと会うことをとおして、主人に思いだしてほしいんだ。君の創作の源流をね」
創作。それは私がすっかり
そんな自問とほぼ同時に回答らしきものが頭に浮かんだ。
必要でないから。
どうやらこれが真理らしかった。そう考えると、急に全てのことが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
きっと過去の私は創作に並々ならぬ気力を込めていたのであろう。しかし、それがなんだというのだ。結局、私はそれを忘れて生きているではないか。
我が身を客観視してみると、
トアノもキミも、黙って立ち尽くしていた。
今見ている世界だって、とどのつまりはただの夢だ。醒めてしまえばもはや何も残らない。こんな世界が存在している筈はないのだ。トアノと出会ってから、わずかでも創作に立ち戻ったと勘違いした姿勢は未成熟な精神の見せる幻影だったのだ。
一体どうして私はこんなにも素直にトアノの、いや、夢に出てきただけの幻の言うことを信じてしまったのか。憐れな私は断ち切れぬ幻想の世界を勝手に作りだし、夢みることを正当化させようとしたに過ぎない。未練がましい。早く醒めなければ。
私はキミの手を引いて、
「主人」
肩に置かれた手を、私は反射的に払いのけた。トアノの姿が、甘い言葉で私を
「今は、何も信じなくていい。けれど、何も否定しないでくれ。もう少しの間、夢に生きていてくれ」
夢と現実の間に揺れ動く私を、トアノの言葉がこの場所に固定しようとしていた。私の心はすっかり寄る辺を失くし、浮遊してしまった。
夢に生きる? 不誠実だ!
トアノの存在が私の心を深く
キミはどう思う? 夢に生きるなどということが果たして私たちに許されているんだろうか。そんなことを続けていたら、いつか、取り返しのつかないことになりそうな気がするよ。
ふと、私はあるものを視界に入れ、足を止めた。トアノが、二、三歩足を進めてから私に気がつき戻ってきた。
「どうしたんだい」
「いや」
そんなささやかな会話が、コンクリート造りの廊下に吸収されてゆく気がした。私はキミと並んで、掲示板に貼りだされていた古ぼけた
“演劇部部員求む! 君だけの世界を表現しよう”
劣化し、あちこち波打った、そのお目出度い広告を私は破り捨ててしまいたい衝動に駆られていた。
「すまない。主人を葛藤させているのは僕だ。僕が君をこっちに呼ばなければ、君はそんなにも苦しまなかったかもしれない。そして、その方が主人は幸せだったのかもしれない。でも、もう少しだけここに居て。葛藤しているということは、まだ君が夢みることを諦めていないということだ。忘れてしまった
窓から差し込む残光がトアノの顔に影を生んだ。私は深呼吸して、
「歩けるかい」
「うん」
「さあ、ここだよ。この先に、ウツギがいる。僕と同じように、かつての主人の創作に幾度も出てきた人物だ」
トアノは
戸へ伸ばしかかった手を、私は止めた。
この向こうに居るウツギは私にとっての新たな悪魔か。彼に会ってなんになる。
彼が私の未熟な精神が見せる
彼はどんな姿で存在しているのだろう。
私はウツギの姿や彼の性格をできるだけ鮮明に思い描こうとした。わずかながら、幾つかの単語が浮かびあがってきた。少年。冷静。
ウツギの核とは、なんだ。きっと大切だった、彼とは。
途端、私の内に不安が生まれた。彼は、ウツギは本当に戸の向こうに居るのであろうか、と。作者ですら彼の姿をはっきりと思い描けない今、彼は存在しているのだろうか。戸の向こうに広がる無人の教室を想像すると、手に力が入らなかった。
思わず一歩、後退ると、キミの肩にぶつかった。
「大丈夫、ちゃんと居るよ。ウツギは」
トアノが私の不安を見透かしたかのように言った。私はトアノとそしてキミの顔を見てから、もう少しだけ、このまま夢の世界に居ようと決め、戸を開けた。
開け放たれていた教室の窓から
