3話

 その日、広場は朝からどこか騒がしかった。午前の仕事を終えた防災担当が気になって様子を見に行くと、裂け目の周囲に人だかりができているのが見えた。

 群衆の中心には、一人の冒険者が立っていた。興奮した様子で声を張り上げ、右手には何かを高く掲げている。

 防災担当は眉をひそめながら足を速め、群衆の後方から背伸びしてその手元を覗き込んだ。

 ――それを見た瞬間、血の気が引いた。

 冒険者の手にあるのは、焦げ跡の残る布きれのようなもの。

 それが何であるか、防災担当にはすぐに分かった。まぎれもなく、設備担当が主導して仕掛けた火薬トラップの残骸――焼け焦げた火薬袋の切れ端だった。おそらく、ダンジョンの中に落ちていたものを誰かが拾い上げてきたのだろう。

 トラップは冒険者たちに気づかれぬよう、その日の夜に必ず回収していた。何度も動線を確認し、痕跡が残らないよう神経をすり減らしてきたはずだった。

 それでも、見落としがあった。

 ――まずい。

 背中を冷たい汗が流れた。

 もし役人が仕掛けていたと知られれば、冒険者たちからの信頼は地に落ちる。村に滞在してくれる理由そのものが消えてしまうかもしれない。成す術が浮かばぬまま立ち尽くしていると、男が叫んだ。

 「これはダンジョンの中で自然に生成されたものじゃない! 人為的に作られたトラップだ。間違いない。おそらく、ライバルの攻略を妨害するために設置されたんだ――“冒険者”の手によってな!」

 「誰だそんな真似をしたのは!」「俺たちは関係ないぞ!」

 群衆にざわめきが広がり、冒険者同士の言い争いが始まった。互いをにらみ、責任を押しつけ合う声が飛び交う。

 役人が疑われる事態は避けられたが、このままでは冒険者同士の戦闘に発展しかねないし、どちらにせよ誰かがじきに真相に気づいてしまうだろう。

 防災担当はひとまずその場を離れ、足早に役場へと駆け戻った。



 役場に駆け戻った防災担当が事情を説明すると、その夜、役人全員が招集され、緊急会議が開かれた。

 集まった面々の顔には、いつもの余裕や冗談めいたやりとりは一切なかった。誰もが、あの破片が見つかったという一報の重さを理解していた。

 火薬トラップが自分たちの手で設置されたものだと明るみに出るのは、もはや時間の問題だった。

 最初に口を開いたのは、会計担当だった。

 「……もう、トラップを仕掛けるのはやめましょう」

 その言葉に反論する者はいなかった。

 誰もが、どこかでその結論にたどり着いていた。ただ、口に出す覚悟がなかっただけだ。「そうだな」とうなずく者もいなかったが、皆の沈んだ表情が、実質的な同意を示していた。

 誰も、冒険者を騙して喜んでいたわけではなかった。 彼らが村に落とす金や、村人たちの生活が安定していくのを目の当たりにするうち、次第に“目的”が入れ替わっていた。

 村の利益、経済の安定、住人の期待――それらを守るために動いているはずが、いつしかその手段を正当化し、「止めるわけにはいかない」と思い込むようになっていたのだ。

 裂け目へ向かう冒険者たちの姿を、以前は「勇ましい」と見ていた。広場へ戻ってきては食堂で飯をかき込み、満足そうに笑う顔を、どこか誇らしく思っていた。だが気づけば、その同じ姿を、「止めなければ」と睨むようになっていた。

 「……しかし、この先はどうする?」

 ぽつりと、書記官が呟いた。静まり返った室内に、その声が響く。 トラップの設置をやめるということは、ダンジョンの攻略が進むのを容認することに等しい。冒険者たちの証言によれば、ダンジョンの奥からうなり声が聞こえるという。つまり、もう最奥部はすぐそこだ。このままいけば、数日もかからず“主”にたどり着き、討伐してしまうだろう。すなわち、ダンジョンの終わりを意味する。

 かつて「攻略後、ダンジョンは役目を終え、自然に崩壊する」という報告がもたらされた日の議論を、皆は思い返していた。あの日、代替案は山ほど出た。新たな観光資源の開発、名産品のブランディング、ダンジョン跡地を利用したアトラクション施設の案まで−−しかし、どれも「いま実行するには遅すぎる」と結論づけられていた。

 つまり、もう打つ手はない。

 沈黙が部屋を支配した。誰もが口を開こうとせず、ただ机に視線を落とし、己の指を見つめていた。

 「ダンジョンに残っているトラップがないか、確認してきます」

 ぽつりと防災担当が言い、椅子を立った。この状況で何をしても無意味かもしれないとわかっていながら、じっとしていられなかった。せめて、片づけられるものだけでも片づけておきたかった。

 会議室の扉をあけ、役場の受付に出たその時だった。


 目の前に、一人の男が立っていた。

 暗がりの中で見間違えかと思ったが、次の瞬間にははっきりと思い出していた。

 ダンジョンの裂け目が開いた初日、真っ先に挑みに行き、帰ってきてから食堂でチキンソテーを頬張っていた、あの冒険者だ。


 男は目を見開いたまま立ち尽くしていた。

 肩は小刻みに揺れ、濁った目は焦点が合っていないように虚空をさまよっている。

 口がかすかに動く。言葉にならない問いが、唇の端で震えていた。

 「お前たち、今……何の話を」

 防災担当の喉がひくりと鳴る。言い訳を、弁明を、と頭がフル回転するが、口から出るのはとぎれとぎれの音ばかりだった。

「違うんです、その、事情があって」

「事情というのはお前たちの利益か」

 男の視線が鋭く突き刺さる。

 その目には、怒りよりも深い感情――裏切られた者の痛みが浮かんでいた。

「盗み聞きするつもりはなかった。冒険者たちがトラップを巡って衝突し始めているから、相談しに来たんだ」


 男は拳をわなわなと震わせながら、防災担当と役人たちを見渡す。

「お前たちだったのか。仕掛けたのは」

 目の奥にあった火は、やがて静かな絶望へと変わっていった。

「宿や食事を手配してくれたことには感謝している。村人みなが暖かく出迎えて攻略を応援してくれていた。そう思っていたのに……お前たちには金を落とす道具にしか見えていなかったのか」


 防災担当は唇を噛みしめたまま、何かを言いかけては飲み込んだ。口を開けば、安っぽい言い訳が出てしまうのがわかっていた。

 後ろにいた他の役人たちも、何も言葉を返せなかった。

 誰一人、男と目を合わせることができず、ただただ俯くしかなかった。


 防災担当の胸に、じわりと冷たい汗がにじむ。

 心の中で、あり得る最悪の未来が走馬灯のように駆け巡っていた。

 冒険者たちの怒り、村人からの糾弾、混乱、責任の所在――すべてが彼らの頭上に重くのしかかっていた。


 もはやここまでか。会議室にいた誰もがそう思い詰めていた、そのときだった。


 低く鈍い震動が床を伝ってきた。

 直後、空気を裂くような甲高い音が、遠くから響いてきた。何かが軋み、叫んでいるような音。だがそれは獣の声とも違い、機械の悲鳴とも違っていた。

 会議室の空気が一変する。

 冒険者の男と役人たちは顔を見合わせ、一斉に立ち上がった。言葉は交わさずとも、すぐに行動へ移った。全員が事態の異常さを直感していた。

 夜の空気は冷たく、湿っていた。役場を飛び出し、広場へと駆けつけると、そこには今までにない光景が広がっていた。


 広場中央、裂け目の外壁の一部が崩れ、巨大な岩がいくつも転がっている。砕けた石が地面を削り、白い粉塵があたりに舞っていた。

 裂け目の中からは、今も音が続いていた。金属にも似た鋭い響きと、深くうねるような低音が交互に聞こえる。

 それは、何かが地の奥からせり上がってくるような、不気味で圧迫感のある音だった。

 村の家々からは、驚いた様子の村人たちが顔を出し、野営していた冒険者たちも寝袋やテントから這い出してきた。

 広場はあっという間に騒然となり、人々はダンジョンの裂け目を遠巻きに囲んでいった。

 だが、誰も近づこうとはしなかった。

 裂け目の奥から吹き出す、目には見えない圧のようなものが、足をすくませた。肌に感じる湿気とともに、空気が重くなっている。


 しかし、この音が何を意味するのか――冒険者たちには、おぼろげながらも察しがついていた。

 「このダンジョンの“主”か」

 役場から出てきた男が、誰にともなくつぶやいた。その声には驚きよりも、静かな納得がにじんでいた。「やはり、存在していたのか」

 書記官はその言葉を聞きながら、ふと脳裏に浮かんだ出来事に顔を曇らせた。

 確かに以前、冒険者の一人が「中層まで来ても主の気配がない」と報告していた。当時は、単なる勘違いか、あるいは主がまだ深く潜伏しているだけだと片づけていた。

 今まで眠っていたのか、あるいは侵入してくる冒険者や外の騒ぎの気配を察知して狂暴化してしまったのか……。小声で憶測を交わしながら、冒険者たちの間に緊張が伝搬していく。

 彼らは武器を手にし、ある者は盾を構え、ある者は魔法詠唱の準備を整えはじめていた。しかし、誰もがすぐに突入しようとはしなかった。ただ、その音を聞き、空気の震えを感じ、何が出てくるのかを恐れている。


 そして――一瞬、あれほどしきりに鳴り続けていた異音がぴたりと止んだ。

 静寂。風さえ止まったかのような張り詰めた空気。誰もが呼吸を忘れたかのように動かず、ただ耳を澄ませていた。

 その沈黙を打ち破るように、次の瞬間、大気を割くような凄まじい轟音が響き渡った。大地が揺れ、耳の奥に響く重低音が全身を貫いた。

 遅れて舞い上がる土埃が広場一帯を覆い、視界を奪った。目の前の景色が一面茶色に染まり、何が起こったのか理解できないまま、村人たちは身を屈め、顔を覆った。

 空気を切り裂くような強風ののち、空の一角が一瞬、白く閃いた。すっかり夜目に慣れていた人々の視界に、その閃光は鋭く突き刺さり、悲鳴にも似た息があちこちから漏れた。

 まばたきの合間に見えたのは、空をゆっくりと舞い上がる、巨大な影。

 土埃が晴れるにつれ、その姿がはっきりと浮かび上がった。夜空に溶け込みかけながらも、月の光を反射して不規則に煌めく、無数の鱗。それは厚く、鈍い黄土色を帯びていた。

 その背には、大きく張り出した二枚の翼。そして、頭には渦を巻くように左右に伸びた長い角。形容のしようもない圧倒的な存在感が、視界のすべてを支配した。


 それは、ドラゴンだった。

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