「ウツギ……」
私の口を
もっとよく、彼の姿が見たかった。しかし、かつての友と再会できた喜びと、その人物を忘れていたという罪悪感はせめぎ合いながら、
「入ってきたら?」
ウツギが淡々とした口調でそう告げた。
「明かりをつけようか」
背後でトアノの声がしたことに気がついた。
「いや、いい」
私はウツギから目を離さずに答えた。この教室に差す、
「何しに来たの」
明確に、ウツギは私に向かって問いかけた。
「それは、ええと」
私は彼に
「トアノ。君が連れてきたんだろ」
「ああ、説明するよ」
トアノは私と並んでウツギに向き合った。
「ウツギの言うように、主人は僕がこっちへ呼んだんだ」
「だから、なんで? まさか前に言ってたこと、本当に実行するつもり?」
ウツギはそう問いかけるような言葉を口にしながらも、さして興味はないように見えた。
「そうだよ。彼らには消滅の一件で来てもらったんだ」
「彼らに睡中都市の消滅をどうにかしてもらうって?」
「そうさ。この睡中都市を救えるのは主人たち作家だけだからね」
ウツギはその大きな瞳で私をしっかりと
「それ、本気で言ってたの?」
「もちろん」
「
「そうかい?」
トアノにとって、ウツギに呆れられることは想定内であったようだった。
「当然だよ。今、睡中都市が消滅している原因はなんだ? 現実世界に生きる人間の意思だ。皆、
私たちに背を向ける彼の髪が、揺れた。
「もし、作家に否定された結果、僕たちやこの世界が消えるというのなら、僕はそれでいい。それに、トアノ。君の目的からすると、君が主人と呼んでいる彼が、もう一度作家に戻らなければならないじゃないか。そんなこと、できるのかい。第一、彼は自身の犯した最も大きな罪さえ忘れているんだろう」
「最も大きな、罪」
私はあまりにも多くのことを忘れているようであった。反射的にトアノの方を見ると、彼の顔が
「まあ、ね。でも、今はまだいいんだ。主人には思いだすべきタイミングで思いだすべきことだけを思いだしてもらうよ」
一向に陰ることのない残光を受けながら、私は頭の片隅で終の町には夜が訪れないのであろうと予感していた。
「僕たちは
空に向かって言葉を放ったウツギはゆっくりと振り返った。
「僕は、この町でそんな狂気に
「
ウツギの言葉は創作によって自らを生かしていたかつての私にまつわる、なんらかの
「でもね、ウツギ。主人は、いや、彼らは、この世界を、夢を、存続させたいと思ってくれているんじゃないかな」
「そんなわけないだろ!」
ウツギが大きな声を出した。
「だったら、答えてくれ! 君にとって現実とはなんだ。夢とはなんだ」
私を
「現実、夢」
応えかねている私にウツギは舌打ちをした。
「君たちが揃って口にする現実は必ず不幸だ。味わいたくない
静かな教室内に、ウツギの声だけが響いていた。
「理想は未熟な悪で、
ウツギから押し寄せる言葉の波が、彼の内に
「不幸になりたいなら、勝手にするがいいさ。でも、君たち作家の宣言は僕たちの精神さえ狂わせる。
彼の情動を受け止めてさえ、私は彼の言葉を、実感を
キミはどうだ? ウツギの言うことと私たちの生きる世界には
私はなんとか私の内部にある概念を分解し、再構築を試みようとした。しかし、やはりいつまでも理想や夢に生きることは不道徳なことであった。仮にそれを
「君たちの生みだした嘘の現実がどれだけ僕たちを不幸にしているか、君たちには知る義務がある」
ウツギは忌々しそうにそう言うと私たちが入ってきた戸とは反対側の戸へと歩きだした。
「ついてきて」
「え?」
「ウツギもこう言っていることだし、行こうよ。僕もついていくからさ。ね」
半ばトアノに急きたてられるようにして私たちは教室を後にした。
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